第一話「旅商人と道中」
旅をする人間には、二種類いる。
何かを求めて旅をする者と、何かを追って旅をする者だ。
前者は明るい。目的地がある。辿り着けば、そこに何かが待っている。
後者は少し違う。追う相手が逃げ続ける限り、旅は終わらない。辿り着けるかどうかも、分からない。それでも足を止められない。
レイヴン・アークレイは、旅商人だ。
各地を巡り、魔道具を売り、困った人間を見かければついでに助ける。飄々として、軽くて、底が見えない。そういう男だ。
ただ、一つだけ。
彼の荷の奥には、古びた木箱がある。
その中に何が入っているかを知る人間は、今のところ、この世界にいない。
これは、そういう男の話だ。
静かに笑いながら、誰よりも重いものを抱えて旅をする男の、長い長い旅の話だ。
街道は、静かだった。
砂埃が風に舞い、遠くの山並みが霞んでいる。空は高く、雲は薄い。午後の日差しが石畳の上に長い影を作っていた。
その道を、一台の荷車がゆっくりと進んでいた。
大きな荷車だ。幌が張られ、側面には「レイ商会・何でも屋」と少々胡散臭い文字が書かれている。引いているのは牛だ。黒く、がっしりとした体躯の牛が、重い荷車をものともせず、一定のペースで歩いている。
ただし、よく見ると少しおかしい。
牛の目が、普通の牛と違う。瞳の奥に、かすかに青い光が宿っている。継ぎ目のような線が、体のいたるところに走っている。呼吸をしていない。
荷車の御者台に、一人の男が座っていた。
黒い外套。丸い眼鏡。黒髪はやや長く、無造作だ。細い目は半分閉じていて、眠いのか考えているのか、判断がつかない。仕込み杖を膝の上に横たえ、頬杖をついて、どこか遠くを眺めている。
「グラディウス」
男が呟いた。
牛の耳がぴくりと動いた。
「次の町まで、あとどのくらいッスかね」
牛は答えない。当然だ。しかし首を一度、左に向けた。その先に、小さな町の輪郭が霞んで見えた。
「……近いッスね」
男はゆっくりと背を伸ばした。
「ちょうどいいッス。腹も減ったし」
グラディウスの耳が、もう一度ぴくりと動いた。
町の名はベルタ。
街道沿いの小さな宿場町だ。旅人が一泊して通り過ぎる、それだけの町。特産品も名物もない。ただ、宿と食事と、ささやかな市場がある。
荷車が町の入口に差し掛かると、門番の老人が目を丸くした。
「おお、レイさんじゃないか」
「お久しぶりッスねぇ、ベルタのご老体」
男、レイヴンは御者台から軽く手を上げた。
「また来てくれたのか。みんな喜ぶぞ」
「商売ッスから」
レイヴンは笑った。
「それに、ここの宿の飯が好きなんスよ」
老人はからからと笑って、門を開けた。
市場は小さかった。
露店が十数軒、石畳の広場に並んでいる。野菜、布、日用品。どれも素朴で、値段も安い。旅人相手というより、町の人間が買い物をする場所だ。
その一角に、レイヴンは荷車を止めた。
グラディウスを繋いで、幌をめくる。中には整然と並んだ木箱と棚。魔道具、薬草、日用雑貨が丁寧に収められている。
「さてと」
レイヴンは眼鏡を直して、軽く手を叩いた。
「開店ッス」
最初の客は、三十代の女性だった。腕に幼い子供を抱えている。
「あの、レイさん。前に買った魔力灯なんですけど」
「ああ、点きが悪くなってきましたか」
「そうなんです。でも新しいのを買うお金が……」
「ちょっと見せてもらっていいッスか」
レイヴンは魔力灯を受け取り、眼鏡越しに覗いた。それから小さな工具を取り出して、裏蓋を開ける。指先が素早く動く。
「魔力核の接触不良ッスね。簡単に直せますよ」
二分もかからなかった。
魔力灯が、以前より明るく光った。
「修理代はいいッスよ」
「え、でも」
「次に壊れたらまた来てください。その時に払ってもらえれば」
女性は少し目を潤ませてから、深く頭を下げた。子供がレイヴンを見上げて、にこりと笑った。
レイヴンはそれを見て、照れたように頭を掻いた。
昼を過ぎた頃、広場が騒がしくなった。
怒声が聞こえる。複数の男の声と、女性の悲鳴が混じっている。
レイヴンは手を止めた。
耳をすませる。
判断は三秒だった。
「グラディウス、店番頼むッス」
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
広場の奥、宿の前に五人の男がいた。
