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第九片 臆病な回路と、朝の水滴

 翌朝、硬いベッドの上で目を覚ますと、世界はまだひどく重たいままだった。

 関節の節々に泥水が詰まったような鈍い痛みがあり、昨日茨に引っかけた人差し指の傷口が、心臓の鼓動に合わせて熱く脈打っている。窓の隙間から入り込む白んだ朝の空気は、肺の奥をひやりと撫で、わたしがたしかに生身の、不完全な肉体を持った生き物であることを告げていた。


 痛い。けれど、悪くない。

 わたしは毛布から片腕だけを這り出させて、朝日を透かすように指先を高くかざしてみた。爪の間にはまだ微かに黒い土が残っていて、その汚れが、わたしという存在がこの世界にへばりついている重さを証明してくれているようだった。


 ほんの少し、意識の奥底にある南京錠を外して念じれば、この筋肉の軋みも、手の甲の傷跡も、たちまち幻のように消え去るだろう。それはあまりにも簡単で、だからこそひどく空虚な奇跡だ。


 かざした指先を、ゆっくりと折り曲げて拳を握る。

 そのとき、不意にひとつの考えが、冷たい水滴のように脳髄に落ちてきた。


 傷痕を消し去ることが出来る。山を消し飛ばすことが出来る。世界をひっくり返すことが出来る。

 であれば、逆説的に。


 ――この自分自身の内側にある「チート能力」そのものを対象として、「消去する」こともできるのではないだろうか。


 わたくしという現象から、この異質な青い照明の回路だけを、ぷつりと断ち切ってしまうこと。


 おそらく、できる。試したことはないけれど、わたしの直感はそれが可能だと告げている。この理不尽な力は、自己矛盾すらも飲み込んで、わたしをただの、ひどく凡庸でか弱い「ふつうの少女」に作り変えてしまうことができるはずだ。

 あるいは、そこまでしなくてもいい。消去せずとも、昨日やったように、これから先の数十年の人生を、ただの一度も力を使うことなく、ずっと完全に「オフ」のままでやり過ごすことだってできるはずなのだ。


 誰も助けず、誰にも干渉されず、ただ自分の足で歩き、土にまみれ、やがて老いて死んでいく。それこそが、わたしが望んでいた「本当の生活」ではなかったか。


 なのに――

 わたしは、かざした拳をゆっくりと胸元に下ろし、ぎゅっと寝間着の胸のあたりを握りしめる。


 ――わたしには、その回路を断ち切る覚悟がない。

 空中に浮かぶ不可視のスイッチを前にして、わたしの指先はわずかに震え、どうしても最後の一線を越えることができなかった。


 結局のところ、わたしはひどく狡猾で、臆病なのだ。

 「いざとなれば、いつでも神に等しい力を行使できる」という、分厚くて絶対的な安全網の上でしか、弱者のふりを楽しむことができない。理不尽な暴力に蹂躙されること、明日食べるパンすら奪われること、どうしようもない運命に押しつぶされること。そういう「本当の弱さ」がもたらす恐怖を、わたしは心の底から恐れている。


 昨日の、あの息も絶え絶えになるほどの疲労や、指先のちいさな痛みは、たしかに愛おしかった。自分が生きていることを実感できた。でもそれは、「いざとなればいつでも無敵に戻れる」という絶対的な安全網の上で演じられた、ひどく悪趣味な生存のレジャーに過ぎなかったのだと改めて実感する。

 安全な箱庭の中から、泥まみれで生きる人々の悲劇を眺め、「わたしもあんなふうに泥臭く生きてみたい」と憧れる。これほど傲慢で、醜悪な修羅のすがたが他にあるだろうか。

 わたしは、まっ赤な火を燃やして夜の闇を照らすよだかにもなれず、かといって、地べたを這いずり回って泥水をすする覚悟もない。ただ、特等席の切符を握りしめたまま、降りることもできずに銀河の底を漂い続けているだけの、ひどく中途半端な幽霊だ。


 一度得てしまった絶対的な優位性を、自らの意志で捨てることのできない弱さ。

 泥にまみれて生きる尊さを口にしながら、泥に沈みきることを拒絶する傲慢さ。


 わたしは、自分のそのどうしようもない醜さを、静かに反芻する。

 嫌悪感はある。けれど、それ以上に、この冷たい部屋で誰にも脅かされずに眠れるという安心感のほうが、ずっと重くて甘かった。


 窓の外では、今日も昨日と同じように、馬車の車輪が石畳を叩く音が響いている。

 どこかの塔の鐘が鳴り、荷運びの男たちの怒声が風に乗って微かに聞こえてくる。世界はわたし抜きで、勝手に回っていく。


 胸の前で握りしめていた手を、ゆっくりとほどく。

 手の中には何もない。ただ、そこにあるのは、無敵の力と、それを手放せないちっぽけな魂だけ。


 ベッドからゆっくりと起き上がり、冷たい床に素足を下ろす。痛むふくらはぎを少しだけ引きずりながら、水差しからコップに水を注いだ。冷たい水が、乾いた喉を滑り落ちていく。


 わたしはこれからも、この力を抱えたまま、使わないふりをして生きていくのだろう。

 ずるくて、弱くて、誰の記憶にも残らない路傍の石ころとして。


 平等に降り注ぐ、白んだ空と、朝の光の匂いのもと。自分のずるさと冷たさを、ゆっくりと胃袋の奥で消化しながら。

 冷え切った部屋の隅で膝を抱えて、わたしは今日も息をひそめて生きていく。誰も助けず、誰の役にも立たないこの余剰な力を抱え込んだまま。

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