零(ゼロ)の飢餓
「愛だの恋だの、そんなものは脳内のバグだ。あるいは、質の悪い集団催眠の類だろう。……と、もし僕が電波に乗せて独り言を垂れ流す仕事についていたなら、間違いなくそう嘯いて、見えないリスナーから失笑と罵倒を買い叩いているに違いない」
僕は、自分の部屋のベッドで天井を見つめていた。
一条零。それが僕の名だ。ゼネコン界の巨龍と謳われる「一条組」の跡取り息子。誰の目から見ても、僕の人生は完成されているように見えるだろう。強固な家柄、約束された富、そして人並み以上の外見。だが、この皮膚のすぐ下にある僕の本質は、空っぽの「零」に過ぎない。
僕には、決定的な欠落がある。
それは「感覚」だ。
誰かの手に触れても、肩がぶつかっても、僕の心拍数は凪いだ海のように平坦なままだ。かつて付き合った女性がいた時期もあるが、抱擁を交わしても、接吻をしても、脳の報酬系が沈黙を守り続けている。世界という送信機が放つ「熱」を、僕という受信機が一切受け付けない。僕は、この色彩豊かな日常から隔離された、絶望的な絶縁体だった。
唯一、僕をこの世界に繋ぎ止めているのは、胸元で冷たい重みを発しているペンダントだけだ。
十年前。避暑地の高原で出会った、一人の少女。名前も顔も、霧の向こうに霞んでしまったけれど、彼女と交わした約束だけは覚えている。「また会えたら、この鍵で、中を開けて」。その抽象的で実体のない「記憶」だけが、僕を辛うじて人間側の領域に留まらせていた。それは僕にとっての聖域であり、同時に、現実の誰にも反応できない僕の「免罪符」でもあった。
だが、その静寂は、父・一条組組長の怒号によって、あまりにも暴力的に粉砕されることになる。
「おい、零。聞いてんのか。……死に損ないのツラしてんじゃねえぞ」
組の応接室。重厚な革張りのソファに沈む僕の前に、父が一枚のポートレートを叩きつけた。
そこに写っていたのは、鳳瑛理香。新興IT財閥「鳳」の令嬢だ。
「ここ最近の鳳との利権争いで、現場の連中は血気盛んだ。このままじゃ全面戦争、業界全体が共倒れになる。そこで――お前ら、今日から恋人になれ」
……は?
僕は自分の耳を疑った。現代日本で、まるで昭和のヤクザ映画か、低俗なラブコメのプロットのような話が飛び出すとは。
一条組の伝統的な利権と、鳳財閥のデジタルな資本力を「融合」させるための、生贄としての偽装交際。
父の目は本気だった。もし断れば、僕が継ぐはずの未来だけでなく、多くの構成員の生活が立ち行かなくなるだろう。
「……分かりました。演じればいいんでしょう、恋人のフリを」
僕は淡々と答えた。どうせ誰に対しても「零」なのだ。相手が誰であろうと、僕の心が動くことはない。
だが。
翌日、学校の屋上で初めて彼女と対峙した瞬間、僕の「絶縁」という盾は、想定外の過電流によって一瞬で焼き切られた。
「あんたが私のパートナー? 冗談じゃないわ」
放課後の屋上。西日に照らされた鳳瑛理香は、写真以上に暴力的な美しさを放っていた。金色の髪が夕風に揺れ、宝石のように硬質な碧い瞳が僕を射抜く。彼女は僕を一瞥するなり、その高貴な唇を歪めて冷笑した。
「一条組の跡取りなんて聞いてたから、もう少しマシな男かと思ってたけど。……何よ、その、死んだ魚のような目は。吐き気がするわ」
彼女が僕に歩み寄り、乱暴に僕の胸ぐらを掴み上げた。
その刹那、僕の世界から音が消えた。
――あつい。
瑛理香の指先が、シャツの薄い生地を透かして僕の鎖骨の下に触れる。
その瞬間、沸騰した鉛を流し込まれたような、尋常ではない熱量が僕の皮膚を焼いた。
何だ、これは。
これまで誰に触れられても沈黙を守り続けていた僕の神経細胞が、一斉に悲鳴を上げ始めたのだ。それは安らぎや親愛といった生ぬるいものではない。「侵食」であり、「攻撃」だった。
瑛理香の体温はあまりに高く、激しい。それは彼女が抱える傲慢さや、隠しきれない孤独がそのまま熱エネルギーになったかのように、僕の冷え切った血流を強引に攪拌する。
「離せ……」
僕は声を絞り出した。自分の心拍数が、不規則に、そして暴力的に跳ね上がっているのが分かった。不快だ。決定的に不快で、そして逃げ出したいほどの不協和音。
「嫌よ。あんたが私の所有物であることを、その貧相な身体に刻んであげるわ。いい? 卒業するまでの間、あんたの時間は一秒残らず私のものよ」
彼女がさらに顔を近づけてくる。
彼女の呼吸が、僕の頬を撫でる。その湿り気さえもが、僕の理性をじりじりと削り取っていく。
これが、恋?
違う。こんなものは、生存を脅かす天敵を前にした時の、剥き出しの生物的反応に過ぎない。
僕は彼女の腕を振り解こうとしたが、指先が彼女の手首に触れた瞬間、またしても全身を激しい火花が走り抜けた。
僕の中の「零」が、彼女の「一」という過剰なエネルギーによって、無理やり正の数へと書き換えられていく。
瑛理香は、驚いたように僕の胸元を見つめた。
服の下で、僕の心臓が壊れた時計のように激しく打ち鳴らされているのが、彼女の指先にまで伝わっているのだろう。
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、僕の耳元で囁いた。
「……いい鼓動ね、一条。あんたの身体だけは、嘘がつけないみたいじゃない」
その言葉は、僕の魂の最も奥底にある暗い穴に、冷酷な光を差し込んだ。
ペンダントに封じた、あの静謐な思い出。
理想の恋。
そんなものは、この目の前にある暴力的な熱量の前では、あまりに無力だった。
僕は自覚する。
この日から始まる「偽りの関係」は、僕の平穏を奪い、僕の価値観を根底から解体し、そして僕という存在を……最も生々しい「執着」へと叩き落とすための、長い長い監獄の始まりなのだと。
一条零の、偽りの恋。
それは僕を殺すためのプロローグ。
夕闇が迫る屋上で、僕は一人、止まらない身体の震えを必死に抑え込んでいた。
僕が求めている「答え」は、本当にこの熱の中にあるのだろうか。
それとも、まだ見ぬ誰かが、この火傷を癒やす「別の真実」を運んでくるのだろうか。
まだ誰も知らない、僕と彼女たちの、身体を賭けたサバイバル。
その最初の幕が、今、無惨に引き剥がされた。




