18.日出づる先へ
軍付の聖職者と思しき人物が、穴の前で胸に《星樹》を切っていた。
二十二大神が一、生命神ハイムの神璽である《星樹》は、エマニュエルで最初に芽吹いた大樹エッツァードを模した形の紋章だ。
エッツァードは天界に根を張る樹木で、地上から見上げる空が青いのは、真っ青な天樹の葉が地平まで垂れるほど梢を伸ばしているためだと言われていた。
さらにエッツァードはその実に死せるものの魂を宿す。ハイムが世界に布いた生死流転の理により、生きとし生けるものは死ねば魂のみの存在となって天樹の実に入るのだ。そうして瞬く死者の魂を人々は古くから〝星〟と呼ぶ。死せるものたちの魂を宿し、長い年月をかけて熟したエッツァードの実はやがて流星となって地上へと降り注ぐ。星の落ちた先にあるものは母の胎内に抱かれし新たな命。
魂はそうやって生と死を繰り返す。
《星樹》とはそうした生命の営みを象徴する神璽だ。ゆえにエマニュエルの聖職者はたとえ主神と崇める神が違えど、死者の前では等しく《星樹》を切る。
エリクが城壁の上から見下ろす先にいる彼は、雄牛の角らしきものがついた祭帽を被っているところを見るに金神系教会の僧侶だろう。確かトラモント黄皇国は太陽神シェメッシュを主神とする東方金神会を国教会としていたはずだから、あの僧侶もそこの所属なのかもしれない。彼の帽子に金色の角がついているのは、シェメッシュの神璽たる《太陽を戴く雄牛》を模しているからだ。
グランサッソ城解放戦から早数日。砂王国軍の脅威が完全に去った城の外ではようやく死者の埋葬が始まっていた。死者と言っても、たったいま地面に穿たれた大穴に放り込まれているのはいずれもシャムシール人ばかりだが、いかな敵兵だからと言っていつまでも死体を野晒しにしておくわけにはいかない。
何しろ数千人分もの遺体を放置すれば間違いなく衛生上の問題が発生するし、敵も味方も老いも若きも、死の前では平等であるというのがハイムの教えだ。
ゆえにそれが無神論者の亡骸であっても、魂の安息を祈り弔うのが生者の務め。
そうして誰かが生前の罪の赦しを乞うてやらねば、彼らは再び人として生を受けることができない。いや、輪廻転生の輪から外れるだけならまだしも、あまりに悪業の強い魂は魔界へ堕ちて理性なき魔物と化してしまう。〝地裂〟と呼ばれる大地の裂け目から地上へ這い出し、無差別に人々を喰らう魔物の存在は人類の脅威だ。だから相手がどんな悪人であろうと生者は彼らの魂の浄化を願い、祈りを捧げる。
次こそは善人として生を受け、過去世の罪を償うことができますようにと。
翻ってグランサッソ城内にはもとの活気と秩序が戻りつつある。
黄皇国軍から出た死者は真っ先に墓地に埋葬され、傷病者の手当ては進み、涸れていた濠にも水が戻った。ユックス川の水門を守るパラトイア砦は、案の定砂王国軍の急襲を受けて占拠されていたものの、今ではすべてもとどおりだ。エリクはシグムンド率いる第三軍本隊と共にグランサッソ城包囲軍を蹴散らした足でパラトイア砦へ急行し、砦内で酒盛りをしていた砂賊どもを散々に打ちのめした。
もっともエリクが城へ戻ったのはつい昨日のことだ。
第三軍本隊の登場によって敗れ、潰走した砂王国軍の残党は、放っておけば近隣の集落を襲い略奪を働く可能性があった。
ゆえにこの数日間ずっと砂賊どもを追い回し、追撃に追撃を重ねていたのだ。
完膚なきまでに叩き潰された砂王国軍はもはや略奪を働く気も起きないほどの満身創痍となり、這う這うの体で竜人たちの暮らす死の谷へと逃げ去っていった。
ちなみに彼らが今回の侵入経路として使った地下道は、既におおよその位置が把握され、順次埋却が進められている。中に入った調査隊の話では、あちこちに神刻を刻んだ奴隷の死体が転がっていたそうだ。そのほとんどが地刻を刻んだ死体だったという報告を聞く限り、エリクの読みは当たっていたということだろう。
砂王国軍は地の神術を使って地中を進軍し、用済みになったところで神の力を得た奴隷たちを鏖殺した。……何ともむごい話だった。
(まあ、今後はガルテリオ将軍も何らかの対策をなさるだろうし……砂王国も同じ手が何度も通用すると考えるほど馬鹿じゃないだろう。こんなことが起こるのは今回限りだといいんだが)
ひゅるひゅると音を立てて吹く風に赤髪を嬲られながらエリクはひとり、そんな思考に沈んでいた。聖典を開き、死者のために祈りの言葉を唱える僧侶の背後では、死体を啄みに来た禿鷲たちが物欲しそうに鳴いている。
