14-1
艶端霧子は、迫り来る幾多もの腕から必死に逃げた。
振り返り、ようやく腕の気配から逃れることができたことを理解すると、スウっと息を吸った。
汗を拭いながら息が整え、先へと急ぐ。
しかし、向かった先は行き止まりだった。
腕は背後に迫り、遂には影が艶端に覆い被さった。
艶端は膝から崩れ落ち、幾多の腕の中に飲み込まれていく。
その途中、バリンという音で目が覚めた。
30平米以上ある寝室に警報音が鳴り響くと、艶端は軽い身のこなしでベッドを飛び降りた。
ドアを開けると、数名のSPが艶端の元へ駆けつける様子が確認できた。
「玄関付近のガラスに石が投げ込まれたため、現在投げた者の行方を追っているところです。ひとまず応接間で待機し、警察の到着を待ちましょう」
ーーーー
明人は大きな欠伸をした。
青空から地上へ欠伸をしたまま目線を戻すと、大きな目と目が合った。
「なぁに明人、私の真似したつもり?」
数メートル先で待機する灯凜がムスッとした表情で明人を凝視する。
「違うよ!その・・・灯凜の欠伸が移ったんだ・・」
「目立つ欠伸で悪かったわね」
“目立つなんて言ってない“と言い返そうとしたが、炎天下で待機する灯凜を刺激しない方が最善と判断し、“降参“の意を示すつもりで目線を落とした。
「うーん、今日も楽しそうにしているな」
副班長の麗奈が日差しを避けるように、額に手をあてながら灯凜に近づいてきた。
「灯凜、暑すぎてイライラするのは分かるが、向こうのお偉いさん達に炎天下を嫌がっている姿を見られたらまずいぞ」
副班長の麗奈が心地のよい低音ボイスで灯凜をなだめると、2人は30メートルほど先にあるカフェテラスに目をやった。
木々に囲われた庇付きのカフェテラスでは、日本の重鎮たちが寛いでいた。
モダンな雰囲気を醸す高級カフェテラスに設置されたガーデンパラソルの下で、最高裁判所長官の艶端霧子と元総理の孫である紺野瑠璃子、大手銀行の取締役を務める伊是琴枝の3人がブランチをしている。
灯凜と麗奈の場所からでは3人が何を飲食しているかまでは把握できないが、少なくともあの場所が避暑地であり、SNS映えする食事であることは安易に想像がつく。
優雅に喫食する姿は青い芝生だ。
「副班長、私もあそこで待機したいです」
「業務が終わったら、一緒にアイスコーヒーでも飲もうか」
イライラと妬みで溢れる灯凜の心を、麗奈は何度も優しく包み込んだ。
艶端たちの数メートル先には、サングラス男で溢れかえっていた。
カフェテラスの涼やかさとは対照的な風貌の男達の耳には無線用のイヤフォンが装着されている。
至近距離の厳かさを気にする事なく、艶端たちは楽しそうに会話をしているが、おそらくこの光景にも慣れているのだろう。
「副班長、SPが側で待機しているのに、私たちの待機って必要ですか?」
「灯凜。昨晩、何者かによって艶端長官の自宅へ石が投げ込まれたんだ。だから急遽、SP以外の人間も含めて警戒態勢を敷くことになったんだよ」
頭が壊れたように同じ質問を繰り返す灯凜へ、麗奈は何度も優しく答える。
艶端霧子は腕時計を一瞥した。
「まだティラピスが始まるまで時間があるし、もう一杯飲まない?」
「そうね。じゃあ私ソイラテおかわりするわ」
3人はそれぞれの追加注文を側で待機する艶端の秘書に伝えると、たわいの無い会話を続けた。
「ねぇ霧ちゃん、先月の裁判、結構テレビでの取り上げも凄かったじゃない?いつもの事ながらメディアは霧ちゃんを悪者扱いしてて、ものすごく腹が立ったのよ。Yコメンテーターの言い草もいつも以上に辛辣だったけど、やっぱり霧ちゃんは凄いわ。あれだけ証拠も揃ってるんだから覆るはず無いのに、メディアはいつも、霧ちゃんを目の敵みたいにして取り上げるものだから、思わず匿名でクレームでもよこそうかと思ったの」
紺野瑠璃子は口を尖らせ、拳を強く握った。
「ルリ、ありがとう。今回の裁判も、私は終始平常心だったわ。報道番組とネットニュースは極力観ないようにしてるし、私は常に、真実が何であるか追求しているだけよ。真相究明にぬかりは無いわ。確信があるからこそ、どんなものにも踊らさることはないの。たとえ命に代えたとしても」