旅人風だが、目つきが違う。腰の剣の下げ方が、喧嘩慣れしている人間のそれだ。その前に、宿の主人らしい中年の男が立っている。顔が青い。
「話は簡単だ」
五人のうち一人、顎に傷のある男が言った。がらの悪い、低い声だ。
「この宿、俺たちに売れ。値段はこっちで決める」
「そんな……ここは先祖代々の」
「黙れ」
宿の主人が黙った。周囲の人間は遠巻きに見ているだけだ。誰も動かない。
レイヴンはその光景を、人垣の外から眺めた。
五人。全員剣持ち。魔力の練り方から見て、二人は魔法使いの心得がある。残り三人は純粋な剣士。統率は取れている。素人の野盗ではない。
レイヴンは仕込み杖を右手に持ち直した。
「すみませんねぇ」
人垣をくぐって、広場に入った。
五人の視線が集まる。
「ちょっといいッスか」
レイヴンは笑顔のまま言った。柔らかい、人好きのする笑顔だ。
「その宿、気に入ってるんスよ。飯が美味くて」
顎傷の男の目が細くなった。
「……何だお前」
「旅の商人ッスよ」
「消えろ。関係ない奴は引っ込んでろ」
「そういうワケにはいかないんスよ」
レイヴンは言った。
笑顔のまま。しかし声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。柔らかさの下に、何か重いものが滲んだ。
「困った人を見て見ぬふりは、性に合わないッスから」
顎傷の男が顎をしゃくった。
五人が同時に動いた。
剣を抜く者、魔力を練り始める者。連携が取れている。明らかに場数を踏んだ動きだ。
レイヴンは動かなかった。
ただ、仕込み杖を軽く構えた。
次の瞬間、何が起きたか、見ていた者のほとんどには分からなかった。
音がしなかった。
光もなかった。
ただ、五人が順番に、地面に崩れ落ちた。
一人目が膝をついた瞬間、二人目が壁に背をつけた。三人目と四人目が同時によろめいた。五人目、顎傷の男が最後まで立っていたが、それも三秒と持たなかった。
全員が意識を失っている。傷はない。血も出ていない。
レイヴンは杖を肩に担いで、軽く息をついた。
「魔力経路を一本ずつ止めただけッスよ」
誰に言うでもなく呟いた。
「しばらくしたら目が覚めるッス。その前に縄でも打っておいた方がいいッスね」
宿の主人、ドルトは最初、言葉が出なかった。
五人の男たちが地面に転がっている広場を見て、それからレイヴンを見て、また広場を見た。
「あの……」
「縄、ありますか」とレイヴンは言った。
「衛兵が来るまでの間、縛っておいた方がいいッス」
「あ、ああ……」
ドルトはようやく動き出した。周囲の人間も、我に返ったように動き始める。縄が運ばれ、男たちが縛られ、誰かが衛兵を呼びに走った。
その間、レイヴンは広場の端に腰を下ろして、グラディウスの頭を撫でていた。いつの間にか牛型から犬型に変形したグラディウスが、レイヴンの隣にちょこんと座っている。
「店番、お疲れッス」
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
衛兵が男たちを連行した後、ドルトがレイヴンの前に立った。
「あなたのおかげで助かりました。本当に、何とお礼を言えば」
「飯で充分ッスよ」とレイヴンは笑った。「腹が減ってるんで」
ドルトは一瞬きょとんとして、それから破顔した。
「飯だけで済むもんか。今夜は宴だ。この町で一番の料理を出してやる!」
日が暮れる頃には、広場に人が集まっていた。
たき火が焚かれ、料理が並び、酒が出た。町の人間が思い思いに集まって、笑い声が広場に満ちている。レイヴンが事件を解決した、という話はあっという間に広まったらしく、見知らぬ人間から次々と酒を注がれた。
「レイさん、もう一杯どうだ」
「いやぁ、もう充分ッスよ」
「遠慮するな。うちの町を救ってくれたんだぞ」
「そんな大げさな」
レイヴンは苦笑しながら、杯を受け取った。
正直、嫌いじゃなかった。
賑やかな場所が特別好きというわけではない。しかしこういう、飾らない温かさは、旅の中で時々恋しくなるものだ。
広場の隅では、グラディウスが犬型のまま子供たちに囲まれていた。
「わあ、ふわふわだ」
「動いた動いた」
「お座りできる? お座り!」
グラディウスは子供たちを見回して、それからゆっくりとお座りをした。子供たちが歓声を上げる。
レイヴンはそれを眺めて、小さく吹き出した。
「……意外とサービス精神あるんスね、あなた」