何とも荒涼たる景色だった。無事にグランサッソ城を守れてほっとしている反面、これが戦というものかとエリクは内心噛み締める。
郷を旅立ってから今日まで、エリクは幾度となく戦いの中に身を置いてきた。
けれどそれはあくまで個人と個人の争いや小規模な集団同士のぶつかり合いであって、ここまで大きな戦いを経験したのは今回が初めてだった。故郷の外ではこんな戦いが幾度も繰り返されているのだと思うと、自分がいかに平和に生きてきたのか痛感する。いざというとき外敵から郷を守るために叩き込まれた武芸のおかげでどうにか生き延びることはできたが、その傍らで実に多くの人間が死んだ。
敵も味方も何百、何千という犠牲者を出しながら、なおも血で血を洗う争いはなくならない。黄皇国と砂王国の諍いはもちろんのこと、世界では似たような争いが幾度も繰り返されている……まさに混沌。
だからあの少女は──イヴはエリクの前に現れ、告げたのだろうか。
《神々の眠り》以来、永きに渡って続く混沌の時代に終止符を打て、と。
しかし終止符を打つと言ったって、エリクにそんな大それた力はない。
どうすれば世界を変えることができるのかなんて考えてみたところで何も思いつかないし、自分に何ができるのかも分からない。
結局のところイヴは何を言いたかったのか。自分に何をさせたかったのか……。
彼女の預言に従い、こうしてグランサッソ城を守ることはできた。されど果たしてそこにどんな意味があったのか、エリクにはまったく見当もつかない。
「おーい、エリク!」
ところが物思いに耽っていると、どこからともなく名前を呼ばれた。
ふと気がついて振り向けば、大きく手を振りながら駆けてくるウィルと彼の友人であるリナルドの姿が見える。
「ああ、ウィル。リナルドも、傷の方はもういいのか?」
「ああ! もともと俺もリナルドも大した怪我じゃなかったからな。何度も戦を経験してると、あの程度の掠り傷は日常茶飯事だよ。なあ、リナルド?」
「まあな。俺たち軍人にとって国境が生傷の絶えない場所だってことには違いない。だがウィル、お前は負う必要のない傷まで拵えすぎだ。いい加減学習しろ」
「あー、はいはい、お小言ありがたく頂戴しますよ。ったく、こいつは口を開けばすぐコレだ」
心底げんなりした様子で肩を竦めるウィルを見て、エリクはつい笑いを零した。
本人にとっては笑いごとではないのだろうが、ウィルの気持ちもリナルドの忠告も分かる立場としては、ふたりのやりとりが少し愉快だ。
「あ、いや、そんなことよりさ、ついさっきマクランス要塞から伝令が届いたんだよ! 向こうも無事に決着がついたみたいでさ。グランサッソ城攻略失敗を知ったファリドが、さすがに諦めて兵を引いたって話だ。国境警備隊の再編が終わったらガル様もすぐに戻ってくるらしいぞ」
「へえ……そうか、ファリドが兵を引いたのか。よかった。あの王子のことだから、将軍の首を狙うチャンスがあるうちは諦めないんじゃないかと思ってたよ。けど一応そういう分別はあったんだな」
「同じく俺も驚きだ。だがまあ、今回の砂王国軍の作戦をファリドがひとりで描いたのだとすれば、やつは相当頭の切れる男だとも言える。なら負けを悟って引き際をわきまえるくらいの理性は持ち合わせているということだろう」
「だったらそもそも侵攻自体を諦めろって話だけどな」
リナルドの意見に付け足すような形でウィルが言い、エリクもそれには大いに同意した。シャムシール砂王国は建国以来、砂漠の外に領土を求めて絶えず戦争を繰り返しているが、結局のところ彼らのもくろみは一度も成功を収めていない。
統制された軍隊も規律も存在しない砂王国の現状では、潤沢な物資と常備軍を持つ隣国を打ち負かすことなど不可能なのだ。
されど砂賊たちは諦めない。というより彼らは戦いや略奪そのものを楽しみ、愛してやまない傾向があるから、本当は領土の拡張なんてどうでもいいとさえ思っているのかもしれない。ただ殺し、奪い、踏み躙る対象がほしいだけ。
リナルドが他の砂賊より理性的と評したファリドだって、根底にあるのは〝より強い者と戦いたい〟という闘争欲求だ。まったく彼らの精神構造は理解しかねる。
まあ、そもそも理解したいとも思わないが。
