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第一話 慈悲の聖女

 ——ゴォォォォン


 聖拝を告げる鐘の音が微かに鼓膜を揺らした。

 普通ならば大聖霊堂の方角に向かい、十字を切り、神への想いに馳せる。


 しかしこの部屋では勝手が違った。

 荒れ惑う声が地下室のレンガを反響し、ひんやりとしたはずの空気に温度をもたらす。


「シーブリンの薬草追加で30お願いします! あとベルベルの薬水も追加で持ってきて!!」

「こっちの蒸留塩水まだか! はやくしろ!」

「今やってます!! 少し待ってください!」


 煩雑に並んだ地下のベッド達と数本の蝋燭、あとは、人だった。


「こっちお願いします! 更に心拍低下! 魔導円環による酸素供給持続時間残り三十秒を切っています!」


「——代わります。状態はどうなっていますか?」


「——《《ミシェル》》様……では、お願いします」


 聖印の刺繍が、胸元に施された白衣姿の少女が、そっと現れる。

 深緑の長い髪を束ね、使い古された小さな銀の髪留めが淡く揺れていた。


 黒縁の眼鏡の奥では、密やかな金色の瞳が静かに佇む。


 華奢な体つき、しなやかで細い指先、控えめで落ち着いた立ち振る舞いは、齢十八だという事実を周囲から忘れさせる。


「患者は三十代男性。三時間前、トチカノ薬泉のほとりでアロン狼獣と遭遇し、攻撃を受けたと仲間が証言しています。」


「……! アロン狼獣……ですか?」


 ミシェルの眉が僅かに動く。


 トチカノ薬泉の周りは、豊かな湿原と温暖な気候で、入隊したばかりの軍人育成場にも利用される、比較的安全な地域。

 そこに、アロン狼獣が現れるのは珍しい。


 だが今は、そんな些細なことを考えている場合ではない。 


「——幸い内臓は避けていますが、アロン狼獣の爪で胸部を貫かれています。魔道円環術式でなんとか血液循環サポートを行いましたが、やはり直接傷口を塞がなければどうにも……」


「分かりました。それでは、あちらの脚部裂傷を負った二等兵の方の、魔導円環管理をお願いします」


「はい。あ、あと……——」


「? どうされましたか?」


「この方は……『《《ギルド》》』所属の棄神者アグドですので、くれぐれもお気を付けください」


 その瞬間、負傷者へ向けられるとは思えない程、冷たい目つきになった修道女は、カルテに自分の名前を雑に書き込む。


「——。 分かりました。ご報告ありがとうございます」


ミシェルは、乱暴に書かれたカルテをそっと受け取り、頭を下げる。


「はぁ……聖癒所とはいえ、なんでこんな棄神者アグドまで救わないといけないの……穢らわしい」


 そう小さく吐き捨てた修道女は、重い足取りで次の患者へ向かう。

 

 そして目下の男性は、今にも息絶えそうな細い呼吸だった。


「もう大丈夫ですよ。安心してください」


「……! ……。」


 力無い瞬きだが、意識はかろうじて保っていた。


 そして、ミシェルは血だらけの両手をそっと彼の胸部に当てる。


 目を閉じ、息を深く吸いこみ、女神様へ心からの祈りを捧げる。



「——慈悲の御手よ、嘆きの声を聴き給え。傷を忘れ、呪いを解き、痛みを彼方へ」



「——《《シェルリアル》》」



 淡い光が生まれる。

 青白くも、暖かい聖愛の光。


 魔獣に貫かれた胸部を光が覆い尽くし、裂けていた肉は閉じ、断裂した筋繊維一本一本が手編み物のように優しく縫合されていく。


「……あがあああ!! あ、あ、あれ声が出せる……!!?」


 力弱い瞬きしかシグナルを出せなかったはずの男性は、たちまち声を取り戻し、驚愕の顔つきでこちらを見ていた。

 それは、周りで見ていた同僚の聖癒師達も、例外ではない。


『——ま、毎度ながら信じられないですね』

『ええ、修復スピードを加速させる治癒魔法ですら、超高等術式なのにね……』

『——でも」

『? どしました先輩?』


『なーんか、気持ち悪いのよねぇあの子。休憩中は一人でずっとお祈りしているし、備品の数とかも全部把握してるし」


『あはは! それは言えてる〜。あの人がお昼ご飯食べてるところ見たことないし。棄神者アグドにも普通に治療するし、なんか人間っぽくないですよねぇ』



 五十前のお局と、一回り年下の聖癒師達が、こちらを向いてヒソヒソ話している。

 まるで見てはいけない物を見るように。

 

 だが、そんなものはミシェルの心に届いてすらいなかった。


「そのまま安静にしていてください。まだ傷口を塞いだだけで、神経系の適応にはまだ時間がかかります」


「こ、怖かったぁよぉぉ! あ、ありがとうございますぅ慈悲の聖女様ぁぁ!!」


 二十は離れた小娘に全体重を預けながら、子供のように泣きじゃくる中年男性というのは、なかなかお目にかかれない。


「いえ、私など……。ではモアさん、この方を安静室まで送っていただけますか?」


「——!? ちっ。はーーい。仰せのままに〜、聖女さま〜」


 ヒソヒソ話に花を咲かせていた聖癒師のモアは、突然のお願いに驚きながらも、舌打ちと皮肉で答えた。


「はい。さっさと自分で立って。出口はあっち」

 

