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20.道化師現る


「お買い上げありがとうございました~! またのお越しをお待ちしてまぁす!」


 と、恥ずかしくなるほどの猫撫で声で見送られ、エリクは赤面をこらえながら店を出た。カランカラン、と頭上でカウベルが小気味良い音を立て『デ・リーゾ道具店』と記された吊り看板を小さく揺らす。

 ……まったくひどい目に遭った。旅の間に消耗した品をちょっと買い足しに来ただけなのに、まさかここで一刻(一時間)も足止めを食う羽目になるとは。

 恐るべしソルレカランテ。ようやく青空の下へ戻ることができたエリクは深々と嘆息して、疲れ切った体を引きずるように大通りの人波へまぎれた。


(ラヴィニアも何となくそんな様子はあったが、トラモント人はとにかく惚れっぽいって話は本当だったんだな……恋多き民族というかなんというか……リナルドがやけに遊び慣れてる風だったのは、こういう理由(わけ)があったわけだ)


 と内心妙に納得しながら、エリクは乾いた笑みを(たた)える。

 黄都(こうと)に入ってまだ半日も経っていないというのに、この疲労困憊(ひろうこんぱい)ぶりはどうしたことだろう。いや、疲労は疲労でも、今のエリクにのしかかっているのは俗に言う〝心労〟というやつなのだが。

 ガルテリオたちと別れて数刻後。空白の時間を持て余したエリクは部屋を与えられた軍営の宿を出てひとり、ソルレカランテを散策していた。

 午前中、凱旋したガルテリオをひと目見ようと集まっていた群衆は既に散り、街はいつもの日常を取り戻している。と言っても商店が立ち並ぶ大通りの人混みはかなりのもので、平時でもこれだけの人で溢れているのかとエリクは正直驚いた。


 もっとも今は年末で、年明けの新年祭に備え、遠方から行商に来た商人や親族を訪ねてきた人々も多いに違いない。

 六聖日(ろくせいじつ)は親類縁者が一堂に会して祝われるのが常だから、普段は家族と離れて暮らしている者も年末年始は生まれ故郷へ帰ってくることが多いのだった。

 しかしエリクにとっての問題はそうした人の多さよりも、道行くトラモント人から注がれる視線だ。宿を出てからというもの何やら妙に視線を感じるとは思っていたのだが、ふと通りを見渡せば至るところで他人と目が合うことに気がついた。

 まあ、それだけならばエリクにとってはよくある話だ。

 ルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)やシャムシール砂王国(さおうこく)でもそうだったように、エリクの赤い髪はどうしたって人目を引いてしまう。

 だから初めはそのせいだろうと気に留めずにいたのだが、長旅の汚れを落とすべく公衆浴場へ足を運んだあたりからエリクは何かがおかしいことに気づき始めた。


 そう、女性だ。何って、目が合う相手がみな女性なのだ。


 いや、男性もまったくいないわけではないものの、体感的に十人中八人は女性のような気がする。しかも彼女らの眼差しはどう見てもエリクの赤髪を物珍しげに眺めるそれではない。そこにあるのは驚きと好奇心──そして熱っぽさ。

 あれがいわゆる〝熱視線〟と呼ばれるものだとエリクが悟ったのは、浴場を出て昼食を取れそうな食堂を探していたときのこと。時刻はちょうど昼時で、どの店もほとんど席が埋まっているようだったから、エリクは少しでも空いている食堂へ入ろうと商店街をうろうろしていた。するとある角を曲がろうとしたとき、余所見が原因でひとりの若い女性にぶつかってしまったのだ。エリクは衝突の拍子に体勢を崩した相手の体を慌てて支え、謝罪と共に「大丈夫ですか?」と声をかけた。

 途端に女性の頬を染めたあの色を、人は薔薇色と呼ぶのだろう。

 女性はエリクの腕の中でしばしぼんやりしたあと、再三の呼びかけでようやく我に返り、そして言った。「ぜひぶつかったお詫びをさせて下さい!」と。


 衝突の原因はむしろエリクの方にあったというのに妙な話だ。

 しかし女性は「いえ、お詫びしなければならないのは俺の方で──」というエリクの台詞をみなまで言わせず、自分に非があることを強硬に主張し、エリクがまだ昼食を食べていないと知るや否や「おすすめの店がある」と走り出した。

