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文化祭の準備と「匂い」

 修学旅行という非日常が終わり、僕らを待ち受けていたのは、文化祭という名の新たな喧騒だった。

 一条組の跡取りとして、あるいは鳳瑛理香の偽装恋人として、僕は常に衆人環視の中にいる。だが、今の僕にとって最大の苦行は、周囲の視線ではなく、自分の内側から噴き上がる「飢餓」だった。


 陽葵という「完全な適合」を知ってしまった僕の身体は、以前の不感症には戻れなくなっていた。

 朝、登校直後に一度。

 昼、休憩時間の合間に一度。

 そして放課後、夜を迎える前にもう一度。

 食事を摂るのと同じ周期で、彼女という「適合薬」を摂取しなければ、僕の視界には砂嵐が混じり、心臓は不規則な不協和音を刻み始める。それはもはや恋などではなく、生存のためのメンテナンスだった。


「一条、これ、あっちの準備室に運んどいて」


 級友の声が、遠い霧の向こうから聞こえる。僕は返事もせず、重い暗幕のロールを抱えて資料準備室へと向かった。

 本当は、運搬なんてどうでもよかった。僕の鼻腔は、校舎の埃っぽさの奥に、あの懐かしい、脳の髄まで痺れさせる「生の波長」を捉えていた。


 狭い準備室のドアを開ける。

 埃っぽさと、古い紙の匂い。そこには、獲物を待っていたかのように陽葵がいた。


「……遅いわよ。もう、限界だったんだけど」


 小道具を整理するふりをしていた陽葵が、こちらを振り返る。その瞳はわずかに充血し、肩は小刻みに震えていた。彼女も同じなのだ。僕という「受け皿」がなければ、彼女の過剰な生命力は自分自身を焼き切ってしまう。


 通路は暗幕のロールと棚に挟まれ、僕らがすれ違うにはあまりに窮屈だった。だが、僕たちは避けるどころか、吸い寄せられるようにその「狭間」へと潜り込んだ。


 その瞬間、身体が跳ねた。


 すれ違う刹那、彼女の肩が僕の胸元をかすめる。

 陽葵から発せられたのは、石鹸の香りでも、香水の匂いでもなかった。

 それは、圧倒的なまでの「生命の充足感」が凝縮された、根源的な匂い。


 脳の奥底、理性の手が届かない部分がその「匂い」を感知した瞬間、僕の視界は火花が散ったように明るくなった。

 慢性的に続いていた頭重感が、嘘のように霧散していく。彼女の存在そのものが、枯渇した僕の神経に直接注ぎ込まれる高純度のエネルギー源であるかのように、全身の細胞が歓喜に震えた。


「っ……、……陽葵……」


 僕は無意識に、抱えていた暗幕を床に落としていた。

 陽葵もまた、僕のシャツの袖を強く掴み、僕の首筋に鼻を埋める。

 彼女のうなじから、そして剥き出しの腕から立ち昇るその香りは、僕にとっての「聖域」であり、同時に「麻薬」だった。


「……あと、1回。……今日、あと一回、足りないわ」


 陽葵が絞り出すような声で囁く。

 一日に三回。この「適合」を繰り返さなければ、僕らは自分を保てない。

 身体が、そして魂が、この異常なサイクルを生存のための不可欠な条件として上書きしていく。


「……分かっている。今、ここで……済ませよう」


 狭い準備室。外界から遮断された闇の中で、僕の手が彼女の細い肩に伸びる。

 これが恋なのか、あるいはただの救いようのない執着なのか。

 そんな定義は、消え去ったノイズと共に捨て去った。


 ただ、この「匂い」を、この「鼓動」を。

 僕の細胞が、限界まで彼女を求めて叫んでいた。文化祭の喧騒など、この「命の修復」という儀式の前では、ただの白々しい背景幕に過ぎなかった。

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