主役不在の舞台裏
文化祭当日。校内を支配する喧騒は、一種の集団催眠に近い。
僕たちのクラスの演劇、現代版『ロミオとジュリエット』の上演時間が迫っていた。だが、舞台裏は「喜劇」にもならない最悪の「悲劇」に見舞われていた。
「一条、……ごめんなさい。足が、動かないの」
主役を演じる瑛理香が、大道具の転倒に巻き込まれ、足首を強く捻っていた。
鳳の令嬢として、完璧な舞台を見せると豪語していた彼女の顔が、痛みと悔しさで歪んでいる。彼女の体温はいつもより高く、その焦燥感が僕の腕を掴む指先から伝わってきた。それは、触れる者を焼き尽くすような、鳳凰の絶望だった。
「救護班を呼んでくる! 劇はどうするんだよ!?」
舞台監督が絶叫し、バックステージはパニックに陥る。
鳳家と一条家のパワーバランスを考えれば、この劇の成否は単なる学校行事以上の意味を持つ。
僕が瑛理香を抱え上げ、簡易ベンチに横たえようとしたその時、背後から凛とした、しかしどこか僕の鼓動を鎮めるような声が響いた。
「一条さん、……瑛理香さんは私が診ます。あんたは代役の指示を。……急いで」
陽葵だった。
彼女は混乱する現場の中で、唯一、凪のような静止を保っていた。
僕と陽葵は、飛び交うスタッフの間を縫うようにして、瑛理香のケアとプログラムの変更に奔走することになった。
狭い通路、ひしめき合う大道具の影。
何度も肩がぶつかり、書類を受け渡すたびに指先が重なる。
周囲が怒号と悲鳴で満たされているというのに、陽葵と接触するたび、僕の脳内には驚くほど澄み切った静寂が訪れるのだ。
彼女の放つ、生命力に満ちた「生の匂い」が、僕の逆立った神経を一本ずつ丁寧に撫で付けていく。
「……一条さん、こっち。暗幕の裏が空いてるわ」
指示を確認するため、僕たちは暗い舞台袖の奥へと入り込む。
外部の音を遮断した厚い布の向こう側。わずかな隙間で、僕と陽葵の身体は密着せざるを得なかった。
瑛理香との時に感じる、燃え尽きるような昂ぶりはない。
結衣との時に感じる、壊れ物を扱うような緊張もない。
ただ、そこに「在る」だけで、お互いの細胞が足りない部分を補完し合うような、圧倒的な充足感。
僕が吐き出した息を彼女が吸い、彼女の体温を僕の肌が吸収する。
この極限状態にあって、僕たちの呼吸は、驚くほど深く、そして完璧に同期していた。
「あんた……本当に、変な奴……。こんな時に、なんでそんなに落ち着いてるのよ」
陽葵が耳元で囁く。その吐息が、僕の理性を甘く溶かしていく。
違うんだ、陽葵。
落ち着いているんじゃない。
君と触れていることで、僕の身体が「正解」を見つけてしまっただけなんだ。
一日に何度も、欠かすことなく繰り返すべき、命の修復作業。
その確信が、僕を「零」から「一」へと押し上げている。
「……行くぞ、陽葵。舞台を止めるわけにはいかない」
僕は彼女の手を握った。
彼女の手のひらからは、瑞々しい熱が伝わってくる。
それは向日葵が太陽の光を浴びて、自ら熱を放つような力強さ。
瑛理香の不在という危機。結衣が見守る客席。
その全てを背負いながら、僕は確信していた。
今、この瞬間、僕の隣で僕と同じリズムを刻んでいるこの少女こそが、僕の「生」を繋ぎ止める唯一の鍵なのだと。