 結果としてエリクは良心的な値段でおいしい料理を提供してくれる食堂に巡り会うことができたわけだが、まさかそこで二刻(二時間)近くも拘束されることになるとは誰が想像できただろう。「お詫び」と称してエリクの食事代を持ってくれた女性はまるでその対価だと言わんばかりにエリクを質問攻めにし、宿泊先と滞在期間を吐かせ、よければ六聖日を共に過ごさないかと誘ってきた。

 それはもう、エリクが返答に(きゅう)するほど瞳を爛々(らんらん)と輝かせながら。


(おまけに食堂の女将(おかみ)さんは〝おまけだ〟と言って食べきれないほどの料理を出してくるし、ようやく逃げ切ったかと思えば複数人の女性に囲まれて軽く拉致されかけるし、道具屋に逃げ込めば店員から〝恋人になってくれませんか?〟とか言われるし……一体何なんだこの街は……トラモント人の貞操観念ってどうなってるんだ……?)


 ここまでの道のりを思い返しただけでげんなりしながら、エリクは肩を落として人混みにまぎれた。なるべく顔を上げないよう意識して歩いているのは、また見知らぬ女性と目が合って突撃を受けるのが恐ろしいからだ。確かにエリクは幼い頃から容姿端麗だと言われて育ったし、故郷にいた頃も同郷の娘たちから熱烈なアプローチを受けたから、女性に好かれやすい体質なのだろうという自覚はあった。

 しかし街を歩いているだけで恋愛対象とみなされ、いきなり「ひと晩を共にしてほしい」だの「恋人になってくれないか」だのと迫られるのはさすがに理解できない。何故彼女らは素性も知れぬ初対面の相手にそんな言葉をかけられるのか?

 もともとトラモント人は恋愛好きで、男も女も異性に対しておおらかだとは聞いていたものの、この事態はさすがにエリクの想定を超えていた。

 エリクが育ったルミジャフタでは逆に厳しい掟で貞操観念が守られていたから、アレを当然と思って生きてきたエリクにはトラモント人の言動が奇行に見える。


 これがカルチャーショックというやつか……と痛感しつつ、エリクは淡黄色の石畳を()めつけ、さてどうすべきかと考えた。

 日が沈むまではもうしばらくあるし、できればもっと黄都を見て回りたいという願望はある。されど行く先々で見知らぬ異性に絡まれるのは正直もうたくさんだ。

 エリクは別に女嫌いではないし(うぶ)でもない。とは言えまったく知らない異性から迫られてためらいなく応えられるほど軽薄かと言われればそれも違う。

 男も女も生涯添い遂げると決めた相手と手を携えて生きていくこと。あるのは幼い頃から刷り込まれてきたその教えを、父のように守りたいという思いだけだ。

 何より自分には故郷で帰りを待ち侘びてくれている妹がいる。

 彼女のために一日も早く帰郷しなければならないことを思えば、異国の街で都会の女に(うつつ)を抜かしている場合じゃない。


(ああ、でも()()を買えたのは僥倖(ぎょうこう)だったかな)


 と、そこでエリクはふとあるものの存在を思い出し、(ふところ)へ手を入れてみた。

 取り出したのは先刻の道具屋で日用品と共に買った一本の髪紐(かみひも)だ。

 手触りのいい正絹の糸で丁寧に(あざな)われた、鮮やかな赤の髪紐だった。

 紐の両端には(つや)が出るほど磨かれた緑玉(りょくぎょく)の飾りがついていて、陽を浴びると手の中でチカリと光る。そこそこ値の張る買い物だったが、エリクはこの品をひと目見た瞬間、間違いなく(カミラ)に似合うと直感した。自分と同じ赤い髪に真紅の紐は馴染むだろうし、先端に(くく)りつけられた飾り珠も美しい。その飾り珠が緑玉でできているというのがまたいいのだ。全体的に淡い色彩ながらも複雑な濃淡によって表面に独特の模様を生み出す緑玉は、亡き母の瞳を彷彿とさせた。


