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百二十七、 海のアントワネット

 背中に強い衝撃。塩辛い水が口の中に雪崩れ込んでくる。

 船長はすぐにお照から離れ、水面へと泳ぎだした。

 同じように手足を動かすと体がふわりと上昇する。

 海底に目を向けた。首飾りは見えない。淀んだ闇の中にフカの黒い影が横切るのみだ。

 お照は光の射すほうを目指した。


 船長を船に戻してなるものか。


 船長の足首に手を伸ばした。蹴られる。

 離れた瞬間にフカが悠々とすり抜ける。まるでどちらを先に食べようかと品定めをしているようだ。

 船長はふいに体を返してお照の方に泳いできた。なにを考えているか、右手に握った短刀を見れば一目瞭然だ。

 必死で抵抗した。刃先が手の甲を掠る。たいしたことはない、と思ったが、致命傷は必要ないのだ。血の匂いでフカが引き寄せられる。

 目の前が急に暗くなった。息ができないせいだ。苦しい。


「お照さーん。早くあがってらっしゃい!」


 女将が呼んでいる。

 残った力でウーリ船長の右手を掴んだ。そして思い切り噛んだ。噛みきった。血が噴き出すまで。

 船長はお照を蹴ると、その勢いで海面に向かう。

 お照の体はもう動かなかった。そのままゆっくりと海底に沈んでいく。

 目を閉じて最後の時を待っていると、


「うわああ」


 船長の叫び声だ。

 うっすらと目を開けると、船長がフカに食われていた。凄惨なはずなのに芝居の舞台を見ているように……胸が高鳴った。

 次に目を開けたとき、飛び込んで来たのは半兵衛だった。


「……まっさきにあの世で会えるなんて」


 うれしい。と思ったら半兵衛はお照を肩に担ぎ上げた。お腹が圧迫されて口から海水が溢れる。ここはあの世ではないと苦しさに諭される。


「暴れるなよ」


 半兵衛はお照を担いだまま縄ばしごを上り、甲板に辿り着くとお照を肩から下ろした。


「生きていたんですね、半兵衛さん」


「危ないところだったけどな、あいつが助けてくれた」


「あいつ……?」


 振り仰ぐと、衣服から水を滴らせた棒手裏剣男がいた。死んだのではなかったのか。怪我をしているようすはない。では海面を赤く染めたあの血は……。


「フカは無闇には人を襲わないが血の匂いに惹かれれば共食いもするのだ。そんなことより」棒手裏剣男は上甲板に視線を転じた。「おれは西方弥勒に一票だ」


「おれもだ。お照もそうだろ?」


 半兵衛は問いかけながら、お照の首に首飾りをとめた。


「これは……」


「おれ目がけて降ってきた」


 金剛は無闇に捨てたのではなかったのだ。


「金剛……ごめんなさい、鉄砲に怯えさせてしまって……飛んでいっちゃった」


「いつか帰ってくるさ。おれは信じている」


 半兵衛のいうことは信じられる。信じたいと願った。


「ところで、さっきの一票とはいったい……」


 甲板を見渡して驚いた。さきほどまで膝立ちをさせられていた白蓮教徒はみな立ちあがっていた。手の縛めはない。それどころか、海賊の持っていた剣を腰に帯びているものがいる。


「おれたちが海で泳いでいるあいだに形勢逆転したらしい。女将が怒ってけしかけたようだ」


 女将の先導に従って、白蓮教徒が一斉に蜂起して船を奪ったのだという。


「では、アリ砲長が九票、フェルセンが一票、アントワネットこと西方弥勒が三十七票」


 通詞が数を読み上げている。


「なにをしているんでしょう」


 半兵衛がにやりと笑った。


「ウーリが死んだので船長が空位になっただろ。海賊船の船長ってのは立候補した者の中から船員の投票で決めるんだ。この船はいまや白蓮教徒の支配下だからな。彼らは女将さんを推したんだ」


