34話 幻は消え
ざしゅっ!
皮膚を斬り裂く音が耳に届き、顔に生温かいものを感じる。
――ああ、ついに終わりがきた。まだやれると思っていたけど、力が足りなかった。
足が、腕が、瞼が、重たくなっていく。
叶わないと分かっていても、最期にもう一度皆の顔が見たいとキールは思った。
「へ、へへ……マールにも会いたい、なんて……俺らしく、ない、な」
力ない笑いがキールの口から漏れた。
「しっかりしなさい、キール! こんなところで死ぬつもりですか!」
すぐ傍からライカの声が聞こえてくる。
会いたいと願ったからだろうか。幻聴が聞こえるとは。
「どうせなら、もっと、優しい言葉が良かったけど……」
でも、俺らしいかもな。
もう一度笑みが零れた。
そのときだった。
「キール!」という声とともに身体をぐいっ、と起こされる。何度も頬に軽い衝撃を受け、そこでようやくキールはこれが幻でないと知った。
「…………え?」
重くなっていた瞼を開けると、間近にナナリノの顔があった。眼尻に涙を溜め、今にも泣きそうな表情をしている。
「ナナリノ……なんでいるんだ? ……逃げろって言っただろ」
「戻ってきたのよ! 腐猿はライルさんとルークさんが倒してくれてるわ」
「そう、なのか?」
ナナリノの言葉が本当か確かめたくて、首を動かし彼女から視線を外すと、近くにいた何かと眼が合った。
キールの心臓がどくんと跳ねる。
だが、その瞳には生命が宿っていなかった。それどころか首から下もなかった。
キールが聞いた音は、腐猿の頭が胴体から切り離される音だったのだ。
「……俺は……死なないんだな……へへ、へへへ」
一筋の雫がキールの頬を伝っていく。
さっきまで死を怖いと思わなかったのに、生きられると思った瞬間、嬉しさと恐怖がこみ上げてきた。
死にたくない、まだ生きていたいという感情が身体中を駆け巡った。
「ごめんねキール、本当にごめんなさい」
堪えきれなくなった涙をぽろぽろ流しながら、ナナリノは何度も謝る。
「……なんでナナリノが謝るんだ? お前は何も悪くねえだろ」
「だって、キールを置いて逃げたわ。私も戦えばよかった。そしたら」
「そしたら多分二人とも死んでただろうな。よっ……いててっ、いてっ……いってえぇっ……ふんっ。………良かったんだよ、これで」
満身創痍の身体を動かしよろよろと立ち上がったキールは、支えてくれているナナリノの頭を撫でる。
「もし……」
「もし……なに?」
「もし、またこんなことになっても、俺は迷わず同じ選択をするぜ。だって……女の子を護るのは格好いい男の務めだからな」
そう言ってキールはにやりと笑う。が、すぐに「いてててっ」と顔を歪めた。
キールの言葉を聞いたナナリノは、ぽかんとした表情を浮かべていたが、しばらくすると「ふふっ」という笑い声が彼女の口から零れた。
「恰好つけようとしたのが台無しね」
「うるせぇ、痛いんだからしょうがないだろ」
ふくれっ面でキールは、戦っているライカとダレスに視線を移した。
しなやかに剣を操るライカ、力強く剣を振るうダレス。どちらも惚れ惚れするほど無駄のない美しい動き。今の自分ではとても真似出来ない。
だが、いつかは自分もあんな風に、己の力だけで誰かを護れるようになりたいと、そうキールは強く思った。
最後の一体がダレスに胸を貫かれ、大きな音を立てて地面に倒れる。五体の恐ろしい獣は、物言わぬ骸となった。
「キール、どうして約束を破ったのですか」
険しい顔をしたライカが剣を鞘に収めながら近づいてくる。彼女は本気で怒っていた。
「ひいっ! えっと、あの、その…………ごめんなさい、っす」
キールは痛みも忘れて反射的に飛び上がり、そのあと何とか言い訳をしようとしたが、無理だと悟りしゅんと項垂れて謝った。
ライカの信頼を裏切り、自分の判断の甘さが招いた結果がこれなのだ。どれだけ怒られても仕方ない。
ぎゅっと眼を閉じてキールは、叱られるのを待った。
だが、しばらくの沈黙の後にライカの口から出てきたのは、キールを責める言葉ではなかった。
「貴方が無事でよかった」
頬にそっと添えられた手。眼を開けて顔を上げると、ライカが安堵の表情で微笑んでいた。その後ろにはダレスがいつもと変わらない無表情で立っていたが、ほんの少しほっとしているようにも見えた。
「本当に、ごめんなさいっすっ!」
キールの眼から涙が零れる。
二人が自分の身を本気で案じてくれたことが、嬉しくて、申し訳なかった。
「もう二度とこんなことはやめて下さいね。さあ、戻って傷の手当てをしましょう。ルークさん、すみませんがキールを運んでもらえますか?」
「……ああ」
「えっ!? いやいやいや大丈夫っす! 一人で歩けるっす!」
驚きすぎて涙も引っ込んだキールは、ぶんぶん首を振って足を後ろに引く。しかし、ナナリノに支えられているためそれ以上動けない。何の抵抗も出来ないまま、ダレスの肩に担がれる。
「ひぃぁあぁっ!」
「大人しくしろ」
「すいませんっすぅうぅっ!」
ダレスの眼光は腐猿よりも怖いと実感したキールだった。




