第八片 ほんとうの疲労と、安全圏のためいき
今日は、ベッドから起き上がった瞬間に、あの底知れない魔法の蓋をきつく閉めようと決めていた。
自分の内側でちろちろと燃えている、青白い炎のような力の源。それを、意識のずっと奥底にある冷たい石室に閉じ込めて、重い南京錠をかける。呼吸の度に入ってくるつめたい空気のそのおもさを、今日はぜんぶ、このからだだけで受け止めてみたい。そんな、一日の始まりの唐突な思いつき。
世界のほんとうの重力を背負って、すこし底のすり減った革靴を履く。採取用の手袋も置いてきた。出がけから、何かをわざと手放したい気分に任せるままに。
階段を降りる足音も、いつもより少しだけ鈍く、重たく響くような気がした。ギルドで壁の隅っこに貼られた薬草採取の紙を一枚だけ剥がし、街の外へと続く道を歩く。チートを使えば、足元の石ころにつまずくことも、吹き抜ける風に体温を奪われることもない。けれど、完全に力を切ったわたしのからだは、とても頼りなくて、ひどく脆い、ただの肉の塊だった。
街の城壁を抜けて、土の道を踏みしめる。
一歩進むごとに、ふくらはぎの筋肉がわずかに収縮し、靴底が地面の砂利をこする音が耳に届く。太陽の光は容赦なく頭上から降り注ぎ、森の入り口に辿り着く頃には、額にうっすらと汗がにじんでいた。ただ歩くだけ。それだけのことが、こんなにも息を弾ませるものだったのかと、新鮮な驚きがあった。
薄暗い森の中へ足を踏み入れると、ひんやりとした湿った空気が頬を撫でる。
ひでりのときはなみだをながし、さむさのなつはおろおろあるき。足元には厚く積もった腐葉土があり、踏みしめるたびに、むせ返るような命の終わりの匂いと、新しく芽吹く緑の匂いが混ざり合って立ち昇る。わたしは大きな羊歯の葉を両手でかき分けながら、目当ての薬草を探して斜面を登った。
斜面を登り切った頃には、もう立っているのもやっとだった。苔むした倒木にへたり込み、ふいごのように荒くなった呼吸を整える。
指先を使って、湿った腐葉土の中から目当ての薬草を探し出す。チートによる自動探知はない。自分の目と、鼻と、指先の触覚だけで、仕事をする。女将さんだって娘さんだって毎日当たり前にこなしているはずのことを、噛み締める。
土を掘り返すうちに、爪の間に黒い泥が入り込み、鋭い草の縁で手の甲にちいさな引っかき傷ができる。そこから、赤い血がぷっくりと小さな玉になって滲み出した。
痛みがある。
その微かなひりつきが、どうしようもなくわたしを安心させた。わたしは今、無敵の幻影なんかじゃない。どこからか飛んできた石に当たれば傷つき、毒のある虫に刺されれば熱を出す、ひどく凡庸で弱い生き物なのだ。わたしは泥だらけの指をそっと唇に当て、鉄の匂いのする自分の血を舐めた。
半日かけて、持ってきた麻袋の半分ほどが埋まる頃には、すっかり体力が底をついていた。
腰はひどく痛み、足は鉛のように重い。適当な倒木に腰を下ろし、水筒のぬるい水を飲む。喉を鳴らして水が胃に落ちていく感覚が、これほどまでに生々しく、おいしいと感じたのはいつ以来だろう。風が吹いて、頭上の木の葉が一斉にざわざわと鳴る。わたしは、泥だらけの両手を膝の上に広げ、その汚れた指先をただぼんやりと見つめていた。
森を抜けて街へ戻る頃には、空はすでに深い桔梗色に染まり、西の山の端には、沈みかけた太陽が赤い燐光のように鈍く明滅していた。
重い麻袋を背負う肩に、麻の紐がぎりぎりと食い込む。足を引きずるようにして石畳を歩きながら、わたしは何度も立ち止まっては息をついた。すれ違う人々は誰もわたしを気に留めない。ただの、くたびれた日雇いの採取者。きらきらとした英雄でも、恐ろしい魔女でもない、街の景色に完全に溶け込んだただの影。それが、わたしがいちばん欲しかったものだった。
ギルドで泥のついた薬草を数枚の冷たい銅貨に換え、すっかり夜の帳が下りた裏通りを歩いて、宿へと帰る。
一階の酒場の喧騒は、疲労で霞んだ頭の向こう側で、まるで別の水底の出来事みたいに遠く響いていた。軋む階段を三階まで上る。最後の一段を踏みしめたときには、もう一歩も動けないくらいに足が棒になっていた。
部屋に入り、重い鍵をふたつ掛ける。
窓を開ける気力さえ残っていなくて、泥だらけの靴を脱ぎ捨てるなり、わたしは硬いベッドの上にそのまま倒れ込んだ。
全身の筋肉が熱を持ち、心地よい疲労感がからだの奥底からじんわりと染み出してくる。
圧倒的な、疲労という現象。わたしは今日、自分のからだをちゃんと消費して、一日を生きたのだと感じる。
これがただ、持っている能力を一時的に使わなかっただけの、安全圏からのレクリエーションにしか過ぎない欺瞞だとしても。
それでもわたしは、そうやって生きたいんだと思っている。
開けなかった窓の向こうで、見えない真っ暗な空に、見知らぬ星座が青白く瞬いていることを想像する。星めぐりの歌を歌う者もいない。
ただ、自分の肺が空気を出し入れする音と、ドクンドクンと脈打つ心臓の音だけが、この部屋の静寂の中で確かに響いている。




