第二話 声を上げた夜
「聞いてください」
全員の視線が私に集中する。侮蔑、苛立ち、困惑。
——何も言うな、私は。黙っていればいい。
——そうやって、今までもうまく生きてきたんだから。
だが、口が勝手に動いていた。
「北の森から来るなら、迎撃は川を背にした方がいいです。退路を断たれますが、逆に言えば敵も川からは回り込めないでしょう」
「……何?」
「あと焚き火を二つ消してください。北側のと、東側の。残り一つを西側に寄せれば、こちらの目が慣れて森の動きが見えやすくなります」
沈黙。
バンズが吐き捨てるように言った。
「おい、何様のつもりだ。戦場に出たこともねえ小娘が——」
「バンズ」
ガルドが遮った。
「……続けろ、令嬢」
「馬は南に移動させてください。川の音から離す。それと、物資の天幕から武器を全部出して、人員の天幕の横に置いた方がいいです。今のままだと、武器を取りに行く間に斬られます」
私は自分でも驚くほど冷静に、言葉を続けていた。
「敵の数は分かりませんが、野盗なら多くて十人程度。この団の練度なら、陣形さえ整えば負けません。——問題は、混乱している間に不意を突かれることです」
「守備が盤石なら、たとえオークの群れだとしても、苦戦するだけで負けはしないでしょう」
長い沈黙。
ガルドは私を見つめていた。あの、深い場所を探るような目で。
「……セラ」
「……何だ」
「こいつの言う通りにしろ」
セラの目が見開かれた。バンズが声を荒げる。
「おいガルド、正気か!こんな貴族で素人の——」
「じつは、さっき俺も同じことを考えてた」
ガルドは静かに言った。
「焚き火の配置はミスだ。馬の位置も。——こいつは正しい」
傭兵たちがざわめく。だが、ガルドの言葉は絶対だった。
「動け。時間がねえぞ」
傭兵たちが散っていく。焚き火が消され、馬が移動し、武器が運び出される。
周囲は急速に闇に沈んだ。
唯一残された西側の小さな焚き火だけが、チロチロと頼りない明かりを放っている。
私は暗闇の中で息を潜めた。
心臓が早鐘を打っている。
——もし、私の勘違いだったら?
もし、ただの鹿や猪だったら。
私は「知ったかぶりをして現場を混乱させた小娘」として、今度こそ完全に信頼を失うだろう。
汗が滲む。時間の感覚が伸びる。
沈黙が痛い。
バンズが暗闇の中で舌打ちをしたのが聞こえた。
「ちっ、やっぱり何も……」
その時だ。
ヒュッ——!
鋭い風切り音が闇を裂いた。
「うおっ!?」
ドスッ!
鈍く重い音が響く。
それは、ついさっきまでバンズが座っていた丸太の背もたれに、深々と突き刺さっていた。
黒い羽根の矢だ。
「て、敵襲ッ!!」
誰かが叫ぶのと同時、森の奥から無数の影が飛び出してきた。
「殺せえぇぇ!」
「明かりが消えたぞ! どこだ!」
野盗だ。十人……いや、もっといる。
だが、彼らは戸惑っていた。
目印となるはずの焚き火が消え、標的の位置を見失っているのだ。
逆にこちらの目は、私の指示で暗闇に慣れ始めていた。
森を背にした闇の中、敵のシルエットが夜空に浮かび上がる。
「丸見えだぜ、クソ野郎ども!」
バンズが吼えた。
手元に引き寄せておいた大剣を一息に抜き放つ。
「野郎ども、かかれッ!」
ガルドの号令が飛ぶ。
勝負は一瞬だった。
位置もバレず、武器も手元にあり、目も慣れている傭兵団〈鉄牙〉に対し、野盗たちは完全に不意を突かれた形となった。
斬撃音。悲鳴。肉が裂ける音。
川を背にした陣形のおかげで、背後を気にせず正面の敵に集中できる。
数分も経たずに、森は静寂を取り戻した。
残されたのは、血の匂いと、十数人の野盗の死体だけ。
こちらの被害は——ゼロ。
「……おい、マジかよ」
荒い息を吐きながら、バンズが自分の座っていた場所に戻ってきた。
丸太に突き刺さった矢を、呆然と見下ろしている。
「焚き火を消してなきゃ、俺は今頃……眉間を撃ち抜かれてたぞ」
背筋が凍るような事実。
本来なら、一番明るい焚き火のそばで、一番目立つ大男が最初の標的になっていたはずだった。
他の傭兵たちも、顔を見合わせている。
「武器が手元になかったら、最初の突撃でやられてた」
「馬も無事だ。川の音に紛れて気づかれなかったらしい」
そして、全員の視線がゆっくりと私に向いた。
ガルドが血振るいをして剣を納め、歩み寄ってくる。
私は呆然と立ち尽くしていた。
「令嬢」
「は、はい」
「あんた、いつから気づいてた。焚き火の配置」
「……野営地に着いた時から」
「なぜ黙ってた」
私は答えられなかった。
信頼がないから。実績がないから。言っても聞いてもらえないと思ったから。
——全部、言い訳だ。
本当は、怖かったのだ。また馬鹿にされるのが。また無視されるのが。
何より、父に言われたあの言葉。
「お前の言葉には価値がない」と突きつけられたあの記憶が私を黙らせていた。
ガルドが震える私の肩を、そっと叩く。
「迷うな……次からは言え」
彼は、ただそれだけ言った。
「あんたの目は使える。黙ってる方が罪だ」
それだけ言って、ガルドは北の森へ向かっていった。
私は一人、消えかけの焚き火の前に立ち尽くしていた。
手が震えていた。さっきまでの冷静さは、もうどこにもなかった。
——私に、何ができる。
剣は使えない。魔法も使えない。水も満足に汲めない。
でも——
見ることはできる。
人を見ることも、状況を見ることも、問題を見ることも。
それが何の役に立つのか、まだ分からない。
でも、ガルドは「使える」と言った。
「黙ってる方が罪だ」と。
——なら、見続けよう。
そして、見えたものを言葉にしよう。
たとえ馬鹿にされても。たとえ無視されても。それが、今の私にできる唯一のことだから。
その夜、それ以上の襲撃は来なかった。
傭兵たちは緊張を解き、焚き火を焚き直し、中断された夕食を再開した。
だが、私を見る目が——少しだけ、変わっていた。
「おい、令嬢」
バンズが近づいてきた。また何か嫌味を言われるのかと身構えたが——
「……さっきのは、悪かったな」
小さく、聞こえるか聞こえないかの声で、それだけ言って去っていった。
セラも、焚き火の向こうから私を見ていた。さっきまでの冷たい目ではない。何かを測るような、複雑な目。
——これが、最初の一歩だろうか。
分からない。
でも、少なくとも今日、私は「見えたもの」を言葉にした。
それを、誰かが聞いてくれた。
今はそれだけで、十分だ。
私は固いパンをかじりながら、星のない夜空を見上げた。
明日も、きっと長い一日になる。




