第一話 東門の朝
「遅え」
ガルドが荷馬車の上から声をかけてきた。
「申し訳ありません。ちゃんと日の出前に——」
「傭兵の朝は早えんだよ。覚えとけ」
周囲から失笑が漏れた。
約束の刻限より早く着いたつもりだった。
だが東門に着くと、傭兵団〈鉄牙〉は既に出立の準備を終えていた。
二十人ほどの男女が、荷馬車を囲んでたむろしている。革鎧、錆びた剣、無精髭、傷だらけの腕。誰もが一様に剣呑な空気を纏い、朝靄の中で白い息を吐いていた。
——これが、私がこれから率いる者たち。
いや、違う。
「率いる」などと考えること自体が傲慢だ。今の私は金を払う側ですらない。払う「予定」があるだけの、ただの小娘。
「で、こいつが例の令嬢か」
傭兵の一人が近づいてきた。坊主頭に耳の欠けた大男。私を見下ろす目には、隠そうともしない侮蔑があった。
「俺はバンズ。見ての通り、この団の突撃隊長だ」
「アイリーンです。よろしくお願いします」
「ふん——」
バンズは私の全身を舐めるように見た。
「はん……たしかにいい女だ」
「にしても、細え腕だな。剣、持てんのか」
「一応は」
「一応、ね」
バンズは周囲を見回し、にやりと笑った。
「おい聞いたか。令嬢様は剣が『一応』持てるんだとよ」
また笑い声。私は黙って耐えた。
「まあいい。足手まといにならねえよう気をつけな。死んでも俺たちゃ助けねえぞ」
「死んでいるなら……助ける必要はありませんよね」
「たしかにそうだ!」
バンズはニヤリとした後に私を睨みつける。
「俺たちは自分の命が優先って意味だよ、わかんだろ」
「承知しています」
「殊勝なこった」
バンズは興味を失ったように離れていった。
入れ替わりに、昨夜の副官が近づいてくる。三十前後、短く刈った黒髪、鋭い目つき。左手の薬指には——やはり指輪の跡。
「私はセラ。この団の副長だ」
「よろしくお願いします」
「……一つ聞いておく」
セラは低い声で言った。
「昨夜、あんたは私の指を見て何か言いかけた。あれは何だ」
「——失礼しました。悪い癖で、つい」
「答えになってない」
セラの目が、静かに据わっている。怒りではない。もっと冷たい何か。
「……最近、指輪を外したように見えました。日焼けの跡の具合から、半年以上はつけていたものを、ここ数日で」
「それで?」
「それだけです。詮索するつもりはありません」
セラは長い間、私を見つめていた。
「……あんた、そうやって人の傷を暴くのが趣味か」
「いいえ。ただ——」
私は言葉を選んだ。
「見えてしまうだけです。見たくなくても」
沈黙。
やがてセラは、小さく鼻を鳴らした。
「忠告しておく。この団でそれをやると、刺されるぞ。傭兵ってのは、見られたくない過去を抱えた奴の集まりだ」
「……肝に銘じます」
「できるならな」
セラは背を向け、荷馬車の方へ歩いていった。
私は一人、東門の石畳に立ち尽くした。
——これが、傭兵団。
分かっていたつもりだった。金で動く、荒くれ者の集団。忠誠心などなく、利益だけで繋がる関係。
だが、分かっていたことと、実際に身を置くことは違う。
この空気。この視線。この、どこにも居場所がない感覚。
城にいた頃、私は「民のための国」を夢見ていた。民と共に歩む王女でありたいと、本気で思っていた。
——なんて傲慢だったのだろう。
私は「民」というものを知らなかった。彼らが何を考え、何を恐れ、何を憎んでいるのか。何も知らないまま、理想だけを語っていた。
「おい、令嬢」
ガルドの声で我に返った。
「乗れ。出発だ」
荷馬車の荷台を顎でしゃくる。私は頷き、荷台によじ登った。
藁と革と、かすかな血の匂い。周囲には木箱が積まれ、その隙間に数人の傭兵が座っている。誰も私に場所を空けようとはしない。
私は端の方に小さく座り、膝を抱えた。
馬車が動き出す。東門が遠ざかり、街道が続いていく。