 エリクの母の瞳の色はもう少し深い緑色だったが、いつだって宝石のように澄み切って、色とりどりの感情に彩られていたのを覚えている。

 だからエリクは数ある色の中でも緑がいっとう好きだ。

 郷を出たときからずっと深い森色の外套(がいとう)を愛用しているのも、剣の鞘を緑にしたのも亡き母を想ってのこと。しかし妹のカミラは母を知らない。

 彼女が生まれ落ちるのと引き替えに、母は命を落としてしまったから。

 ゆえにエリクはカミラにも母の瞳の色と同じものを贈ろうと考えた。

 カミラは父譲りの赤い髪をいたく気に入り、幼い頃からずっと長く伸ばしているから、きっとこの髪紐も気に入ってくれるはずだ。

 喜ぶ妹の反応を思い描いて微笑みながら、エリクは大切な贈り物をもとの場所へそっと(しま)った。滞在初日からひと目惚れの買い物ができるとは幸先がいい。

 その幸運の代償として見知らぬ女性たちに追い回される羽目にはなったが。


(まあ、黄都にはもうしばらく留まる予定だし……何も今日急いで隅々まで見て回る必要もないか。さっきの店員さんが教えてくれた貸本屋とやらを覗いたら、今日は大人しく宿へ帰ろう。久しぶりにゆっくり本を読むのも悪くないしな)


 行き交う馬車の車輪の()を聞きながらそう決めて、エリクは大通りを小路(こみち)へ折れる。確か道具屋の売り子が教えてくれた〝貸本屋〟なる店の所在はこちらの方角で合っているはずだった。何でもそこでは簡単な手続きさえ踏めば有償で本を貸与してもらえるらしい。エリクはもともと読書が好きで、郷では貴重な紙の書物を大切に保管しては、表紙が擦り切れるほど繰り返し()(ふけ)ったものだった。


 しかし旅の間はどうしても書物がかさばる。ゆえにしばらく読書とは縁遠い生活を送っていたのだが、余所者のエリクでも本を貸し出してもらえるのなら、ぜひとも借りて文字の海に溺れたい。百万都市ソルレカランテともなれば、きっとエリクの知らない書物が溢れ返っているはずだ。薄い布や染色された革が張られた表紙を開き、古さびた紙のにおいを嗅ぐあの瞬間を夢見ながら、エリクは表通りに比べるといくばくか人気の薄い裏道を歩いた──が、そのときだ。


「本当に申し訳ございません……!」


 と、にわかに切迫した女の声が聞こえて、エリクは何事かと目を丸くした。

 見れば建物の影で少々日当たりが悪くなっているあたりに、必死に頭を下げるひとりの女性と彼女の足もとに(すが)りつく六、七歳くらいの少女がいる。

 見たところ黄都で暮らす母子(おやこ)だろうか。身なりは質素ながらも小奇麗で、都会暮らしが長いのだろうなという印象を見る者に与えた。

 が、平謝りする母親の服に縋った少女は何やら怯えているようだ。どうしたのだろうとさらに奥へ目をやれば、母親が頭を下げる先に複数人の人影がある。

 立ち塞がっているのはいずれも帯剣した男たちだった。

 しかもただのゴロツキや傭兵といった風貌ではない。ガルテリオやシグムンドが身にまとっていた軍装とは(おもむき)が違うものの、あれはもしや軍服ではなかろうか?

 黒地に赤い襟と(じゅ)が目を引くお仕着せを着た男たちは、やや背を反らし威圧するような態度でひと組の親子を見下ろしていた。


「〝申し訳ありません〟で済むわけがあるか、愚図(グズ)が! こいつはな、ふた月も前に仕立屋に頼んで夕べようやく届いた一点ものの衣装なのだぞ! よりにもよってそこにこんな盛大な染みを作りおって……! 貴様はこの憲兵隊長マクラウド・ギャヴィストン様を何だと思ってる、無礼者め!」


 次いで聞こえたのは思わず顔をしかめたくなるような耳障りな(わめ)(ごえ)

 男のそれにしてはやや甲高いせいもあり、エリクは一瞬、見も知らぬ珍獣が道端で吠えているのかと思ったが違った。

 喚いているのはどこからどう見ても人間だ。最初の方の言葉が上手く聞き取れず、獣の喚き声に聞こえたのはたぶんあの早口とひどい巻き舌のせいだろう。

 俗に〝トラモント(なま)り〟と呼ばれる独特の発音は、慣れていないと同じハノーク語の話者でも聞き取るのに難儀する。中でも自らマクラウド・ギャヴィストンと名乗った男の訛りはかなりひどい。もともとの声質が濁っているせいもあって、早口で(まく)()てられると何を言っているのやらちんぷんかんぷんだ。しかし何となく、


