第三十一片 空っぽの斜面と、ずるい歩幅
ギルドの掲示板のいちばん端っこから剥ぎ取ってきた、誰にも見向きもされない薬草採取の依頼書。
それを懐にねじ込み、わたしは今日も街の外れにある薄暗い森へ足を運ぶ。先日の雨のせいか、足元の腐葉土はひどく水分を含んでいて、一歩踏み出すたびに、底のすり減った革靴がじゅるりと嫌な音を立てて沈み込む。
木漏れ日が青い幻燈のように落ちる、いつもの斜面。わたしは背負っていた粗末な麻袋を下ろし、刃のいびつな真鍮の鋏を握りしめてしゃがみ込んだ。
けれど、そこにはあるはずのものがなかった。
羊歯の葉の陰にひっそりと群生しているはずの目当ての薬草が、今日に限って一本も見当たらないのだ。
誰か別の採取者が先に見つけて根こそぎ刈り取ってしまったのか、それとも季節の移ろいのなかで枯れ落ちてしまったのか。わたしは泥だらけの手で辺りの湿った下 草をかき分けてみたけれど、いつも見慣れた銀色の葉脈は、どこを探しても見つからなかった。
「……あ」
ちいさく声が漏れた。その瞬間、わたしの胸の奥で、奇妙にざわざわとした波立ちが起こるのを感じた。
これは、もしかして「依頼失敗」というやつではないだろうか。
この異世界という都合よく歪んだ箱庭で、泥臭い下積みの冒険者が必ず経験するであろう、ひどく凡庸な挫折。目当てのものが採れず、手ぶらでギルドへ帰り、冷たい赤銅貨をもらい損ねるという、ありふれた結末。
奥底に眠る理不尽な回路を閉じているいまのわたしは、ただの運の悪い、無力でどんくさい少女にすぎない。そのままならなさがもたらすリアルな手応えに、ほんの少しだけ、胸の奥のちいさな修羅がそわそわと落ち着きなく揺れる。失敗して途方に暮れることすらも、生活のひとつの正しい形なのだとするならば。
けれど。
手ぶらでギルドに戻るということは、つまり、受付で、どうして採れなかったのかという余計な報告と弁明をしなければならないということになる。仕事に失敗した無能な日雇いとして呆れられるか、あるいは、明日は別の場所を教えてやろうか、などとお節介な親切心に触れてしまうかもしれない。
そんな、他人の体温が混じった面倒なコミュニケーションの網目に巻き込まれるくらいなら。
わたしはしゃがみ込んだまま、ゆっくりと、長く重たい息を吐き出してから、周囲の木立に誰もいないことをもう一度確認して、ゆっくりと立ち上がる。
意識のずっと奥底にある、冷たい石室の南京錠にそっと指先を触れる。有機交流電燈の青白い光が、ほんの、ほんのわずかだけ脳髄の裏側に明滅する。
対象の検索。
視界の隅に、透明な光の粒子がふわりと浮かび上がり、森のさらに奥深く、今まで足を踏み入れたことのない暗がりへと続く、すきとおった道しるべを描き出した。
わたしは真鍮の鋏をポケットに突っ込み、その光の線をなぞるようにして、少しだけ歩く距離を伸ばした。
本来なら、魔物と遭遇する危険があるからと避けていた深部。でも、いまのわたしには、いざとなれば指先ひとつで世界の理すら書き換えられるという、絶対的な暴力の安全網がある。だから、恐れることなく、ただ、依頼を完遂して人間関係の摩擦を避けるためだけに、ずるい歩幅で奥へと進んでいく。
五分も歩かないうちに、光の粒が示す巨大な倒木の裏側に、目当ての薬草が密生しているのを見つけた。
わたしは奥底の回路を急いで閉じ、ふたたび、ただの無力な少女のふりをして、湿った土の上にしゃがみ込む。そして安物の鋏を使って、時間をかけてわざわざ泥にまみれながら、太い茎をねじり切っていった。
なんて卑小で、なんてずる賢い妥協だろう。
失敗というリアルな生活の苦味に直面した途端、結局は、身に余る力を使って結果だけを都合よく拾い上げる。清貧を気取っていながら、他者とのほんの少しの会話すら避けるために、あっさりと自分の定めたルールをわたしは破ってしまう。そんな浅ましい存在がわたしという人間なのだ。
麻袋がずっしりと重くなる頃には、額にうっすらと汗がにじんでいた。
すきとおった風が、頭上の木々の間を吹き抜けていく。わたしは泥だらけになった両手を見つめながら、自分のこのどうしようもない中途半端さを、苦い唾液と一緒に飲み込んだ。
それでも、ギルドで冷たい銅貨を受け取り、あの宿屋の三階の部屋へ誰にも干渉されずに帰るためには、この欺瞞が必要だった。
重たい麻袋を背負い、元来た道を歩き出す。靴底が土を踏む鈍い音だけが、ひどく嘘っぱちに響く森のなかで、わたしはただ、自分の輪郭の脆さを静かにつなぎ止めている。




