007)【一人じゃない】
夕方、山下と小野木はバックヤードのミーティングルームで向かい合った。
「改まって、どうしたんだ」
「久谷さんのことで」
退職の相談かと身構えていた山下は少し安心した。
「久谷さんが、何故この仕事をしているのか、山下さんは、ご存知ではないですか?」
「何故そんなことを聞くんだ」
小野木は決まりが悪そうに一瞬黙ったが、切羽詰まったように口を開いた。
「僕は久谷さんに、この仕事を辞めて貰いたいって思ってるんです」
「それは、君が決めて良いことじゃないだろ」
「そうなんです。それに、僕の意見なんて、久谷さんは聞いてくれません」
「だったら、どうして」
「研修旅行で、僕と久谷さんは、暴徒化した人々に襲われたんです。でも、久谷さんはギリギリまで反撃しませんでした。歴史を変えてしまうかもしれないからです。いくら高い格闘センスを持っていても、そんな考えでこの仕事を続けていたら、いつか命を落としてしまう」
小野木は辛そうに顔を歪めた。
「僕は久谷さんの訃報なんて、聞きたくないんです」
「その行為が、結果的に歴史に関与してしまった場合でも、緊急避難に当たる時は、不問にする」
山下は『T・T・T』の規則を暗唱した。
「規則八十七条ですよね。知っています。僕達アテンダントの命綱ですから。だけど、久谷さんの考えは、違うと思います。久谷さんは、歴史が変わってしまうことを、極端なくらいに恐れている。僕にはそう見えるんです」
小野木の澄んだ瞳が山下には羨ましかった。
若さは純粋だ。
「研修生でいる間は、いざとなったら僕が、久谷さんを守ればいいって、思ってたんですけど。この間遂に、単独のアテンドの話が来てしまったから。この先はもう、久谷さんを守れません」
山下はしばらく考え込んだ。
小野木の理屈は小野木と遥花の双方に、この先も足枷となる気がした。
「久谷さんが、この仕事をしている理由は分からないが、歴史が変わるのを恐れている訳は、何となく想像出来る」
言いながら、話して良いものか迷っていた。
「教えてください」
「小野木君が、久谷さんのためにならないことをしない、誰にも話さないと信じていいか?」
「はい」
小野木は熱い視線で山下を見返してきた。
「久谷さんは、婚約者を事故で失っている。自分が待ち合わせに遅れたせいで、婚約者が事故に巻き込まれたと。おそらく今も、自分を責めている」
「そんな。でも、それがどうして」
「バタフライエフェクトは知っているだろう。小さな蝶の羽ばたきが、遠く離れた地に、嵐をもたらすというやつだ」
小野木は山下の言わんとすることが、分からないといった感じだった。
「過去の、ある時点の歴史を変えてしまったら、それがどんな風に、現代に影響を及ぼすか計り知れない。久谷さんは、婚約者と過ごした時間が、この世から消え去るのを恐れているんだ」
既に失ってしまった未来だから、せめて過去は失いたくないと、遥花が呟いたのを聞いたことがあった。
「山下さんは何故、事故のことを知ってるんですか?」
「彼女の婚約者は、俺の後輩であり、親友だった。本来なら、彼がここで働いているはずだったんだ」
「久谷さんは今も、その婚約者を思い続けているんでしょうか?」
小野木が本当に聞きたかったのは、この質問の答えかもしれない。
「誰とも付き合おうとしないのは、そういうことだと思う」
がっくりと、目に見えて肩を落とした小野木を残して、山下は部屋を出た。
次の週の早々、遥花と小野木は、古代マヤ文明の都市コパンへ旅立って行った。
二人が戻るまでの約1ヶ月、次の新月から始まる現地での新拠点建設準備で、山下はほとんど毎日『T・T・T』に泊まり込んでいた。
やっと、拠点の建設場所か決まったのだ。
「山下さん、私。大学の授業が始まるのが、次の新月の二日後なんです。次の新月の日まで、お手伝いさせてください」
インターンシップもあと一週間となった日、山下の様子を見かねた璃子が申し出てくれた。
予定では三月いっぱいでインターンシップは終了だった。
「本当か。それは助かる」
猫の手も借りたい状態の山下には天使の声に聞こえた。
このところの忙しさで、自分の仏頂面具合は更に増しているはずなのに、恐れずに申し出てくれたのが、素直にありがたかった。
「じゃあ、ちゃっちゃと、管理部に連絡しておきますね」
璃子の頬が紅潮していた。
山下の気が変わらない内にとでも言うように、さっさと自分で、延長の事務手続きを済ませてしまった。
四月上旬、新月前日に遥花と小野木が無事帰国した。
熟年夫婦一組と、一人で参加した男性三人が一緒だった。
総勢七人の一行は『T・T・T』が『時の扉』と読んでいる、入出国エリアに帰って来たのに気付くと、歓声を上げて、一人一人ハイタッチを交わしていた。
楽しい旅だったようで良かったと、微笑んでいる山下の横で、璃子もモニターにかじり付くようにして、その様子を見ていた。
山下を気遣って残ってくれた璃子へのお返しのつもりで、この場へ同席させたのだった。
「素敵ですね。家族旅行で、帰国した時の気持ちを思い出します」
「どんな気持ちだった?」
山下がそんなことを聞いてくるなんて予想外だというように、璃子が瞼を見開いた。
「えっと。向こうでピンチなんかもあったので、無事に帰って来られたのを、パパや家族、遥花さんに感謝してました。でも、夢から覚めてしまったっていう、寂しい気持ちもありました」
「そうか」
山下はモニターを眺めながら、独り言のように続けた。
「俺は、そういう人達の顔を見られて感謝すると同時に、あの輪に自分がいないことに、いつも切なくなる」
璃子がはっとして、山下を見上げた。
「山下さん。私がいます。山下さんは、一人じゃないです」
璃子の声は小さく、山下には前半部分がやっと聞き取れたかどうかだった。
璃子はそれでも、ひたむきな視線を山下へ送った。
「ん?」
山下は一瞬、間の抜けた顔をした。
「ああ、犀川さんの存在を忘れていた訳じゃない。今日はもう遅い。上がってくれていい」
山下の言葉を聞いた璃子は、顔を赤くして俯いていた。
「二人はこれから、感染症なんかの検査に入るから、対面出来ないけど。連絡は取れる」
「連絡、してみます」
消え入りそうな声で呟き、璃子は俯いたまま部屋を出て行った。
翌日、拠点建設へ旅立つメンバーとの段取り確認や、別の地へ旅立つ顧客達の相手で、璃子の存在は放置状態となっていた。
過去へ送り出す、その日のミッションを終えた夜、山下がプレゼンルームに戻ると、璃子の姿は無かった。
璃子の修業時間はとっくに過ぎていたのだ。
しまった、今日が最終日だったと、気が付いて、さすがに山下も焦った。
自分の机を見ると、紙袋が置かれている。
紙袋の中には細長い包みと封筒が入っていた。
山下はすぐに封筒を開けた。
見慣れた璃子の筆跡で、メッセージカードに細かい文字が並んでいる。
『山下さん。短い間でしたが、大変お世話になりました。夏休みに戻って来ます。よろしくお願いします。犀川璃子』
包みのほうを破くと、山下の好みの色合いのネクタイが入っていた。
山下はすぐに、璃子へメッセージを送った。
今日までの働きぶりへの感謝と、ネクタイのお礼、夏休みについては心待ちにしているが、学業とプライベートを優先してくれて構わないといった内容を書いた。
返信は来なかった。