(これは只事じゃないな)


 という気配だけは察知して、エリクはつい足を止めた。

 小さくなって怯える母子を前にして、なおも怒鳴り散らしているのは顔を真っ赤にした痩身(そうしん)の男だ。ずいぶん貧相な体つきで、見るからに筋肉もなく、日頃からまったく体を鍛えていないのが見て取れる。

 しかしエリクの聞き間違いでなければ、彼はこの往来で堂々と憲兵隊長を自称した。憲兵隊というのは確か黄都の治安維持と政治の監視を目的として創設された部隊のはずだ。ソルレカランテには黄帝(こうてい)統帥(とうすい)とする中央第一軍の他、皇族の身辺警固を専門とする近衛軍、そして小部隊ながらも厳しく内政に目を光らせている憲兵隊の三つの軍組織が存在している、とウィルやリナルドが話していた。


 中でも憲兵隊は今年創設されたばかりの部隊だそうで、()()殿()()()()()()()()()()()()()()、などとウィルがぼやいていたような気がする。何でも六年前に勃発した正黄戦争(せいこうせんそう)──現黄帝オルランド・レ・バルダッサーレとその叔父フラヴィオ・レ・ベルトランドが皇位継承権を争った内紛──以降黄皇国(おうこうこく)では政治腐敗が加速し、憲兵隊はそれに歯止めをかけるべく立案された部隊だと聞いた。

 要するに彼らは官僚や軍人の監視を主な使命とし、不正を抑止するための捜査権と逮捕権を持ち合わせているというわけだ。


(だけど()()が憲兵隊の隊長だって……?)


 何かの間違いじゃないのかと、エリクは思わず目を細めて男の風貌を観察してみる。何故って男は体つきだけでなく身なりもとても軍人とは思えなかったからだ。

 いや、確かに男の衣服は生地も仕立てもよく、腕のいい仕立屋が丹精込めて縫い上げた一品なのだろうということは分かる。しかしあのケバケバしさと毒々しさが同居した悪趣味な造形はどうしたことか。まるで毒蛇の皮を剥いで()()わせたかのような色使いのおかげで、エリクには彼が軍人というより道化師に見えた。

 そもそもの問題は男の髪型だ。マクラウドと名乗った男は見るからにくすんでパサついた金髪を(キノコ)のカサのような形に整えている。アレのせいでただでさえ面長でひしゃげた顔がより醜悪さを増していると感じるのはエリクだけだろうか。

 まあ、そこはトラモント人と辺境の森の民の美的感覚の差かもしれないが、少なくとも軍人としての威厳は微塵も感じられないというのが正直な感想だった。


 でもってその道化師……いや、毒キノコ……ならぬ憲兵隊長マクラウドは、依然として目の前の母子を執拗に怒鳴り続けている。矢継ぎ早に繰り出される彼の罵声をエリクの知るハノーク語に置き換える限り、どうやら女性の陰に隠れている少女がマクラウドとぶつかった拍子に持っていた飲み物を零してしまったようだ。

 おかげで下ろしたての衣装に染みができた、どうしてくれる──というのがマクラウドの言い分らしく、口角泡を飛ばして喚く相手に母親はひたすら謝罪を重ねていた。が、エリクが気になったのはふたりのやりとりの内容よりも、騒ぎを後目に素知らぬ顔で歩き去っていく周囲の人々の反応だ。

 

 表の大通りほどではないにせよ、ここだって相応の人通りはあるというのに、誰ひとりとして彼らの傍で足を止める者はいない。むしろ通行人は喚くマクラウドも謝罪する女性も初めから見えていないかのように、誰も彼もが素通りしていく。

 だがマクラウドがあれだけ大騒ぎしているのに、誰も事態に気づかないなんてことがあるわけがない。

 つまり彼らは事件が起きていると知りつつも敢えて無視を決め込んでいるのだ。

 無抵抗の女子供が武装した男たちに脅されている現場を目撃しながら、誰もが上着の(えり)や帽子の(つば)で顔を隠し〝関わり合いになりたくない〟とでも言うように。


「ほ、本当に……本当に申し訳ございませんでした……! 私がもっと娘の様子に気を配っていれば……つ、次からはもっと注意して歩くよう、娘にもよくよく言い聞かせますので……!」