——これから、どうなるのだろう。
父の言葉が蘇る。何を捨てても、生きろ。
生きている。まだ生きている。
だが、それだけだ。
◇
最初の野営地に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
街道を外れた森の中、小さな川のほとり。傭兵たちは手慣れた様子で天幕を張り、火を起こし、見張りの配置を決めていく。
私は——何もできなかった。
「おい令嬢、そこ邪魔だ」
「あ、すみません」
「水汲みくらいできるだろ。川はあっちだ」
「は、はい」
桶を渡され、川へ向かう。
足場が悪くまっすぐ歩くのも難儀な道を降り、桶一杯に水を汲む。
その重量たるや、私の細い腕では歩くのすらやっとだった。
それでも歯を食いしばって運んだ、転ばないように必死に足元を見ながら、なんとか野営まで戻ると、別の場所で別の仕事が進んでいた。
私の汲んだ水は、既に誰かが汲んだ水で足りていた。
「……遅えな。もういらねえよ」
「すみません」
謝ってばかりいる。
何をしても遅い。何をしても足りない。何をしても——邪魔。
城での教育は、こういうことを教えてくれなかった。
政治、経済、外交、歴史、礼法。王女として必要な知識は叩き込まれた。だが、水の汲み方は知らなかった。火の起こし方も、天幕の張り方も、野営地の選び方も。
——私は、何もできない。
観察眼だけが取り柄だと、昨夜ガルドに言った。だが、見えるだけでは何の役にも立たない。
夕食の時間になった。
傭兵たちが焚き火を囲んで座る。干し肉と固いパン、薄いスープ。私も端の方に座り、配られた食事を受け取った。
「なあ、令嬢様」
バンズが焚き火越しに声をかけてきた。
「そのパン、食えるか? 城で食ってたもんとは違うだろ」
周囲から笑い声。私は黙ってパンをかじった。固い。顎が痛いほど固い。だが、食べられないほどではない。
——城を逃げ出してから、もっとひどいものも食べた。
「……おや、意外だな。吐くかと思った」
「期待に沿えず申し訳ありません」
私の返しに、バンズは一瞬きょとんとした。それから、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「生意気な小娘だ」
「よく言われます」
これ以上絡まれても面倒だ。私は食事に集中するふりをして、視線を落とした。
だが、目は自然と周囲を観察していた。
——焚き火の配置が、おかしい。
野営地には三つの焚き火がある。
だが、その配置は——見張りの視線を考慮していない。北側の焚き火が明るすぎて、森の方角からの接近に気づきにくくなっている。
それに、馬の繋ぎ場所も。川に近すぎる。
夜中に水音がすれば馬が怯える可能性がある。
天幕の配置も非効率だ。物資の天幕と人員の天幕が離れすぎている。緊急時に武器を取りに行くのに時間がかかる。
——見える。
どうして私には、みたくないものまで全部見えてしまうんだろう。
だが、言えない。
今の私が何を言っても、「小娘が何を偉そうに」で終わりだ。信頼がない。実績がない。何もない。
私は黙ってパンをかじり続けた。
その時——
「ガルド」
見張りの一人が駆け込んできた。
「北の森に動きがある。野盗かもしれん」
ガルドは少し考えたあと、発した。
「この辺りは、オークの集落に近い!奴らだとしたら厄介だ!」
空気が変わった。
傭兵たちが一斉に立ち上がり、武器を手に取る。だが、その動きには混乱があった。
「武器はどこだ」
「物資の天幕だろ」
「遠いな、くそ」
「馬が暴れてる! 誰か押さえろ」
「北側が眩しくて見えねえ」
——やはり。
私が気づいていた問題が、そのまま表出していた。
「落ち着け」
ガルドの声が響いた。
「セラ、北の様子を見てこい。バンズ、突撃隊を集めろ。他の奴らは——」
「待ってください」
気づいたら、声を出していた。




