第七片 灰色の雨の、水底の楽園
今日は朝からずっと、そらは鉛色に鎖じられていた。
ひどく重たくて、湿った土と、どこかで朽ちていく葉の匂いを孕んだ雨の音。それは、ざあざあというよりはもっと低く、世界全体をすっぽりと灰色の毛布でくるんでしまうような、くぐもった響きのように聞こえる。
部屋の中に渡した麻縄には、わたしがさきほど手で洗い、硬く絞ったばかりのシャツと下着が、ぽつり、ぽつりと冷たい滴を床に落としながらぶら下がっている。指先にはまだ、冷たい井戸水の感覚と、ごわごわとした布の摩擦が残っていた。
手を痛めながら、ごわごわとした生地の繊維に染み込んだ汗や土のにおいを、時間をかけてゆっくりと押し出していく作業。
奥底の力を使えば、こんなひもじくて惨めな作業は、それこそ一瞬で終わるのに。
指先でほんのすこし、あたたかい風や、水分の蒸発を思い描くだけでいい。たらいの冷たい水に触れることなく汚れは消え去り、濡れて重くなった布は、たちまち太陽の匂いを纏ってふんわりと乾くだろう。魔法という名の、絶対的で圧倒的な近道。それを使えば、わたしはいつだってこの世界の法則からするりと抜け出した、無敵の存在になれる。
けれど、わたしはあえてその力を使わず、赤くなった自分の手で、ずっしりと水を含んだシャツを力任せに絞る。
人の身の丈には合うはずのないにせもののきらめき。そんなものを振りかざして、何でもできるだれかになったふりをする気持ちには、どうしたってなれない。わたしはどこまでもただの石ころで、ただこの薄暗い部屋のなかで、自分の身の丈に合った退屈を撫でていたい。
ぎゅう、と布を絞り上げると、指の隙間から冷たい水が滴り落ちる。
それを部屋の端から端へ渡した麻紐に引っ掛けて、一枚ずつ干していく。窓からの乏しい光が、濡れた洗濯物に遮られて、部屋の中はさらに一段と薄暗くなった。空気はしっとりと重い湿気を帯びて、石鹸のすこし粉っぽい匂いと、雨の日の埃の匂いが静かに混ざり合う。
もしも不便さをすべて魔法で塗り潰してしまったら、わたしはいよいよ、この世界のどこにも存在しない、ただの青い幻燈の光になってしまうような気がした。
階下からは、雨で外に出られない冒険者たちの退屈そうな話し声や、女将さんが苛立たしげに鍋を洗う金属音がくぐもって聞こえてくる。彼らもまた、この雨のせいで予定を狂わせ、洗濯物が乾かないことに舌打ちをし、足元の泥濘を疎ましく思いながら今日という日を消費している。
ベッドの端に腰を下ろして、洗濯物の裾から、ぽたり、ぽたりと床に落ちる水滴をただぼんやりと眺める。
部屋全体が、まるでなめらかな暗い水の底にそっくり沈んでしまったみたいだった。青い幻燈の明かりの下で、ちいさな蟹の子供たちが息をひそめて上を見上げているような、そんな静かで仄暗い水底。わたしはそこに沈む、名前のないひとつの石ころだ。
濡れた布が、部屋の微かな空気の揺らぎと自分の重さだけで、途方もない時間をかけてゆっくりと乾いていく。その、ひどく無駄で、じれったいほどの遅さのなかにいると、わたしはなぜだかたまらなく安心するのだ。指先ひとつで過程をすっ飛ばすことなく、ただ時間がそこを通り過ぎていくのを、この目で見届けることができるから。
床の板の隙間に、洗濯物から落ちた水滴が染み込んで、そこだけ色が濃くなっている。
その小さな染みをぼんやりと見つめながら、わたしはベッドに膝を抱えて座る。濡れた布から漂ってくる、少し埃っぽくて、ひどく生活の匂いがする生乾きの空気。それは決して快適とは言えないけれど、わたしがたしかに生き物としてここで呼吸をしているという、ひどく安心できる証拠の匂いだった。
魔法で無理やり乾かしてしまったら、この空間から「雨の日の匂い」が消えてしまう。
気温が低く、湿度の高いこの部屋の中で、布が周囲の空気を吸い込み、少しずつ、本当に少しずつその水分を手放していく。そのひどくもどかしい時間の経過を、わたしはシステムのエラーでショートカットしたいとは思うことができなかった。
窓ガラスに、雨粒が絶え間なくぶつかっては幾筋もの川になって流れていく。
こんな雨の日には、どうせどこにもいけない。でも、どこにもいけないということは、この小さな水底の楽園にずっといていいのではないか。
許されたようにも思える、そんな錯覚に浸りながら、わたしは湿った空気の中で膝を抱えている。乾ききらないシャツから立ち上るささやかな生活のにおいが、今日はわたしの、ほんとうの呼吸の代わりだった。