グラディウスはこちらを一瞥して、また子供たちの方を向いた。
その耳が、誇らしそうに立っていた。
宴が深まるにつれ、ドルトが隣に座ってきた。
酒で顔を赤くした、人の良さそうな中年男だ。
「レイさんは、どこから来たんですか」
「いろんなところッスよ」とレイヴンは言った。「旅商人なんで、あちこち」
「これからはどちらへ」
「メイセキの方へ向かおうかと」
ドルトは少し目を細めた。
「メイセキ……北の鉱山都市ですね。最近、あちらは物騒だと聞きましたが」
「物騒、ッスか」
「ええ。知り合いの商人が先週戻ってきましてね」ドルトは声を少し落とした。「鉱山で魔物が大量に湧いているとか。それも普通じゃない数だと。何か奇妙な魔力の歪みが原因じゃないかって」
レイヴンは杯を口に運んだ。
表情は変わらない。笑顔のままだ。
しかし目が、ほんの少しだけ動いた。
「……奇妙な歪み、ッスか」
「ええ。まるで意図的に作られたみたいだ、って言ってましたよ」
レイヴンは静かに杯を置いた。
賑やかな広場の音が、遠くなった気がした。
「そうッスか」
呟いて、たき火の炎を眺めた。
ドルトは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
二人はしばらく、並んで火を見ていた。
宴が終わったのは夜半近くだった。
レイヴンは宿の一室に戻った。
賑やかさの残滓が、体の中にまだある。笑い声、料理の匂い、子供がグラディウスにしがみついていた光景。温かいものが、胸の中に沈んでいる。
それでも、部屋は静かだった。
荷をほどきながら、レイヴンはある場所で手を止めた。
小さな木箱。
古びた、何の変哲もない木箱。レイヴンはそれを膝の上に置いて、蓋に指先を置いたまま、ランプの炎を眺めた。
中には一通の手紙がある。端が黄ばみ、折り目が深い。何度も読み返した跡だ。
開かなかった。
細い目の奥から、宴の温かさが静かに引いていく。代わりに滲んでくるのは、ずっとそこにあった何かだ。
名前をつけるなら、追慕と呼ぶのが一番近い。
「……意図的な歪み、ッスか」
呟く。
あの男なら、できる。
あの男なら、やりかねない。
レイヴンは木箱を閉じた。荷の奥にしまう。いつもと同じ場所に、いつもと同じように。
仰向けに寝転んで、天井を見上げた。
広場の笑い声が、まだ遠くに残っている気がした。
「……どこにいるんスか」
返事のない部屋に、言葉が落ちた。
ランプの炎が、小さく揺れた。
しばらくして、レイヴンは目を閉じた。
「まあ」
呟く。
「そのうち分かるんですかね」
外では風が吹いていた。
明日はメイセキへ向かおう、とレイヴンは思った。
翌朝早く、レイヴンは宿を出た。
グラディウスに荷車を繋いで、御者台に座る。朝の空気は冷たく、澄んでいる。
町の出口で、昨夜グラディウスにしがみついていた子供が立っていた。眠そうな目をこすりながら、それでも一生懸命に手を振っている。
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
レイヴンは笑って、手を振り返した。
「行くッスよ」
グラディウスがゆっくりと歩き始めた。
荷車が石畳を進む。蹄の音が朝の静寂に響く。
遠くに山並みが見える。その向こうに、煤と鉄の匂いが漂う鉱山都市がある。
レイヴンは前を向いたまま、呟いた。
「さて、どうでしょう」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この作品を書こうと思ったきっかけは、「最強なのに、静かな主人公」を書きたい、というただそれだけの動機でした。
強さを誇示しない。恩着せがましくない。飄々としているのに、一人になった瞬間だけ別の顔を見せる。そういう人間が、自分は好きです。
レイヴンが追いかけているのは、ある人物の背中です。その人物が何者で、なぜレイヴンが追い続けるのか。それは旅の中で少しずつ明かしていくつもりです。
グラディウスは書いていて一番楽しいキャラクターです。喋らないのに存在感がある。そういう相棒を目指しました。子供たちにお座りをして見せるシーンは、書きながら自分でも少し笑いました。
次話からはいよいよメイセキへ。鉱山都市で待ち受けるのは、魔物の群れと、ある人物の痕跡です。
よろしければ、引き続きお付き合いください。




