百二十六、 わたしが買い取ります!
棒手裏剣男はおもむろに顔をあげた。そのどんよりとした目が女将を認めた途端、かっと見開かれた。
「西方弥勒!」
ざわと甲板が揺らいだ。ほかの白蓮教徒が棒手裏剣男の声で一斉に顔を跳ね上げたのだ。火のついた火薬のように。すべての熱い視線が女将に集まった。
「なんだ、なんだ。このババアがどうかしたのか」不機嫌そうに、船長は顎をしゃくった。「さっさとそいつを海に落とせ」
船縁に板が渡してある。棒手裏剣男は腕を引かれて板に乗せられた。
「さっさと歩け」
海賊は笑いながら棒手裏剣男の尻を叩いた。板の端は海に突き出している。みずから死に向かって歩くさまを彼らは楽しんでいた。
棒手裏剣男は何度も女将を振り返った。仇を目前にして命を絶たねばならないのは、さぞ無念だろう。
「半兵衛さん、どうにかできないんですか」
「……ウーリ船長に逆らってまで奴らを助けるのは危険だ」
「でも命を弄ぶなんて……」
いまカルネアデス号は陸地から遠く離れた海のど真ん中だ。近くに島はない。泳いで逃げることは不可能だ。それどころか、海には黒い影が蠢いている。フカだ。
「ウーリ船長、待ってください」
お照は思わず口を開いていた。
「もし彼らを寧波まで無事に送り届けたら、お宝が手に入るとしたらどうします?」
通詞が訳している間に、棒手裏剣男は海に消えた。突き落とされたのだ。
水音とともに上がる笑い声が憎たらしい。
「どういう意味だ。こいつら、身代金でも取れるのか」
海面に赤い染みが浮いた。それを見た手下たちは猿のような奇声をあげた。交易船を襲い損ねたせいで、行き場のない攻撃の欲がおさまらないのだろうか。理屈はどうでも、耐えがたい嫌悪がわいてくるのを抑えられない。
「わ、わたしが彼らを買い取ります!」
女将と半兵衛の顔が視界に入った。なにを言い出すのかといった表情だ。
いや、女将の目の奥には成りゆきを面白がる色があった。
お芝居じゃないんですよ、女将さん!
女将の命を狙っている白蓮教徒だ、後腐れないように死んでもらったほうがいいという都合と、だからといって残虐な海賊になぶり殺されるのは間尺が合わないという思いがせめぎ合う。
「ただし白蓮教徒のみなさんには誓ってほしいの。清国に帰してあげる代わりに、女将さんの命を狙うことは金輪際無いと!」
白蓮教徒達は互いに顔を見合わせ、そのうちの一人が声を放った。
「西方弥勒を殺さないと誓う」
ひとりが誓うと、残った全員が「誓う」と唱和した。
「それで、お宝とはなんだ?」ウーリ船長がお照に尋ねた。「本当はそんなものないんだろう」
「これです」
お照はしごき帯に手を入れて裏側に縫い止めていた布を剥ぎ取る。取り出した首飾りを高くかざした。
日光が反射してウーリ船長の目を射た。
「その輝きは……」
「金剛石の首飾り。これで充分でしょう」
「よく見せてくれ。ニセモノかもしれないからな」
ウーリ船長が手を伸ばす。お照は後退った。首飾りを奪われたら終わりだ。
なんで安易に見せてしまったのだろう。
船長に腕を掴まれたとき、もっと方法はなかったのかと悔いた。
「ほら、こっちに来い」
「乱暴はよせ」
迫るウーリ船長を半兵衛が羽交い締めにした。
「半兵衛さん、後ろ!」
半兵衛が頭を押さえて床に倒れる。船長の手下に短刀の柄で殴られたのだ。
「そいつを海に放り込め!」
手下は少しばかり躊躇したものの、船長の命令には逆らえず、半兵衛を海に放り捨てた。
「なんてことをなさるの」
女将が針で刺すように船長に指を突きつけた。
「たとえ船長とはいえ横暴がすぎますわ」
「ほら、寄越せ」
ウーリ船長は女将にかまわずお照に手を伸ばす。お照は上甲板の端に追い詰められた。
「それ以上近寄ったら海に捨てます!」
首飾りを海に投げる仕草をしてみせた。
「ふん。そんなことをすれば、ババアとガキを海に落とすぞ」
船長はお照ににじり寄る。
「小娘のくせにおれと交渉しようなんて生意気な。こんな跳ねっ返りじゃなきゃ可愛がってやるんだがな」
言葉はわからずとも見下されているのはわかった。
あっという間に揉みあいになった。片手を海に伸ばしているお照はろくな抵抗ができない。
「ううむ、細すぎて魅力がないなあ」
お照の腰を抱き寄せると、ウーリ船長は黄ばんだ歯でニタニタと笑う。
お照は首飾りを空に放り上げた。
「金剛!」
金剛が舞い降りて首飾りを掴む。そのまま旋回して帆柱の上に止まった。
「なにしやがる。おい、だれか撃ち落とせ」
甲高い音がした。手下のだれかが鉄砲を撃ったようだ。さいわい、弾ははずれた。だが驚いた金剛を空に放つ結句となった。
金剛の足指から煌めきが離れ、海に落ちる。
「おい、だれか飛び込め。あれを取ってこい。褒美をやるぞ」
首飾りが落ちた辺りを指さして命じたが船長に従う者はいない。
お照にとっては遠方に飛んでいく金剛が心配でたまらない。近くに陸はない。疲れ果てて海に落ちてしまうのではないか。
「もったいない。あれだけありゃ、土地も屋敷も……島ごと買える。あのへんに落ちたはずだ。だれか、だれか……」
手すりに身を乗り出した船長の隙を、お照は見逃さなかった。船長のベルトを掴んで、手すりを背に身を仰け反らせた。
「自分で取りに行きなさい!」
「うお……!」
「お照さん!!」
手すりを越える瞬間、凍りついた顔つきの女将と目が合う。
みずから重石となって、お照は船長を海に放った。もつれ合うようにして海に落ちる。




