ベランダに引っかかっていた「人間ストレージ」
電気が死んで、もう何年になるだろう。
世界は、たった1発の閃光で「不便」を選ばされた。高度400キロで炸裂した核が撒き散らしたパルスが、地上のありとあらゆる半導体を、一瞬で焼き切ったのだ。シリコンも、マイコンも、CPUも。人類が誇った緻密な集積回路は、みんな仲良く「焦げた石」になった。
だから、今この世界を回しているのは、油圧と、ワイヤーと、機械式リンクと、真空管と、内燃機関だけだ。目に見えて、手で触れて、原理が分かるものだけ。
パトリック・マッカラン——通称パティは、そんな世界の片隅で、今日も油まみれの手を動かしていた。
「よし、今日も一発で目を覚ませよ、頑固じいさん」
ガレージの床に据えた発電機、通称じいさんのクランクに、俺は全体重をかけた。ボッ、ボボッ、と黒煙を1度吐いて、それから、ドドド、と規則正しい鼓動が始まる。手応え、上々。
親父は、EMPの前に死んだ。俺に残されたのは、この傷だらけのガレージと、油の染みたスパナ1本、そして「機械は嘘をつかねえ」という口癖だけだった。嘘をつくのは、いつだって人間か、電子だ。だから俺は、自分の手で握れるものだけを信じることにしていた。
満足げに額の汗を拭った、まさにその瞬間だった。
ドガシャアアアンッ!!
頭上のベランダで、盛大に何かが壊れる音がした。
「うわっ!?」
見上げれば、崩れかけた鉄骨の手すりに、何か白いものが引っかかっている。人だ。しかも——女の子。
パラシュートの残骸みたいな布を体に巻きつけた少女が、逆さまにぶら下がって、ぷらんぷらんと振り子みたいに揺れていた。ラピスラズリみたいな、深い青の髪。小柄で、羽根みたいに華奢な体。荒廃したこの街には、あまりにも不釣り合いなくらい、可憐で——そして、ひどく眠たそうな顔をしている。
「……おい、生きてるか?」
少女の目が、かちり、と開いた。逆さまのまま、俺をぼんやり見て、それから、へにゃっと笑う。
「……えへへ。この建物、築47年だねっ。壁のひび割れと、鉄筋の露出具合から見て、耐荷重はもう設計値の6割以下なの。そこの手すりの溶接痕も、熱でぼろぼろ。さぎりの体重、42キロを支えていられるのは……あと3分12秒くらい、かなっ?」
「は?」
「だからね、早く助けてほしいの。そこの、あぶら臭い人ーっ」
……なんだこいつ。
文句を言う暇もなかった。少女の予言どおり、手すりがぐしゃりと歪む。俺は反射的に地面を蹴って、落ちてくる少女の下へ滑り込んだ。
どすん、と、腕に重みが落ちる。びっくりするほど軽い。日向で干した毛布みたいな匂いがした。
「っと……! 無事か?」
「んー、無事じゃないよっ。ぱーちゃんの心臓、どきどきうるさくて、さぎりの計算の邪魔なのっ。……あ、ぱーちゃんって、勝手に呼んじゃった。えへへ」
「ぱ、ぱーちゃん!? 誰が!」
「だって、名前、まだ知らないもん。さぎりはね、沙霧・ラピス・タリス。世界のぜんぶを覚えてる、完全記憶能力者なのっ」
少女は側頭部を、とんとん、と指で叩いてみせた。えへへ、と得意げに笑って。
「ちなみにね、このガレージの工具、ぜんぶで237点あるよっ。規格の合ってないインチ工具が41点。錆びて使えないのが19点。そこの棚の上から3段目、右から2番目の缶に、古いキャンディが6個。賞味期限は、とっくに切れてるのっ」
「なんで俺のキャンディの数まで知ってんだよ!?」
「一目見たもん。視界に入ったものは、ぜんぶ、写真みたいに残っちゃうの。消したくても消せないんだよ? ……ちょっとだけ、大変なんだから」
最後の一言だけ、彼女の声はほんの少し、寂しそうに沈んだ。
少女は俺の腕の中から、するりと降りて、けれどすぐに、俺の作業着の裾を、きゅうっと両手で握った。まるで、そこだけが世界の安全地帯みたいに。
「……あのね、さぎり、追われてるの。この頭の中身を、こじ開けようとする、こわい人たちに」
「関わらない方がいいよ、ぱーちゃん」さぎりは、俺の裾を握ったまま、俯いて言った。「さぎりといると、こわい目に遭うの。だから……逃げて。さぎりのことは、置いていっていいから」
その声は、強がっているくせに、今にも泣きそうだった。世界のぜんぶを覚えていられる子が、たった1人で、逃げて、逃げて、逃げ続けてきたんだろう。俺には、それが、なんとなく分かってしまった。
「はぁ? 何言ってんだ」俺は、その小さな手を、そっと握り返した。「困ってるやつを見捨てる趣味はねえよ。それに——せっかく、うちのキャンディの数を数えてくれたんだ。1個くらい奢らせろよ。賞味期限切れだけどな」
「っ……こ、この状況で、キャンディ……?」さぎりが、きょとんと顔を上げた。
「緊張、ほぐれただろ?」
彼女の頬が、ぼっと赤くなる。図星らしい。それから、ふにゃっと、泣き笑いみたいな顔になった。
「……ぱーちゃん、変なの。えへへ」
その時、遠くから聞こえた。ズシン、ズシン、という重い足音。舗装を砕きながら、こちらへ近づいてくる、機械の脚。
さぎりの体が、びくりと震えて、俺の裾を握る手に、ぎゅっと力がこもった。
「……来ちゃった」
路地の角から、装甲を継ぎ接ぎした4脚のメカが、ぬっと醜い頭をもたげた。油圧の駆動音を、ギチギチと軋ませながら。
俺は、腰のホルスターから、冷たいガバメントを抜き放った。




