005)【璃子】
翌日、前日と同じ時間帯に璃子の車の訪問が告げられた。
ここへ来たいと、今日は事前に連絡があった。
口実を設けて断ろうとも考えたが、思い直して璃子を迎え入れることにした。
「昨日はごめんなさい。突然押し掛けた上に、急に帰ってしまって」
自ら扉を開けて店舗内へ入って来た璃子は、そう言って昨日と同じ席へ座った。
「構いませんよ」
山下は優しい笑顔を向けた。
今日の璃子には、前日のようなどこか陰のある決意は見られない。
同じ話をしに来たのでは無さそうでほっとした。
「今日は、いかがされましたか」
山下はわざと、昨日とは違う対応を見せていた。
暗に、用の無い来訪は歓迎しないと、態度や言葉で示していたのだ。
「昨日、山下さんが言ったことを考えてみたの」
山下がおやっと言うように片方の眉尻を動かした。
「沢山学びなさいって、言ってくれたでしょ。だから、山下さんの仕事を学びたいって思ったの」
昨日とは違う意味で迷いの無い瞳を、璃子が山下へぶつけてくる。
「それはまた、唐突ですね」
何を言い出すかと思ったらと、山下は困惑して自分の顎に触れた。
「山下さんの仕事って、こんな風に、窓口に来る客の相手をしてるだけじゃないんでしよ。パパに聞いてるわ。本当はすごく偉い人だって」
尊敬の眼差しを感じた山下は少し照れていた。
「偉い人の定義は、人それぞれですから、何とも」
言いながら、悪い気がしていない自分の表情を引き締めた。
「私を『T・T・T』で働かせて欲しいの。働かせてください。大学はしばらく休学します」
「もしかして、璃子様は弊社で働けば、好きなように、タイムトラベルが出来るとでも思っていらっしゃいませんか」
「そんな都合のイイこと、考えてません」
「では、ジャンヌ・ダルクは諦めたと?」
「それは、その」
顔付きを変え言葉を詰まらせた璃子を、山下は残念な気持ちで眺めた。
「ジャンヌのことと、ここで働きたいって気持ちは、関係ないんです。本当よ。家族旅行でアテネへ行った時に思ったの。旅行も素晴らしい体験だったけど、このシステムを支えている裏側を知りたいって」
璃子の輝いた瞳から闘志のようなものが感じられた。
「雑用でも何でもやります。山下さんのアシスタントにしてください」
璃子は立ち上がり、頭を下げた。
そのまま動こうとしない。
「取り敢えず、お座りください」
「嫌です。山下さんがOKしてくれるまで、ここから動きません」
「そんなことをされては、困ります」
璃子はお辞儀をした格好のままで止まっていた。
働きたいという動機に裏が無いかは疑わしい。
しかしと、山下は璃子のつむじを見ながらぼんやり考えていた。
璃子のこの一途さはどうやって培われたものなのだろう。
興味深い。
「お願いします。山下さん」
「警備を呼びますよ」
人を呼ぶと聞いても璃子は動かなかった。
山下は瞼を閉じて大きく息を吐き出した。
「条件を言います」
ぱっと璃子が顔を上げた。
「ここで見聞きした事柄は、誰にも言わないこと。犀川璃子には仕事の選択権がない、つまり、自分で仕事内容を希望出来ないこと。犀川璃子を解雇する権限は、いつでも私にあること。そして、大学は休学しないこと。この四つに異存が無ければ、インターンとして雇いましょう」
「やります」
璃子は山下が言い終わる前に言い切った。
「ありがとうございます。山下さん」
璃子が晴れやかな笑顔を見せた。
「今言った条件には、法的な拘束力はありません。犀川璃子と私の間の約束です。あなたが約束を破ったと判断した場合は、あなたのお父様に全て話します。ジャンヌ・ダルクのこともです」
璃子ははっとして息を飲んだが、それで構わないと言う決意の表情で頷いた。
「大丈夫です」
よろしくお願いしますと、璃子はもう一度頭を下げた。
早速明日から来ると言って、璃子は一旦引き上げていった。
