再確認 或いは起動
さて、密室だと確認出来たはいいが、俺にはもう一つやらなければならないことがある。
霧生から言い渡されたもう一つのミッション────相模朋美が、密かにトイレを倉庫内で済ませたか否かを確かめておくことである。
正直なところ、これは無いだろう、と思っていた。
もし、彼女がそういった行為をしていたのであれば、そもそも食堂の中で、あんな風に振り返ったりはしなかっただろう。
彼女からすれば、口に出したくもない恥ずかしいことだからだ。
そして────その予測は、あっさりと肯定された。
理由は簡単。
倉庫内が、かなり汚かったからである。
「というか、埃だらけだな……」
ジャンプに忙しかったために気が付かなかったが、よくよく見てみれば倉庫の床には、うっすらと埃が積もっている。
それも、どこの床でも、満遍なく。
恐らく、掃除も何もされていないため、埃が積もりに積もっているのだろう。
勿論、部活が始まる度に道具を出し入れするため、生徒たちが歩いたところは埃が無くなる。
だが、無くなってもすぐに棚や天井から埃が降り積もるのか、基本的に床の全てに埃が存在した。
それこそ、先程ジャンプしたところだけ、風圧で埃が薄くなっているだけである。
「これでこっそりトイレをした、というのは無いな……」
倉庫の中で、そう一人ごちる。
そういったことをしていたのであれば、当然その個所は後で掃除をしたはずだ。
つまり、掃除をされた場所だけは埃が薄いか、せめて濡れた跡、拭いた跡があるはずなのである。
にも関わらず、床の全てに埃が薄く積もり、濡れた跡も無いということは、そんな行為は無かった、ということだ。
ただ────。
そこで、俺は先ほどまでジャンプの目標としていた窓の方を見た。
「まさか、トイレだけはあの窓からした、なんてことはないよな……排泄の瞬間にジャンプして……」
思わず口に出し、同時に俺はその非現実さに吹き出した。
あり得ない。
いくら何でも不可能だろう。
どれだけアクロバティックな体勢と、ジャンプ力が必要となるのか。
だいたい、そこまでできるのなら、その体力で窓から外に出て、家に帰るか校舎のトイレに向かうはずだ。
しかし。
一応。
念のため。
俺は、倉庫の外に出て、外側から倉庫の窓を見られる位置に向かった。
仮に相模朋美がそのアクロバティックな行いをしたのであれば、外の壁や床が濡れるからである。
体育館と倉庫の間の、細い道。
安っぽいコンクリートで舗装されているだけの、路地のような場所。
そこの様子を、とりあえず確認しに行った。
これで外に濡れた跡などがあったら凄まじかったのだが──その場合は最早「日常の謎」というより怪奇現象だ──勿論、そんな物は無かった。
時間経過で乾いた、という可能性もあるが、まあ、常識的に考えて、そんなことはなかったのだろう。
それを確認した俺は、途端に馬鹿馬鹿しくなった。
何というか、今の自分の状況そのものが、アホらしくなってきたのである。
霧生も言っていたが、今俺がやっていることは、他人の排泄行為の痕跡を必死に探している、という変態行為である。
どこからどう見ても変質者の所業だ。
確かに奇妙な話ではあるが、こうも勘に従うのも考え物だ────。
そう考えた瞬間。
俺の勘が、背後からの気配を察した。
瞬間、反射的に振り返る。
何か確信があったわけでは無いが、今、俺は他人の気配に敏感になっている。
前述したように、人様には言えないような行為をしているからだ。
言い訳は用意していない。
同級生などに目撃されては、少々困ったことになる。
しかし、幸いにしてそこにいたのは、同級生ではなかった。
「もし、学生さん」
オーバーオールを来た、五十代と思われる用務員さんが、そこにはいた。
そして、こんな気になることを言った。
「梯子を、取りに来たのかい?」
「……は?」
こればっかりは、勘を使わずともわかる。
何か、気になる情報が聞けるチャンスだ。
そう考えた俺は、素早く路地から体を出し、倉庫の前────用務員さんが佇んでいる場所にまで戻った。
そして、早口で問いかける。
「梯子って何ですか?どういう意味ですか?」
「いや、それは……」
俺の勢いに押されたのか、用務員さんが体を引きながら口をもごもごとさせる。
まさか、ここまで熱心に聞いてくるとは思っていなかったのだろう。
俺の真剣さに、彼はかなり混乱しているようだった。
だが、俺が詳細を聞きたがっていることだけは分かったのか、やがて彼は口を開いた。
「いや、そこに君がいたのは、朝の梯子を取りに戻ったのかと思って……」
「朝?」
「ああ、今朝、俺はそこに梯子を立てかけられているのを見たんだ。まあ、すぐに片づけたが……。あれは、君が出したものではないのかい?てっきり、取りに来たのかと思ったんだが」
首を振って否定しておきつつ、俺はその情報を咀嚼する。
そこ、というのは、話の流れからしてあの窓の下、倉庫の外壁だろう。
そして今朝、というのは勿論、相模朋美が発見された、今日の朝のことだ。
──今日の朝、あの窓の下には梯子が置かれてあった……?
偶然にしては、出来すぎている。
目的が分からない────いや、目的が分かりやすすぎる分、逆に話が見えなかった。
あの窓は、先程の様子では常時開けっ放しの様だった。
そして、その窓の下に梯子があったということは。
当然、何者かが窓を通して倉庫の中に入ろうとしていた、ということだ。
相模朋美が中に居る倉庫に。
いや、或いは相模朋美自身が……?
