3.受け継がれる技術と想い
送別会が本格的に始まった。
まずは、マシンの主であり、メンテナンスの天才だった河合翔へ。2年生の戸田哲也と、望月雫が前に出る。
「翔さん。先輩が毎日、あの気難しい古いマシンの機嫌を細かく取ってくれたおかげで、僕たちは一度もトラブルを起こすことなく営業できました。これは、先輩への『精密な報告書』であり、僕たちの覚悟です。僕たちはもう、マシンのご機嫌伺いじゃなくて、マシンの相棒になれました」
雫が差し出したのは、完璧な三層のグラデーションに分かれた「トリプルレイヤー・カフェラテ」。
一番下の透明なヘーゼルナッツシロップ、真ん中のミルク、そして一番上の濃厚なエスプレッソが、一ミリの狂いもなく見事な直線を描いている。
戸田はその表面に、緻密な歯車と時計の針を模したラテアートを描き込んでいた。それはまるで、止まることのない時間の歯車が、新しい未来を刻み始める象徴のようだった。
「工学の道に進む先輩に、僕たちの『今』を見せたかったんです。先輩が教えてくれた『構造の美学』、ちゃんと受け継いでます。目に見えないところの美しさが、味を作るんですよね」
「……あぁ。いい抽出圧だ。雫、お前ならこのマシンを、俺がいなくてもあと十年は持たせられる。……哲也、このアートは細かすぎて飲むのが惜しいな。俺の部屋に飾りたいくらいだ。……いや、飲まないと失礼だな。この苦み、忘れないよ」
翔は眼鏡を外し、指で目元を拭ってから、その一杯をまるで精密機械の潤滑油を味わうかのように、大切そうに啜った。
次に、バリスタ部の華であり、メニュー開発の要だった香西美咲へ。 1年生の蓮と凛が歩み寄る。
「美咲先輩。先輩が作ってくれた季節のメニューが、テスト期間や部活帰りのどれだけ多くの生徒の笑顔を救ったか、数え切れません。製菓学校へ行く先輩に、俺たちの『挑戦』と『遊び心』を贈ります。先輩のクリエイティビティに、俺たちは全力で立ち向かいました」
蓮が、数え切れないほどの試作を繰り返して焼き上げたのは、紅白の対になった「お花見たい焼き」。
桜の塩漬けを練り込んだ淡いピンクの生地と、真っ白なミルク餡を包み込んだ真珠色の生地。凛はそこに、和と洋が見事に調和した「抹茶エスプレッソ・コンパナ」を添えた。ホイップクリームの上には、金箔が微かに散らされている。
「……蓮くん。生地の火入れ、完璧ね。モチモチ感とカリッとした食感の黄金比よ。これを文化祭の時に出せていたら、もっと行列ができてたかも。……凛ちゃん、この抹茶の苦み、私のどのレシピよりも洗練されてるじゃない。負けちゃいそう」
美咲は「美味しい、美味しい」と何度も繰り返し、自分が手塩にかけて育てた後輩たちの確かな成長と独創性に、また大粒の涙をボロボロとこぼした。彼女が伝えたかった「食べる人を驚かせる喜び」は、しっかりと彼らの中に根付いていた。
そして、部長としてこの場所を守り抜いた橘楓へ。
新部長の沢村陸と、副部長として彼を支え続ける泉真琴が、深々と頭を下げてから、一杯の「ロイヤル・キャラメル・ミルクティー」を差し出す。
「楓さん。俺、助っ人に張り切りすぎて何度も部活を投げ出そうと思った時、楓さんのあの『大丈夫だよ、やり直せるよ』って笑顔に救われました。あなたがいたから、俺はこの場所に留まることができました。経営学部へ行く楓さんに、俺たちの誓いを聞いてほしいんです。楓さんが作ったこの場所を、俺たちが世界一温かくて、誰もが帰りたくなる場所にしてみせます!」
陸の熱い宣言に、真琴も静かに、けれど力強く頷く。
「楓先輩。在庫管理の一片から接客の極意まで、すべて先輩の背中が教えてくれました。先輩は、数字よりも大事なものを教えてくれた。先輩が繋いでくれたこのバトン、私たちは絶対に落としません。私たちは、あなたの誇りになります」
楓は、鼻をくすぐるキャラメルの甘く温かい香りに包まれながら、胸がいっぱいになり、言葉を失っていた。自分がただ好きで始めたことが、こんなにも逞しく、優しく、そして誇り高い芽を吹いていたことに、彼女は初めて部長としての「最高の完成」を感じていた。経営とは場所を作ることだ、と彼女は学んだ。




