第6話 練習場という最初の壁
宇和島市役所での市長との面談を終えたあと、北島岳は、しばらく庁舎の前で立ち尽くしていた。
春の風が海の匂いを運んでくる。
市役所の白い外壁が、陽光を受けて眩しく光っていた。
(……本当に、動き出したんだな)
胸の奥に、まだ慣れない熱が残っている。
「たけし、行くぞ」
三好大悟社長が、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。
「え、どこへ?」
「地域スポーツ課だ。市長が“話を通しておく”と言っただろうが、実際に動くのは現場だ」
その言い方は、妙に現実的で、妙に頼もしかった。
地域スポーツ課は、市役所の三階にあった。
廊下には、地元の少年野球チームの写真や、マラソン大会のポスターが貼られている。
ノックすると、中から声がした。
「どうぞー」
扉を開けると、四十代半ばほどの男性が書類の山に囲まれていた。
眼鏡をかけ、少し疲れた表情だが、目は鋭い。
「宇和島市地域スポーツ課の課長、田淵です。どうぞお掛けください」
三好が名刺を差し出す。
「宇和島オレンジトレーディングの三好です。こちらがクラブ代表の北島」
「北島です。よろしくお願いします」
田淵は名刺を受け取り、軽く頷いた。
「市長から話は伺っています。……サッカークラブを作りたい、と」
「はい。宇和島オレンジエクストリームです」
岳が言うと、田淵は少しだけ目を細めた。
「面白い名前ですね。勢いがある」
三好が笑った。
「勢いだけはあるんでな」
「勢いは大事ですよ。スポーツは特に」
田淵は書類を整え、真剣な表情になった。
「ただし――練習場の確保が最大の問題になります」
岳は息を呑んだ。
(やっぱり……そこか)
田淵はホワイトボードに地図を貼り、ペンで丸をつけていく。
「宇和島市内でサッカーができる場所は、大きく分けて三つです」
一つ目の丸。
「まず、宇和島市総合運動公園。ここは市内最大のグラウンドですが、
少年野球、陸上、学校行事でほぼ埋まっています」
二つ目の丸。
「次に、宇和島東高校のグラウンド。ここは学校の許可が必要ですが、部活動でほぼ毎日使用されています」
三つ目の丸。
「最後に、廃校になった旧・三間中学校のグラウンド。ここは比較的空いていますが……」
田淵は言葉を濁した。
「……ですが?」
「雑草が腰まで伸びていて、ラインもゴールもありません。水はけも悪い。正直、使える状態ではない」
三好が腕を組んだ。
「整備すれば使えるか?」
「可能性はあります。ただし、費用がかかります。市としても予算は限られていますから……」
田淵は岳を見た。
「北島さん。クラブとして、どこまで負担できますか?」
岳は答えに詰まった。
(クラブとして……? まだ何もないのに……)
だが、逃げるわけにはいかない。
「……できる限りのことはします。ただ、会社の規模を考えると、すべてを負担するのは難しいかもしれません」
「正直でいい」
田淵は頷いた。
「では、こうしましょう。旧三間中学校のグラウンドを“仮の練習場候補”とします。
そのうえで、市とクラブで協力して整備計画を作る」
「整備計画……」
「はい。草刈り、土の入れ替え、ゴールの設置、ライン引き。最低限でもこれだけ必要です」
三好が口を開いた。
「市はどこまで協力できる?」
「草刈りと、最低限の整地までは可能です。ただし、ゴールやライン、備品はクラブ側でお願いしたい」
「なるほど」
岳は、胸の奥に重みが落ちてくるのを感じた。
(ゴール……ライン……備品……全部お金がかかる)
だが、田淵は続けた。
「ただし、地域の協力を得られれば話は変わります。
地元の企業、学校、PTA、スポーツ少年団……宇和島は、意外と“やると決めたら動く街”ですよ」
その言葉に、岳の胸が少しだけ軽くなった。
「……そうなんですね」
「ええ。だからこそ、まずは“本気”を見せてください。クラブとして、地域に挨拶回りをする。
学校や少年団に顔を出す。そうすれば、協力者は必ず現れます」
三好が笑った。
「たけし、聞いたか?」
「はい……」
「お前の出番だぞ」
岳は深く息を吸った。
(地域に……挨拶回り……)
自分にできるのか。
不安はある。
だが――
(やるしかない)
その思いが、胸の奥で静かに固まっていく。
市役所を出ると、午後の日差しが街を照らしていた。
三好がポケットからミカンジュースを取り出し、岳に一本渡す。
「飲め。うちの看板だ」
「ありがとうございます」
二人で並んで歩きながら、岳は言った。
「社長……練習場、なんとかなりますかね」
「なんとかするんだよ」
三好は迷いなく言った。
「たけし。クラブ作りってのはな、“できるかどうか”じゃない。“やるかどうか”だ」
その言葉は、妙に胸に響いた。
「まずは草刈りだ。俺も行くぞ」
「えっ、社長も?」
「当たり前だろ。社長が汗かかんでどうする」
岳は思わず笑った。
(この人は……本当に、前だけ見てるんだな)
その背中を見ながら、岳は思った。
(俺も……前を向かないと)
宇和島の空は、どこまでも青かった。
その下で、クラブ創設の“最初の壁”は、確かに姿を現していた。
だが――
その壁は、越えられない高さではない。
北島岳は、そう信じ始めていた。




