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ススムは黒鷹湖東岸に立っていた。真正面、西口を見据え、小さな体で剛竿を渾身のキャスティング。仕掛けはルアーだ。この時のためのサスペンド・ミノーが空を飛び、着水、潜水。台風の影響がまだ残っている湖の中の太い水流に運ばれ、西口へとラインを引きずり出していく。
ある程度流した所でリーリング。ラインを巻き上げていく。と、その手が止まった。
肌が粟立った。なんと一発だ。まるでダンプカーを引いてるかのような、重厚な抵抗が、ロッドをしならせる。ニマリ、と不敵に笑った。武者震い――
ああ、ついに来た! 夢が、とうとう! これを熱望していたのだ!
遠慮しなかった。なぜなら、このときのための、ロッド、リール、ライン、フックだったのだから。
ススム、強引に巻き上げる。根負けしたか、其奴が、こっちに真っすぐに引きずられ始める。
「勝った!」
と思った。その瞬間だった。
大雨でゆるんでいたに違いない。西口の一つの大石が、ぐらりと傾き、そのまま落下したのだった。谷に岩と岩の衝突音が重く響きあう。とたん、水の音が滝みたいに激しくなった。沢の口幅が広がる。水流の圧力が一気に上がる。ドン! まるで湖そのものが釣れたみたい。踏ん張っていた足が滑る。ドタン! 逆に引きずり込まれた。ドボッ! 湖の腹の中、水の中に喰われてしまう。息ができない。ロッドを投棄してとにかく水面に泳ぐのだ! 瞬間的に却下した。当たり前、ここでこのロッドを手放したらもう、これからの僕の人生、生きる価値がない、お終いなのだ。だが本当、これは、この状況は、これまでの人生のお終いというものだった。
がばばッ。ゴボボ。ガフッ――
泡が命の形に見える。
死ぬ。
そのとき、どこからか僕の名前が呼ばれたような気がして。
顔を向けると水面を透かして、青空に、だれか男の人の顔がある。あれは白黒写真だ。知らない人、だけど知ってる人。そう、あれは……。
清太郎伯父さんだ――
清太郎が僕を見つめて誇らしげな笑顔になった。力強く腕を伸ばしてきて――
グイッ、と抱きかかえられた。
「――ススム君! ススム君!」
敦兄さんだった。抱きかかえられたまま、岸に運ばれる。がばあ! ゴホッ、ゲホッ! げろろろろ! 当然のことながら、僕は、ロッドを手放しちゃいない。このときほど自分を褒め称えたいと思ったときはない。
「ススム君! もしやと思って、間に合ってよかった――!」
「大丈夫まかせて!」
敦兄さんが狼狽えたように何かしゃべったようだったがもう聞こえない。敦さんに支えてもらってることもこのとき意識外だった。釣り師の誇りと意地でリールを回し、ついに――
僕は、ある一匹の“魚”を、釣り上げたのだ!