艶端は2人に微笑みを向けながら、迷うことのない口調で言い切った。
「霧ちゃんったら、もう。相変わらずブレないわね。本当に尊敬するわ。日本の秩序は、霧ちゃんあってこそだわ。でも、命に代えたとしても、とかそんな事まで言わないでよぉ。霧ちゃんの身は、然るべき人に守られているんだし、これからも自分らしく戦ってね」
伊是琴枝が目の前のサングラス男に目を向けると、艶端と紺野も、目の前の異空間へ目を向ける。
艶端の場合、国の左右を担う存在という事もあり、政治家と同様の待遇を受け、民間の護衛人ではなくSPが普段からついている。
(初めて見る顔ね・・・)
今日は新人なのか、初めて見る顔も護衛として少し離れた場所で待機していた。
そのうち1人は護衛人にしては頼りないほど優男な雰囲気だ。何より若い。
23・4といったところだろうか。
艶端の身に纏う紺のロングワンピースは高級ブランドでありながら品に満ちている。
そんな艶端の側に綺麗な顔立ちの優男が立っていれば大衆はきっと、パトロンとでも推測するに違いない。
“冷徹な魔女の性癖“とでも記事に書かれるのがオチだ。
艶端は苦笑した。
その優男のすぐ後ろには、ガタイの良い男と漆黒の髪を纏う男がいる。
こちらも新顔のようだが、まさに世間一般で言う「SP」の画だ。
ガタイの良い方は、軍上がりだろう。日本人離れした端正な風貌に筋骨隆々な体格が相まって、この場に存在するだけで安心感を得られる。
しかし艶端はその男よりも、隣の男の存在が気になっていた。
なぜだろう。マネキン人形の様な風貌であまり人間味を感じられないが、筋肉を武装した男以上に仄暗い野生の気配を感じる。
ただの勘に過ぎないが、艶端は自身の勘に、それなりの自負があった。
頭の良さと豊富な知識、そしてそれに伴う己のロジックを掛け合わせた勘【推測】は、これまで何度となく艶端自身の糧となった。
野生味と闇深さを纏う彼は、艶端にとってまさに理想の護衛人だ。
司法界を退いたら彼を護衛人に雇いたい、とふと思いつき、艶端は近くで待機している秘書を手招きすると早速、彼の身辺調査を頼んだ。
「何で今日に限って、こんなに晴れているんだろう・・・」
一昨日、昨日までは曇り空でほんのりと肌寒さも感じられたが、今日は真夏に逆戻りしたかのような晴天だ。
灯凜は手で仰ぐ素ぶりをした。
灯凜の白い首筋に汗が滴り、ワイシャツはすでにぐっしょりとしている。
暑さとは対照的であるかのような遠くにいる集団を、冷ややかな目でじっと見る。
車内で待機していた野希羽が日傘を灯凜の高さまでまっすぐ伸ばし、さらさらシートを灯凜へ手渡した。
灯凜は笑顔を作る余裕のないままシートを受け取り、首筋を撫でるように拭いた。
「今日は異様に暑いので、水分補給はしっかりした方がいいですよ灯凜さん」
灯凜の瞳に、メロンソーダのように涼しげで愛らしい野希羽の姿が映った。
「灯凜さん、交代です・・・車内で休んでください」
陽臣は目線をアスファルトへ向けつつ、野希羽に抱きついて離れる気配のない灯凜へ声をかけた。
猪山麗奈率いるチームは、富岡灯凜と首藤野希羽、上原陽臣と藤原亨の5人体制で、要人から離れた場所で交互に待機していた。
藤原は今月の初めに国家総合事務局へ異動してきたばかりの男だ。
採用から3年が経つが、以前の部署で培ってきたセオリーがなぜか国家総合事務局では通用しない。
異動してきて2週間以上経過するが、藤原はいまだに何かに怯えた様子だ。
「富岡さん、この前も聞いたし・・この場で問うのも、アレだけど・・・。現場仕事がメインって認識で合ってるよね・・?デスクワークがあまりにも少な過ぎて、本当にこれで良いのか不安なんだよね・・・」
灯凜より白い、いや青白く、明人より華奢な体格は炎天下で音を上げていた。
「藤原さん、私も入府当初は同じように混乱と葛藤がありました。でも後藤局長に言われた通りに業務をこなしていくうちに、だんだんと自分の役割が見えてきて、これで良いんだと思えるようになりました。まぁ、今だに同期の話を聞いていると仕事にギャップを感じますがね。とりあえず車に戻って休憩しましょう」
目を閉じたまま藤原が頷くと、麗奈の待機するワゴン車に向かって2人は歩き始めた。