「今から注意したのでは遅いのだ、馬鹿者! よく見ろ、このありさまを! 来る日も来る日も命懸けでソルレカランテを守ってやっている憲兵隊長様にこんな非礼を働いておいてタダで済むと思うのか!? これだから礼儀を知らん下民どもは!」

「も……申し訳ございません……で、ですがそれでは一体どうすれば……?」

「そんなもの決まっているだろう! 弁償だ、弁償! 仕立て代と慰謝料合わせて十金貨(シール)、今すぐ耳を揃えて用意しろ!」

「じゅ、十金貨……!?」


 瞬間、エリクはうなじのあたりの毛がざわりと逆立つのを感じた。

 金額を聞いて絶句している母親の反応からも分かるとおり、十金貨と言えば上等な剣や鎧はもちろん、馬一頭だって買えるほどの大金だ。

 いくらあの道化服が高名な仕立屋に頼んで仕立ててもらったものだとしても、十金貨という額は法外すぎる。少なくともエリクが育ったルエダ・デラ・ラソ列侯国の相場なら、どんなに高くとも四、五金貨がいいところだろう──貴族令嬢だった母が着ていた衣装が確かそのくらいの値段で取り引きされていたはずだから。


「ま……マクラウド様……大変申し上げにくいのですが、わたくしのような庶民に十金貨なんて大金はとても……い、今は下の子の出産も控えておりますし……!」

「なんだ、泣き落としか? だが貴様がどこの馬の骨とも知れぬ男に股を開いた話など私の知ったことではない。今すぐ払えないというのなら仕方がないから特別に全額用意できるまで待ってやる。何なら分割払いでもいいぞ? もちろん完済が一日遅れるごとに利子をつけさせてもらうがな!」

「そ、そんな……!」

「ああ、しかし相応の担保を用意すると言うのなら、利息だけは免除してやってもいい。そうだな……たとえばそこにいる娘はどうだ? 身分も地位も教養もない下民の娘でも、多少色をつければそこそこの値がつくだろう。こう見えて私は多方面に顔が利くのでな」

「……! お……お待ち下さい! でしたら担保には何か別のものをご用意しますので娘は、娘だけは……!」

「あー、いや、気が変わった。何しろ天下の憲兵隊長である私は貴様ら下民と違って忙しい。よってこれ以上貴様との交渉に割く時間はない。というわけで弁償の抵当(かた)には娘をもらっていこう。何、たとえ完済できずともすぐまた()()()()()()のだから不都合はあるまい? 恨むのならしつけもろくにできぬくせに子を持った己の愚かさを恨むのだな! ヒャハハハハッ!」


 齧歯類(げっしるい)のように飛び出た前歯を天へ向けながら、マクラウドは声高に哄笑した。

 かと思えば彼の背後に控えていた大柄な兵士がぬっと進み出、母親から娘を引き剥がす。泣き叫ぶ娘の声と我が子を呼ぶ母親の悲鳴が飛び交った。母親は錯乱した様子で(ひざまず)き、必死に許しを乞うているがマクラウドは見向きもしない。「連れていけ」という短くも冷酷なひと言で母子の運命は決したかに見えた。娘は兵士に担ぎ上げられ、それを見た母親が憲兵を引き止めようと懸命に縋りつく。だがまとわりつかれた兵士は鬱陶しげに母親を見下ろすと露骨な舌打ちを零した。次の瞬間、彼から目配せを受けた別の憲兵が胎児を宿す母親の腹部目がけて足を振り上げ、


「──いッ……!?」


 風を切って振り抜かれた憲兵の爪先が、勢いよく剣の鞘(かたいもの)に激突した。

 予想外の衝撃に目を丸くした憲兵は、一拍遅れてやってきた痛みに悲鳴を上げて己の左足を抱え込む。


「な、なんだ……!?」


 色めき立つ憲兵たちの眼前で、エリクはため息と共に鞘を(しま)った。

 できれば厄介事には首を突っ込みたくなかったのだが仕方がない。

 義を見てせざるは大悪(たいあく)なり──それがルミジャフタの戦士の合言葉であり、エリクの信奉する正義神ツェデクの教えなのだから。


「お待ち下さい、憲兵隊長殿。でしたらそちらのお召し物の代金は、私が肩代わり致しましょう」



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