最終話 今日、私は……。
「……ちゃん……真琴ちゃんっ!」
誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。途切れかけた意識が急激に覚醒する。
「んっ……」
瞼を開くと、先輩の顔が視界に入った。
目をうるませて、今にも泣きそうになっている。
必死に私に呼びかけてくれたのも、先輩の声だ。
目が覚めると、私はベッドに寝かされていた。やけに清潔感が漂う見慣れない部屋は、ちょっとだけ学校の保健室に似ている。たぶんここは病院だろう。
腕には点滴の針が刺さっていて、お腹には包帯が巻かれている。
私は助かったのだ。まずはその事にホッと一安心した。
「真琴ちゃぁぁああああんっ! 生きてて良かったぁぁああああああっっ!!」
先輩はそう叫ぶや否や、私に抱き着いた。そして胸に顔をうずめると、人目もはばからずにわんわん声に出して泣き出す。
「俺……真琴ちゃんが死んじゃったらどうしようって、心配で……心配で……」
私の腕に抱かれたまま、母親に甘える子供のように泣きじゃくる。目から大粒の涙がボロボロと溢れ出す。そんな先輩の頭を、私は慰めるようにそっと優しく撫でた。
そんなにも私を必要としてくれてた事が……心の底では、凄く嬉しかった。
もう先輩にとって私は、家族のようにかけがえの無い大切な女なんだ。
その事に私は安らぎのような感情すら覚えた。
「私を刺した女は……どうなりましたか?」
ひとまず、あの女の所在について問いかけた。私が入院して動けない間に、再び刺しに来られては、たまったものじゃない。その事を気にかけたら、とても安心して寝られなかった。
先輩は一旦泣き止むと、濡れた顔を袖で拭いながら、ゆっくりと立ち上がる。
いっぱい泣いて気持ちを爆発させたら、だいぶ落ち着いたようだ。
「萌華なら……あの後、警察に捕まったよ。今は留置場の中にいる」
質問に答えながら、少しだけ暗そうな顔をした。元カノのしでかした事に、自分なりに責任を感じてるみたいだった。
私は先輩の事が、ちょっぴり気の毒に感じた。
先輩は何も悪くない。責任を感じる必要なんて、全く無いのに……。
「俺……真琴ちゃんにいっぱい輸血したんだよ。同じO型だったから。真琴ちゃんが無事で、本当に良かった……」
先輩は気を取り直して顔を上げると、私にそう告げる。そして心の底から無事を喜ぶように、安堵の笑みを浮かべた。
「……」
先輩の言葉を聞いて、私は胸がキュウッとなった。そしてちょっとだけドキドキした。
先輩はたくさん血を分けてくれたんだ。それが無かったら、私は今この世にいなかったかもしれない。先輩は私を救ってくれた、命の恩人なんだ。
確かに私とのエッチは、とても気持ちよかったかもしれない。
でもきっとそれだけじゃない。先輩は心の底から、私の事を大事に思ってくれてる……真剣に私の事を、愛してくれてるんだ。
最初はただ復讐に利用するために近付いたのに……エッチ一発でなびく、チョロい男だと思ってたのに。先輩の純粋さに心を打たれて、私は自分が恥ずかしくなった。
「先輩……実は」
一瞬、真実を話すべきかどうか迷った。
「いえ……何でもありません」
でも、言えなかった。
先輩を傷付けたくなかったから? いや、そんなんじゃない。
私は自分が嫌な女だと自覚してる。誰よりも私自身が一番それをよく分かってる。
でも先輩に嫌な女だと思われるのだけは、避けたかった。
先輩に嫌な女だと思われて嫌われる事に、耐えられなかった。
私は卑怯で、ずるい女だ。
本当なら、純粋で真っ直ぐな先輩の彼女になる資格なんて、無いくらいに。
それでも、先輩と離れるのは嫌だった。ずっと一緒にいたかった。
私は、ずるい女だ。
◇ ◇ ◇
刺された翌日……私は病室のベッドで横になりながら、気晴らしにテレビを付けた。
祖母が見舞いに持ってきたバナナを、自分で皮を剥いて食べながら、ニュース番組を見ていた時だった。
「ニュースの時間です。昨夜未明、公立高校に通う女子生徒が、留置場内で死亡しました」
……えっ!? 私は一瞬耳を疑った。
テレビの音量を倍にして、一字一句聞き漏らさないように、画面に釘付けになった。
