5話 世界を知る
深い知性を湛えた瞳を、噴水の縁に置かれた林檎に向けてから、エルはゆっくりと水瓶に近づく。鼻をひくつかせ、中の石を見た彼は、唸るような低い声を発し、しばしの間考え込むように瞳を閉じた。
「エル? これが何か知っているの?」
フェリシアが訊ねる。他の面々は、ただ黙って答えを待った。
風が吹き、草木が音を立てて揺れる。生温い風からは、夏の匂いがした。
「世界ノ穢レ、澱ミ、ソウイッタ負ノモノガ、永キ年月ヲカケテ地中デ結晶トナル。結晶ハ海ニ流レ、再ビ永キ年月ヲカケテ浄化サレル。ソウシテコノ世界ハ保タレテイルノダ」
眼を開けたエルは、己より遥かに短命の生き物に、静かに語った。
「……そうやってこの世界は清浄を保っていたのね。知らなかったわ」
フェリシアは、喜びとも哀しみともつかない、複雑な感情が篭った息を吐く。ライカも初めて知る事実に驚いていた。
空が、海が、大地が。美しいのは当たり前だと思っていた。当たり前すぎて考えもしなかった。世界が自浄していたなど。
「これは世界の穢れそのものなんだな」
「我モ実物ハ初メテ目ニスル。一部ノ人間ガ死獄石ト呼ンデイルト、昔、長ガ言ッテイタ。結晶ガ放ツ匂イガ、獣ノ思考ヲ狂ワセルカラダロウ。我ラノヨウナ知性ノ高イ生キ物ニハ、アマリ影響ハナイノダガナ」
「思考を狂わせる匂い……だから紅鎌魚が狂暴化したのですね」
ティアナンが呟きながら何度も頷く。
「ココニ置イテオクノハ感心セヌ。赤ノ団長、結晶ヲ海深クニ還スガヨイ。姫モ異存ハナイナ?」
「ええ、もちろんないわ」
「分かりました。責任をもって海に沈めます」
そう言って敬礼し、ヴォードは後ろにいるティアナンに視線を送る。ティアナンはすっと前に出て、蓋をしてから水瓶を抱え上げた。
「ティナ、その水瓶、城で割るんじゃねえぞ。翼竜が暴れ出しでもしたら洒落にならねえからな」
「兄さんならともかく、僕はそんな子供みたいな失態は犯しません」
意地の悪い笑みを浮かべるイシュヴェンを、冷たい眼で睨むティアナン。そんな仲が良いのか悪いのか分からない兄弟を横目に、エルは林檎を齧りはじめた。どうやら早く食べたかったらしい。
そろそろマールが戻ってくるころだろう。そう思ってライカが庭園の入り口に視線を向けると、ちょうど彼女が小走りで駆けてくるところだった。
城内は走るなとあれほど言っているのに。ライカは内心深々と溜息を吐いた。
「姫様ー!」
茶色の髪を揺らして走ってきたマールは、ぺこりと頭を下げると、いつもの緊張感のない間延びした声で喋りだした。
「あのー、ダレス様がお見えになってますー。火急の報告があるそうですー」
「ダレス団長も? 今日は報告ばかりね」
フェリシアが苦笑していると、長身の黒髪の騎士が堂々たる足取りで歩いて来る。
ダレスはフェリシアの前で敬礼すると、一瞬だけライカに視線を向けた。
「定期報告以外で三人が揃うなんて珍しいですね。何かの前兆でなければよいのですが」
「偶然だろ? たまにはこんな日もあるって。なあ、ルーク?」
「お寛ぎのところ申し訳ありません」
グレアスとヴォードを完全に無視し、第三騎士団団長は低い声で話し出す。
「およそ四半刻前、城壁に一羽の姫鳥が激突し息絶えました。騎士団の使用している姫鳥ではありませんでしたが、このようなものを携えておりまして、急ぎ報告に参った次第でございます」
ダレスは小さく巻かれた紙を取り出し、恭しく差し出す。受け取ったライカは、フェリシアにその紙を手渡した。
「…………これを書いた人物は?」
文面を読んだフェリシアの顔が、すっと厳しいものに変わる。それを見て全員が表情を引き締めた。
「調査中です。ですが……」
そこで一度口を閉ざし、ライカを見て躊躇うような素振りをダレスは見せた。感情を表に出すことが稀な彼にしては、かなり珍しい態度だった。
まさか。嫌な予感がライカの頭をよぎる。
「ですが、死亡した姫鳥は、片目が潰されていました」
紡がれた言葉に、フェリシアは勢いよく椅子から立ち上がった。ライカは身体の前で合わせていた手をぎゅっと握りしめた。
予感は当たった。
「ではこれを書いたのはまさか――!?」
「おそらく」
重々しくダレスは頷く。
フェリシアは、少しの間、額に手を当てて俯いていたが、すぐに顔を上げると『戦の護』らしい威厳のある表情で口を開いた。海のように蒼い瞳がきらりと光る。
「……イシュヴェン副団長、ティアナン副団長、二人は下がってください。ご苦労様でした。マール、二人を控えの間に」
「畏まりましたー」
「はっ、失礼致します」
「失礼致します、フェリシア様」
拳を胸に当てて踵を返すザァレム兄弟と、二人を先導するマール。三人の姿が完全に見えなくなってから、フェリシアは無言でライカに紙を渡した。
紙にはこう書かれていた。
――南を包む滅びの息吹は、やがてローディスを覆いつくす。絶望に身を委ねる者に、与えられる希望とは何か。