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幸福の飽和

 窓の外、港町の海は夕刻の光を吸い込んで、濃密な琥珀色に染まっている。

 潮騒の音はどこまでも穏やかで、かつて僕を追い詰めていた一条家の冷徹な規律も、鳳家との喧騒に満ちた偽装の日々も、今では遠い前世の記憶のように霞んで見えた。


 部屋の中には、陽葵ひまりが淹れた茶の香りと、彼女の体温が混ざり合った、特有の「安らぎの匂い」が充満している。

 陽葵の腹部は、月を追うごとにその存在感を増し、今では僕たちが追い求めてきた「適合」の集大成として、そこにある。新しい命。僕と彼女が、一日に三度の共鳴を欠かさず、互いの細胞を混ぜ合わせ続けた結果として導き出された、唯一の正解。


「……れい君、見て。また動いた」


 陽葵が僕の手を取り、膨らんだその場所にそっと置く。

 掌を通じて伝わってくるのは、僕の拍動でも陽葵の鼓動でもない、もっと速く、もっと猛烈な、生命の爆発のようなリズムだった。

 この子は、生まれる前から知っているのだ。自分を形作ったのが、世俗的な「愛」などという曖昧な言葉ではなく、生存を賭けた圧倒的な「肉体の合致」であったことを。


 僕たちは今、かつてないほどの幸福の中にいた。

 だが、それは単に「平穏」であるという意味ではない。僕たちのそれは、常に「飽和」していた。

 朝の覚醒。昼の充填。夜の深淵。

 一日に何度も繰り返される接触は、出産を控えた今、さらに密度を増していた。陽葵の身体が新しい命を育むために熱を帯びるほどに、僕の身体もまた、その熱を逃すまいと彼女を求める。

 

 これまでの人生、僕はずっと「空(零)」だった。

 一条の跡取りとして完璧な「一」を演じ、結衣ゆいという聖域に淡い恋を抱き、瑛理香エリカという嵐に身を投じた。萬里花まりかの執念に焼かれ、さえの冷徹さに安らぎを求めたこともあった。

 彼女たち一人一人が持っていた「鍵」。それは確かに、僕の心の扉を開ける可能性を持っていた。だが、どの鍵も、僕の奥底にある「底なしの空腹」を完全に埋めることはできなかったのだ。


 だが、陽葵は違った。

 彼女は鍵を持って現れたのではない。彼女自身が、僕と同じ「鍵穴」を持って生まれてきた、鏡合わせの存在だった。

 お互いがお互いを、毎日何度も、死ぬまで、狂ったように求め続けなければ生きていけないという、壊れた設計図。その欠陥を「欠陥」として共有し、誰にも理解されない頻度で互いを補給し合う。

 この飽和した関係こそが、僕にとっての「完結」だった。


「ねえ、れい君。あの人たち、元気かな」


 陽葵がふと、遠くを見るような目で呟いた。

 彼女の指す「あの人たち」——。

 エッフェル塔の下で世界の経済を動かしているであろう瑛理香。

 教壇に立ち、子供たちに「正しい愛」を説いているであろう結衣。

 病を克服し、冷徹な権力者として君臨しているであろう萬里花。

 そして、影として誰かの平和を守り続けているであろう冴。


 彼女たちとの決着は、もう随分前に済んでいた。

 僕が陽葵を選んだとき。いや、僕の「肉体」が陽葵と共鳴し、他の誰の肌も受け付けなくなったあの瞬間に、物語は終わっていたのだ。

 かつての仲間たちは、僕の選んだこの道——「家柄」も「過去の約束」も捨て、ただ本能のままに一人の女を貪り続ける生活——を見て、何と言うだろうか。

 失望するだろうか。あるいは、僕たちの顔に刻まれた、この救いようのないほど満たされた「幸福の相」を見て、言葉を失うだろうか。


「……きっと、みんな自分たちの場所で、自分たちの『正しさ』を見つけてるよ」


 僕は陽葵の肩を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。

 かつて大切に持っていたペンダント。あの古ぼけた、誰との約束かも判然としなくなった金属の塊は、もう手元にない。

 天城山の吹雪の中で、僕はそれを捨てた。

 過去の呪縛を海に還し、未来の希望を陽葵の胎内に託した。

 

 今、僕の手の中にあるのは、鍵ではない。

 陽葵という、実在する熱量。

 毎日、何度でも僕を「一」にしてくれる、最高の適合。


 夜が近づいてくる。

 港町の灯りが一つ、また一つと灯り、僕たちの「三度目」の儀式の時間がやってくる。

 飽和した幸福は、決して溢れ出して消えることはない。それは、僕たちが呼吸を続ける限り、絶え間なく充填され続けるからだ。


「さあ、行こうか。陽葵」


 僕は彼女の手を引く。

 偽りの恋が僕を殺そうとしたあの日から、随分と遠くへ来た。

 今、僕は、生きた心地そのものである彼女と共に、真実の始まりへと足を踏み出す。

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