「死亡したのは鷹山萌華さん十六歳で、男子生徒との交際関係を巡るトラブルから、同校に通う女子生徒に対する殺害未遂の現行犯で逮捕されていました。検死の結果、死因は窒息死との事です。雑巾を喉に詰まらせた事などから、自殺を図ったものと見られており……」
あの女が死んだ……自殺した。
そんな……まさか……どうして? そんなの、とてもありえない。
彼女の死を知らされた時、私の中にあったのは、仇敵の死に対する喜びでもなければ、深い悲しみでも無かった。
ただただ驚き、戸惑う事しか出来なかった。
そこまでするつもりなんて、なかった。
恨みを百倍にして返すと言ったが、あれは言葉のあやだ。
私はやられた事をやり返せたら、それで十分だったんだ。
それ以上の事は望まなかった。
彼女の人生まで壊すつもりなんて、なかった。
こんなはずじゃなかった。私のせいじゃない。私は悪くない。
彼女が勝手に自分の人生に悲観して、勝手に絶望して、勝手に一人で死んだんだ。私がそうしてくれと頼んだわけじゃない。
そうだ。彼女が悪いんだ。私は悪くない。
私のせいじゃない。私のせいじゃない。私は悪くない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃ……。
私は目を閉じ、耳を塞いで、私の中に湧き上がった罪悪感から、必死に目を背けようとした。
それでも彼女に対して、ごめんなさいとか、すまなかったとか、謝る気にはなれなかった。
それをしたら、私が悪かったと認めた事になる。
だって……だって本当に私は、悪くないんだもん。
あの女は一生解けない呪いを、私に掛けた。
彼女の死を知らされた時、先輩は責任を感じて深く落ち込んだ。
そんな先輩に、私は真実を隠したまま、慰めるように優しく寄り添う。
まるで互いに心の傷を舐め合うように……私たちの関係は終わる事なく続いた。
そして何度も体を重ね合った。悲しい過去を、少しでも忘れようとするために……。
◇ ◇ ◇
――――あれから十年。
私たちは結婚した。
先輩……いや私の夫となったあの人は、今は工場で働いている。
稼ぎは、まぁまぁだ。生活には不自由していない。父の死後に入った保険金の蓄えも、まだ十分に残っている。
夫は大人になっても優しい性格のままでいてくれて、私の言う事なら何でも聞いてくれる。父とは異なるタイプの男性だが、私は気に入っている。
夜の営みにも励んでいる。毎晩二人でエッチな動画を見ては、いろんなプレイを試している。私がノリノリなので、夫も気持ちよさそうにしてくれる。夜の生活は楽しい。周囲からすれば、私たちはアツアツでイチャラブ夫婦だった。
私たちにとってエッチは、現実逃避の手段だった。気持ちよくなっている間だけは、あの女の事を忘れられたからだ。その事が皮肉にも、私たちの夫婦仲を深めてくれた。
子供も生まれた。今年五歳になる、元気な女の子だ。
私に似たのか、やんちゃで手が掛かる子だが、目に入れても痛くないほどかわいい。
私と夫の遺伝子を受け継いだ子と思うと、足の指先から、髪の毛一本に至るまで、全てがいとおしい。この子にはのびのびと育って欲しい。
私は今、とっても幸せだ。バチが当たるくらいに……。
あの女が死んだ後、彼女の弟や両親がどうなったかは知らないし、興味も湧かない。
深い悲しみに突き落とされたかもしれない。家族はバラバラになったかもしれない。いずれ私に復讐しに来るかもしれない。
かつて私がそうしたように……。
いずれそうなるだろうと覚悟はしている。
あれから十年の間に、復讐される気配は一向に無かった。
それでも、これから五年先、十年先、二十年先、あるいはもっと……。
復讐の影に怯えて生き続ける事が、私に課せられた罰。
それでも私は構わない。
たとえこの先何が起こって、全てを失う事になったとしても、今この瞬間だけは、最高に幸せだから。
「ママーー、はやくこっちきてーー」
公園のベンチに座って、物思いにふけていると、娘が元気な声で私を呼ぶ。
「ウフフ……もう、はしゃいじゃって」
私は優しく笑いかけながらベンチから立ち上がり、娘の元へと向かう。
ふと空を見上げると、雲一つ無い青空が広がっていた。
その時、空は晴れていたけれど……美しい青空も、見晴らしの良い公園も、草むらで元気に遊ぶ子供たちも……私の目に映る景色全てが、灰色に染まって見えた――――。
―THE END―
繰り返し 繰り返す
だが、それでも生きている。