残りの春休み期間を全てインターンシップに充てることに決めたのだ。
『T・T・T』の寮から通うために、自分のアパートから荷物を持ってくる必要があった。
山下はすぐに、アテンダント部所属の久谷遥花へ連絡を入れた。
「珍しいわね。山下さんが、私に相談事なんて」
遥花はさっきまで璃子が座っていた席へ腰かけ、軽く頬杖をついた。
格闘訓練を終えてきた遥花からは、洗い立ての髪の匂いがする。
遥花は山下がスカウトした人材だった。
入社して五年ほどになる。
歳はまだ二十代後半だが、アテンダント部内での存在感は大きい。
「犀川璃子のことを聞きたくて」
「犀川?」
犀川家族の旅行へアテンドしたのが遥花だった。
前回の旅行時の、顧客調査部による調査報告書を読んだが、璃子に関する記述はSNS内での発言にフォーカスされていて、余り収穫が無かった。
「ああ、あの娘ね。どうして?」
鼻筋の通った遥花の美しい顔は、山下の意図が掴めないといった表情になった。
「ウチで働いて貰う」
「璃子ちゃんが?」
「成り行きで、そうなってしまった」
「成り行きって」
遥花はふふっと笑った。
「山下さん、若い娘には弱いのよね」
「そんなことは無い」
山下は腕を組んで平然として見せた。
「璃子ちゃんねぇ。あの子は、一見大人しそうなんだけど、昔風に言えば、じゃじゃ馬ね。自由と言うより、何て言うか、スイッチが入ったら、周りが見えなくなって、突き進むって感じ。言うことを聞かせるのは、大変だったわ」
「家族との関係は?」
遥花は少し顔を曇らせて下唇を指で触れた。
「父親との間に何か、遠慮のようなものを感じたわ。あの年頃なら、普通と言えるレベルでは無い、距離みたいな」
「仲が悪いという訳ではないんだな」
「そうね。父親の言うことは、素直に聞く子だったわよ」
「母親と弟とは?」
「母親からは、よく叱られてたけど、気にしてないって感じだった。どちらとも、仲は良かったわ」
歪な家族では無さそうだと、山下は受け取った。
「話は変わるが、小野木君の仕上がり具合は、どんな様子だ?」
小野木は去年アテンダント部に入社した青年だ。
遥花が教育担当を務めている。
「研修旅行から戻って、しばらく沈んでいた時期があったから、心配だったけど」
遥花の瞳に暗い光が宿った。
その研修旅行は、小野木にとっての最終試験になる予定だった。
行き先に選ばれた一六世紀のフランスは、宗教改革の最中で、同行した遥花でさえも、帰国後すぐに仕事へ復帰出来ないほど心にダメージを受けていた。
「最近は吹っ切れたみたい。前向きになって、早くアテンダントの仕事がしたいって言ってるわ。元々体力はあるし、意思の強い子だから、独り立ちさせるタイミングかも」
「アテンダント部の早瀬部長から、小野木君を推薦されたんだが。行き先が新規出店先だから、どうかと思っててね」
「どこ?」
「七世紀のティカル。マヤ文明の」
遥花は顔をしかめた。
「なかなか、ハードル高いわね。部長も何を考えているのかしら。早く実戦を積ませたいのは分かるけど」
山下も遥花と同意見だった。
「今回は、旅行代理人一人に対しての同行になる。それだから早瀬部長も、小野木君で良いと判断したのかもしれない」
「でも、出発までに、旅行者の人数が増える可能性もあるでしょ?」
遥花の指摘に、山下は尤もだと頷いた。
「増えた段階で、人選を見直すのも有りだが、事前に対策をしておきたい。ちょうど今度の新月に、古代マヤ文明の都市コパンへ行くパーティーがある。それに、久谷さんがアテンドしてくれないか。小野木君を連れて」
「マヤ文明に、免疫を付けておくのね。いいわよ」
「久谷さんが同行予定の古代ローマへは、別の者に行って貰うよう、早瀬部長に伝えておく。情報を集めてるところ、すまない」
こういう急な予定変更にも適応出来る遥花は、山下にとって頼もしい存在だった。