 女将が立候補したと聞いて気を失いそうになった。


「よって、船長はアントワネットこと西方弥勒に決定しました! 船長から就任の挨拶をお願いします」


 女将が上甲板の真ん中に立つと、全員が女将を見上げた。

 女将は全員の顔を見回し高らかに宣言した。


「この船の名はいまからベルサイユ号です。わたくしの城ですわ。集うも自由、去るも自由です。わたくしに従えないという者はいますぐ海に飛び込んで、この世から去るがよろしいわ!」


 白蓮教徒は全員が跪いた。口々に「西方弥勒さま万歳」を叫ぶ。かつてのウーリの配下たちも見よう見まねで女将に忠誠を誓った。


「ど、どうしてこんなことに。温操舵手の仇なのに」


「彼らは強い指導者に従うしか能がない、しかし武力に優れた連中だ。女将が正しく率れば忠烈士となるだろう。……ちょっと恐ろしいけどな」


 女将の横ではフェルセンが複雑な顔を隠せていない。シャルルは頬を赤くしている、今夜は熱が出ることだろう。


「女将さんが船長になったということは、この船はもう海賊船ではなくなったということよね」


「そうだと思いたいが……」


 女将が棒手裏剣男を見据えた。


「良い風が吹いてきましたわね。副長始原(しげん)、舵を取ってください」


「は」と返事をした棒手裏剣男こと始原は上甲板にあがり舵を取った。


「抜錨しました。どちらに向かいますか。まっすぐバダヴィアへ?」


「この船ならばバダヴィアで補給したあとアフリカを回ってヨーロッパに向かえるわね。途中でイギリス海軍の船を見かけたら襲いましょう。だってわたくしたちは海賊ですもの」


「女将さん……」


「お照さん、これからは女将さんではなく船長と呼んでくださいな」


「……はい」


「イギリス海軍の船には生きた牛や鶏が積んであるのよ。そろそろ甘いお菓子が食べたくなってこないかしら」


 女将、もとい船長は輝く太陽を後光のように背にして、鮮やかに微笑んだ。


「東の方角からさっそく生贄がやってきましたわ。どこの船かは存じませんが」


 振り返ると、ウーリ船長が襲撃しそこなった船がまっすぐにベルサイユ号に近づいていた。


「腕ならしにちょうどいいかもしれませんね」


 始原は肯ったが、半兵衛は笑顔で阻んだ。


「あれはいけませんよ、船長」


「あら、どうして」


「あの船には知り合いが乗ってるんで」


「知り合い?」


 近づくにつれ、星梅鉢を染め抜いた帆がはためいているのがはっきりと見てとれた。星梅鉢は松平定信の定紋である。


「まあ、ではベルサイユ号の護衛船ですわね。ご招待いたしますわ。わがベルサイユへようこそ」


 船長が両手を広げると、かの船から飛んできたのであろう金剛が船長の肩にとまった。冒険に目を輝かせるシャルルと諦念まじりに肩をすくめるフェルセンに挟まれた船長の目は、松平定信の船も大海原をも越えてはるか先を見つめている。


 アントワネットという人はお照の理解の外にいる。けれど、どうにか追いついて理解したいと焦がれる人でもある。お照は半兵衛と目を見交わして、笑顔でうなずきあった。

 

 

 東の海に船団を率いる女海賊あり、との噂が江戸に届くまで、いましばらくの時を要した。


「江戸の」アントワネットが「海の」アントワネットになったためにここで一旦完結とさせていただきます。この後書こうと思っていたのは……七つの海で暴れたりアメリカにブルボン王朝を復活させようとしたりした後、お照たちは江戸に戻ります。高月花魁のその後やお照の身の振り方と写楽の活躍も、いつか機会がありましたら……。こんなとりとめない長い話を読んでくださったかたは、きっと神様仏様弥勒様です。ありがとうございました。

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