それは、何の意味を持っているのだろうか。
少しでも確かめたくて、俺はもう一つ質問した。
「……その梯子って、いつでもあそこにあるんですか?」
「まさか」
そう言って、今度は用務員さんの方が首を振る。
そして、おもむろに彼の右方、体育館のさらに向こうにある校庭の隅を指さした。
「普段、梯子みたいな備品はあそこに並べているんだよ。よく使うから……」
彼の指先に合わせて視線をずらせば、確かに遠方に梯子やらロープやらが積んでいる場所があった。
行ったことが無いので知らなかったが、あそこが資材置き場らしい。
あまりによく使うため、倉庫の中にすら置かれず、外で野ざらしになっているようだ。
盗難されないかどうかが心配になる配置だ。
「ただ、ああやって放置してあるから、生徒さんが掃除で勝手に使ったりするんだよ。まあ、減るもんじゃないからいいんだが……。それで、使った後元の場所に戻さないで、放置してあることもよくあることだ」
まあ、それを置き直してやるのも仕事の内だが。
最後にそんなことを、彼は付け足した。
どうやらその業務の一環として、彼は今朝、梯子を見つけたらしい。
窓の下に放置されている梯子を。
そして、いつも通り、元の場所に帰した。
彼が俺に話しかけてきたのは、まさに梯子が置かれていた場所に俺がいたために、その梯子を置いた生徒だと勘違いしたからだろうか。
自分で置いた梯子を、取りに来たものだと。
まあ、実際は違うのだが、おかげで俺は気になる話を聞けたわけだ。
用務員さんにお礼を言って、適当に話を打ち切り、その場を立ち去る。
そして、俺は第二図書室へと駆けだした。
「戻った、ぞ……」
「ああ、お帰りって言うのも変な言い方だけど、お帰りなさい」
そう言って、霧生が微笑む。
だが、俺はそれよりも先に、霧生が目の前で開いている物に視線を向けた。
煌々と青い光を照らす、ノートパソコンを。
ノートパソコンなど、この部屋で今まで見たことが無い。
そのせいで、俺は自分が聞いてきたことよりも、まずそれを聞いてしまった。
「どうしたんだ、それ……」
まさかこいつ、人には少し恥ずかしい内容のことを調べさせておいて、自分はネットサーフィンに勤しんでいたのではないだろうか、という疑念も込めて、疑問を放つ。
しかし、さすがにそんな理由では無かったらしく、霧生はああ、これか、と言ってすぐに説明をした。
「この部屋の備品だよ。蔵書を管理しておくために、一応置かれてあるんだ」
「ああ、バーコード管理用の……」
「そう。ちょっと調べたくてね、私用だけど使わせてもらっている」
そう言いながら、彼女は顔をこちらに向けた。
「それで、そっちはどうだったんだい?」
「ああ、色々、気になる話が聞けた」
こう話題を向けてきたということは、まずこちらが話さなければ、その調べたいこととやらも聞かせてはくれない、ということだろう。
そう思った俺は、一先ずは席に座り、今まで確認したことを霧生に語った。
勿論、用務員さんの話も含めて、全てを、だ。
霧生は、一週間前のようにふんふんと頷きながら話を聞いていた。
そして、最後まで聞き終わってから口を開く。
「興味深い話だ。おかげで仮説が補強された……だったら、これを見た方が話が早いだろう」
そんなことを言って、霧生はノートパソコンを回転させ、こちらに画面を向ける。
促されるままに覗き込んでみれば、画面上では、あるホームページが開かれていた。
「あるバンドのホームぺージだよ。インディーズだけど、それなりにファンがいるグループらしいね」
霧生が解説してくれるが、生憎と音楽には詳しくないため、はあ、としか言えない。
向こうからすれば失礼な話かもしれないが、インディーズのバンド名まではさすがに知らなかった。
「注目するべきなのは、その下にある写真だよ。よく見てみてほしい」
そう言われて、俺はスクロールする。
確かに、霧生の言う通り、そこには写真が貼られてあった。
どうやらこのバンドは、昨日の夜────正確には、昨日の深夜から今朝にかけて、夜通しでライブをやっていたらしい。
その内容が、ホームページ上ではブログ形式で綴られていた。
バンドメンバーが、ライブ後に更新したのだろう。
その写真は、ライブの様子を映したものだった。
写ってあるのは、当然熱唱するメンバーたち。
そして、カメラの角度によるものか、観客席の様子も多少写っていた。
最前列で、タオルを振っているファンたちの姿が見える────。
「あれ、これ……」
そこで。
ある物が目に入り、俺は声を漏らした。
「気が付いたかい?」
「気が付いたも何も……」
少しだけ震えた声で、俺は写真を指さす。
無理もないだろう。
その写真は、あり得ない写真だった。
「何で、彼女が、昨夜のライブの写真に写っているんだ?」
貼られてある写真の、隅。
そこには、見覚えのある顔が存在した。
相模朋美。
彼女の顔が、昨夜のライブの写真に、存在している。
彼女は、最前列でタオルを振っているファンの、一人だった。
あり得ない。
彼女は、昨晩から倉庫に閉じ込められている、という話である。
トイレに行っている様子が無い、という謎こそあったが、大枠はそういった話だった。
しかし、その彼女が、夜通し行われたライブの写真に写っている────。
霧生は、俺の反応を楽しんだのだろう。
いかにも面白そうに、俺の顔を見つめた。
そして、再び。
探偵特有の、あの言葉を口にした。
「さて────」