36話 いざ王都へ
バガル訓練所にいる全員の視線を集めた風の民は、ゆったりと翼を動かし、その名の通り風と一体化しているような優雅な動きで訓練所の真上まで飛んできた。
訓練所の広場中央には風の民が着地できるよう円状に空間が設けられている。
しかし、風の民は人間の身長の三倍ほどの高さまで高度を下げると、再び高度を上げ訓練所の上空を旋回し始めた。
「朝からご苦労様」
朱色の外套をはためかせながら風の民の背から飛び降りてきた人物が、そう言いながら整列している兵士を一瞥することもなく、真っ直ぐ広場の隅にいるライカたちに向かってくる。仮面の色から『朱の霞』の隊長、ツェルエであることが分かった。
「あれが『朱の霞』……初めて見るっすけど、なんか仮面が不気味っすね」
「キール」
キールの呟きをライカが咎めると、彼は「黙ってるっす」と手で口を塞いだ。
ダレスが一歩前に出て、ツェルエが来るのを待つ。
だが、二人の間に割り込んできた者がいた。
「朱衣の方、本日はどのようなご用件でこちらに?」
横からダレスの前に出てきた、胸にリムストリアの紋章が入った兵服を着ている隊長格らしき男が、ツェルエに向かって口を開く。
彼女が誰に向かって歩いていたかは一目瞭然であるのに、わざわざそれを遮り進行を妨げるなど何を考えているのだろうか。
ライカの眼がすっと細くなる。ダレスの表情も厳しくなった。
「バガルの隊長、私は火急の用でここに来ている。それは事前に通知しなかったことからも明らかだと思うが」
不快に思ったのはツェルエも同じだったらしい。仮面の奥から紡ぎだされる声は、明らかに怒気を帯びている。
「そ、それは十分承知しておりますが、ここの責任者として知る必要があるかと……」
「いつ誰に何を話すかは私が判断する。そこをどけ。そして無駄な刻を過ごしている兵士を今すぐ解散させ、いつでも王都に向かわせられるよう準備させておけ」
「は、はっ!」
敬礼した訓練所の隊長は、大股でライカたちの前から去っていく。ツェルエから背けた彼の顔が不満げに歪んでいたのをライカもダレスも見逃さなかった。
ツェルエも眼にしたのか、もしくは以前から今のような態度を取られていたのか、顔の見えない『朱の霞』の隊長は、苦笑まじりの声で謝罪の言葉を口にした。
「失礼しました。ローディス国第三騎士団団長ダレス殿でいらっしゃいますね」
「無理な願いを聞き入れていただき感謝する、『朱の霞』隊長ツェルエ殿」
「大したことじゃありませんわ。ヴォード殿が呼んでいると夜中に侍女に起こされたときは、少し驚きましたけどね」
ふふ、と笑うツェルエの声はとても澄んでいて、訓練所の隊長と話していたときとは別人のようだ。
「申し訳なかった」
「お気になさらずに。ヴォード殿のような方に呼び出されるなんて素敵な体験、滅多にありませんから。と、無駄口を叩いている場合ではありませんわね。ヴォード殿からおおよその事情は伺っています。すぐに出発しましょう。不測の事態に対応できるよう王都の警備を強化するよう指示してきましたが、いつもより数が少ないので万全の態勢とは言えないのが現状なのです」
「獣の襲撃に遭った町や村に派遣しているからか」
「それもありますが、今日は陛下が貴国の剣雅祭に出席なさるために王都を発つ日でしたので、数日前から港までの街道に兵を配置させているのですわ。――王都に行かれるのは貴方とお連れの方二名と聞いていますが、後ろの方がそうですか?」
「ああ、だが見ての通り一人は負傷の身。私とこの者だけお願いする」
ダレスは首を動かし後ろにいるライカを眼で示す。ツェルエに視線を向けられたライカは、顎を引いて軽く頭を下げた。
「そんな! 俺も一緒に行くっすよ!」
「いえ、キールはここに残って地竜で来て下さい。戦える状態でないことは貴方も分かっているでしょう」
反論するキールの肩に手を置き、真っ直ぐ彼を見る。気持ちは理解できるが連れて行くわけにはいかない。ユイレマやケーネの里のように王都が獣に襲撃されるかもしれないのだ。
「……はいっす。お二人の足を引っ張りたくはないっすから、後から行くっす」
奥歯を噛みしめながらキールは頷いた。本当は何が何でも一緒に行きたい。だが、無理矢理ついて行っても足手まといにしかならないことも分かっている。肝心なときに役に立てないことが悔しかった。
「賢明な判断だわ。でも一人で王都に来てもらうのも不安ね。兵士を何人か同行させましょう」
「ここの兵士をすぐに王都に向かわせない理由を伺ってもよろしいか?」
「バガルいるのは訓練途中の兵士がほとんどなのです。ですから戦力には加えていません。泥棒は捕まえられても、獣の群れを撃退するのはとても無理でしょう。――誰か、隊長を呼んで下さい」
ツェルエは少し離れたところにいた兵士に、管理棟に消えていった隊長を呼びに行かせようとする。それをキールが「待って下さいっす」と遮った。
「ナナリノが……誰かが一緒に来てくれるのなら、ここの兵士じゃなくてナナリノがいいっす」
「ナナリノ? どこかで聞いたことのある名ですわね」
「ツェルエ殿の部下、リマーラ殿の妹君だからではないだろうか。ユイレマの警備隊に配属されていて、この地まで案内していただいた」
ダレスの説明で思い出したらしく、ツェルエは傾げていた首を元に戻し、そうでしたわと頷いた。
「私は構わないけど、一人だけでいいのかしら? ユイレマからここまでの道のりに比べたら危険は少ないけれど、それでも安全とは言えないわよ?」
「大丈夫っす!」
キールの揺るぎない返事に、『朱の霞』の隊長はにこりと微笑んだ――ような気がした。