 処置が終わったばかりの男性は、聖癒師の機嫌にそそのかされるように、立ち上がる。


その時、意地悪な聖癒師の後ろを追う中年男性は、ぼそっと言葉を吐いた。


「——も、もうあんな思いするくれぇなら……。俺ぁ《《女神様のお怒りに触れちまった》》……」


「——! 女神様の……」


 その言葉だけは、ミシェルの耳に妙に残った。


 だが、そんなことを気にしていられる状況じゃない。


「19番ベッドに即応レベル5の患者です! 多量出血及び動向反応微小——」


「分かりました。すぐ向かいます」


 救われた命の背中見届けながら、小さく息を吐く。

 

 安堵と共に胸の奥へ広がるのは、説明のつかない充足感。


 まるで誰かが、《《代わりに満腹になっていくような。》》


 その感覚に、微かな寒気を覚えながら、再び治療台へ向かう。





 ——サラザリス法魔国王都 エンデルフィアの夜は静かだった。


 石畳の大通り。

 街路に並ぶ魔導灯が淡い橙色の光を灯し、夜道を優しく照らしている。

 

 遠くから聞こえる酒場の笑い声。

 屋台をえっさほいさと片付ける店主達。


 ふと顔を上げると、天高く聳える尖塔が目に映る。

 法魔国の誇りと、威厳の象徴 『エンデルマリー大聖堂』


 国祭である『聖魂帰祭』を明日に控えたエンデルマリー大聖堂は、夜でありながら昼にも劣らぬ活気に包まれていた。


 王都の中心にそびえるその巨影は、周囲の建築物を圧倒するほど巨大であり、幾重にも重なる白亜の尖塔はまさに荘厳。


 天へ向かって伸びる無数の飛梁と、外壁一面に刻まれた聖典の彫刻、月光を浴びたその姿は、まるで地上へ降り立った神殿そのものだった。 

 


 供物を置いていく人々の列は、この時間でも途切れる様子はなく、それぞれが大聖堂に向かって十字を切りながら目を閉じる。



「——聖母様。どうか御手の届かぬ者なきよう。すべての魂へ祝福を」



 帰り道の日課である終日の祈りを、周りの信徒と共に捧げたミシェルは、また静かに歩き出した。



 そうして石畳の坂道を登り切ると、家が見えてきた。


 樫の木を大黒柱に組み上げられた伝統的な木造二階建て。

 所々壁のレンガが欠けており、手作りの窓枠はグラグラとしながらもなんとか立場を保つ。


 立て付けの悪い扉をキィと引くと、暖かい光が外に溢れる。


「ただいま帰りました。今日は来院者が多k——」


「——おっかえりーー!!」


「きゃっ!??」


 その瞬間、白銀の髪をフワッと浮かせた少女が、勢いよくミシェルの腹部に直撃してきた。


 さらに受け身もろくに取れぬまま、あっけなく後方へ吹き飛ばされる。


「《《お姉ちゃん》》遅いよぉーーー! もう《《先生》》グデングデンのタコさんだよぉ? あ、でねでね——」


 幼さが残る澄んだ笑顔に輝く、翡翠色の瞳はいつ見ても綺麗だなと思った。

 そう。

 こんな状況でも。

 

「……《《ノ、ノア》》。は、離れて……くだ……さ……」


 首に巻きつく細くも力強い両腕。


 さすがは日夜双剣を振り回す、前衛特化の双剣士。


「ねぇねぇこれ見て! 今日すっっごいワクワクするのもらったの! 八百屋さんで買い物してる時——」


「あ、あの……ですから…………」


「いやぁ、これこそ王都に引っ越してきた甲斐があるってものだね! これぞまさにロマンってやつ——」


「のぉぉ…………あ……ぁ」


 この子は本当に言うことを聞いてくれない。


 いや、そもそも聞いていないと言った方が正しいかも。



 徐々に視界が白く霞む。


 脳に供給されるはずの酸素が、無邪気によって堰き止められ、立ち往生する。



「——《《おーーい》》」



 遠のく意識を繋ぎ止めるように、奥のソファから萎びた声が飛んできた。


「?? 《《先生》》どしたのー?」


「どしたのってか……流石のアタシも《《弟子》》が、目の前で窒息死するのは勘弁だわぁ」


「窒息?? 誰が?」


 ソファの背もたれに、だらんと腕を吊り掛け、頬を染めた女は軽く顎を動かす。

 

  釣られてノアもその先に目線を落とした。


「ええええええぇぇ!!? お、お姉ちゃん!? ごごごごめんなさい!!」


 ノアは大声で慌てながら、その場で飛び起きる。


「全く……毎度飛びかからないでください。ノアは自身の身体能力について、もっと自覚すべきですよ」


 倒れ込んでいたミシェルは、服を軽く叩きながら起き上がる。


「ミッシェル〜。寒いからそこの毛布とって〜」


 するとまたも情けない声が、ソファから聞こえた。


「——先生飲み過ぎですよ? それとそろそろ部屋を片づけませんか?」


「え〜〜固いこと言うなよぉ」


 ボサボサの長い金髪から覗く、あまりにも気だるそうな青瞳。

 床には空になったワイン瓶と、投げ出された皺くちゃな上着達。


 そして、その雑多に混じるように、数冊の古びた書物が転がっている。


 『失われた神代文字一覧』

 『第一聖典成立史』

 『古王国期出土文献集』


 どれも普通の人ならまず手に取らないような本ばかり。

 何冊かには紙片が挟まれ、大量の書き込みまでされている。


「——それでノア? 今日はいつにも増して、ご機嫌なのはなぜですか?」


 するとノアは、アッ! と言わんばかりに口を広げ、ポッケの中でクシャクシャになった、謎の紙を急いで取り出した。


 そのまま一呼吸置き、大きく振りかぶるように、その紙を広げる。


「これ見てこれ!!」


 そこには、細々とした文字でこう書かれていた。


【ギルド 『ヴァリアント』 聖癒職者募集について】


「——《《ギ、ギルド》》……?」


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