第35話 基準を守るということ
エルディア・クロウが再び街を訪れたのは、橋梁点検から数日後だった。
応接室に通されると、彼は以前と変わらぬ落ち着きで座っていた。
「報告は受けました」
「橋梁案件、成功ですね」
「はい」
俺は頷く。
「俺はいませんでした」
「ええ」
彼は淡く微笑む。
「それが重要です」
しばらく沈黙が落ちる。
「推薦の件は断ったと聞きました」
「はい」
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。
エルディアは、少しだけ目を細める。
「なぜ、そこまで拒むのですか」
「名誉も、権限も、報酬も増える」
「責任が増えるからです」
俺は静かに言った。
「俺が前提になる」
エルディアは頷く。
「あなたは、何を守りたいのですか」
以前にも似た問いを受けた気がする。
だが、今は少し違う。
「……基準です」
自分でも驚くほど、すっと言葉が出た。
「怪我をしても仕方ない、という基準」
「俺がいれば止まる、という基準」
「どちらにも、寄りたくない」
エルディアは、黙って聞いている。
「誰かが怪我をする前に止めたい」
「でも、それを俺の役目にしたくない」
「役目にした瞬間、皆が考えなくなる」
それが、一番怖い。
エルディアは、ゆっくりと息を吐いた。
「あなたは、英雄になりたくないのですね」
「なりたくありません」
「では、何でありたい?」
少し考えてから答える。
「……ただの一人でいたいです」
「止められるなら止める」
「止められなくても、責任を奪わない」
エルディアは、小さく笑った。
「それは、とても難しい立場です」
「はい」
「ですが」
彼は続ける。
「制度化は行いません」
はっきりとした宣言だった。
「あなたを前提とする枠組みは作らない」
「今回の検証で、十分に証明されました」
世界は、あなた抜きで回る。
それを言外に含んでいる。
「ただし」
「はい」
「あなたがいることで、現場が慎重になる事実も消えません」
「……わかっています」
「ならば、それを“空気”のままにしておくのが最適でしょう」
空気。
制度にも、称号にもならない。
だが、確かに存在するもの。
「あなたは」
エルディアは静かに言った。
「基準を上げる存在ではなく、基準を守る存在です」
守る。
「上げすぎない」
「下げすぎない」
その言葉が、胸に落ちる。
「世界は、不完全です」
「だからこそ、完全を求める個人は危険です」
少しだけ、視線が柔らぐ。
「あなたが万能でなかったこと」
「そして、万能になろうとしなかったこと」
「それが、この街の幸運です」
応接室を出る前、エルディアは振り返った。
「英雄は、物語に必要です」
「ですが、現実に必要なのは、基準を守る人間です」
扉が閉まる。
静寂。
俺は、椅子にもたれ、天井を見上げた。
英雄にならない。
だが、何もしないわけでもない。
それでいい。
完璧でない世界を、
完璧にしないまま守る。
それが、俺の選んだ位置だった。
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