「いや、けど頭が切れると言えばさ、聞いたぞ、エリク。マクランス要塞で押収した砂王国軍の旗を使って、敵を油断させてから突撃しようって提案したのはお前なんだって? それどころか連中の進軍経路を暴いたのも、グランサッソ城に援軍を送るべきだと言い出したのもお前だったって、さっきシグ様が絶賛してたぞ。あのシグ様にあそこまで言わせるなんて、お前すごいな!」
「あ、ああ、まあ、確かに献策したのは俺だけど、最終的な判断をして下さったのはガルテリオ将軍やシグムンド准将だしな……というかシグムンド准将って普段そんなに厳しいのか?」
「ありゃ厳しいなんてもんじゃないって! ガル様があんまり細かいことにこだわらない性格だからか知らないけど、シグ様はいっつも虱の卵を探すようなことまで追及してきてさ。だから普段は滅多に人を褒めないし、むしろ人の心臓を抉るようなことばっか言ってくるし、地獄耳だし……」
「いや、確かにシグ様が厳しいのは認めるけどな。お前は逆に叱られすぎだと思うぞ、ウィル。実際、俺はそこまでシグ様に怒られたことはないし……あれは単純にお前が大雑把で能天気だから注意されてるだけだろう」
「お、大雑把ってことはないだろ!? 俺はオーウェン殿に言われたとおりにやってるだけで……!」
「そのオーウェン殿もシグ様から目の敵にされてるのを見てないのか? お前はあの人の悪いところばかり見習いすぎなんだよ」
「うっ……」
痛いところを衝かれたのか、ウィルは赤い軍服の鳩尾あたりを押さえてそれきり言葉を発さなかった。どうにかこうにか反論の糸口を探そうとしているのか、視線だけは忙しなく泳いでいるが、額からはだらだらと冷や汗が流れている。
「い、いや、まあ、俺はオーウェン殿という方のことは知らないが……そう言うウィルだってこの間の戦闘では大活躍だったじゃないか。援軍が到着したと知るや否や迷わず籠城を解いて俺たちを援護してくれて……さすがは若くして一個大隊の指揮を任されてるだけはあるなって、見ていて惚れ惚れする健闘だったよ」
「だ、だろぉ!? ほ、ほら、シグ様やリナルドは軍人だけど、ちょっと文官肌なとこがあるからさ!? 特にシグ様は父君も祖父君も中央の官僚だったし!? だ、だから俺は軍人らしく戦術方面担当なんだよ! 上官や同期の手が回らないところは率先して補っていかないとな! はははは……!」
そう言って空笑いするウィルをリナルドは完全な呆れ顔で眺めていたが、もはや小言を言う気も失せたようだった。そんなふたりの様子にエリクも苦笑しつつ、しかしシグムンドの父や祖父が文官というのは意外だな、と思いを馳せる。
何しろ戦場で目にしたシグムンドの剣技は見惚れてしまうほどすさまじかった。
一切の無駄なく、鋭く、洗練されていて、太刀筋はまさに緩急自在。あれはどこからどう見ても徹して剣の道に生きてきた者にしか辿り着けぬ境地の剣だ。
僥倖にも彼の妙技を間近で見ることができたエリクは、きっとシグムンドの家は代々優秀な武人を輩出してきた名家なのだろうと勝手に思い込んでいた。だのに親が文官とは驚きだ。よほど優れた剣士に師事したのか、はたまた独力であそこまでの剣技を開拓したのか、エリクは少しだけシグムンドに話を聞いてみたくなった。自分も弛まぬ努力を続ければ、彼のような剣の使い手になれるだろうか?
「まあ、ウィルの与太話は一旦脇に置くとして、だ。ひとまず砂王国軍は撤退し、マクランス要塞も無事奪還された。これにて第百六十七次国境戦役も一件落着というわけだが、エリク、君はこのあとどうするつもりなんだ?」
「どうする、って……もちろんまずはガルテリオ将軍のご帰還を待つよ。あとは将軍にご挨拶をして、傭兵としての報酬を受け取り次第故郷へ帰るつもりだ。ふたりともせっかく親しくなれたのに、すぐにお別れというのは名残惜しいが……砂王国軍の脅威が去った以上、傭兵の俺がずるずると城に居座ってもただの穀潰しになっちゃうからな」
「あ、それなんだけどさ!」
と、リナルドの問いに答えたところでいきなりウィルに食いつかれ、エリクは思わずあとずさった。何故なら直前まで気まずげにしていたウィルが突如瞳を輝かせ、エリクの懐に一歩踏み込んできたからだ。
「お前、このあとほんとに故郷に帰るだけか? 他に傭兵の仕事が入ってたり、どこかで誰かと落ち合う予定だったりとかは?」
「い、いや、特にそういう予定はないが……年が明ける前には故郷に帰るつもりでいるし」
「じゃあさ、その予定がちょっと伸びるとしたらどうする? つまり帰郷を少しだけ先延ばししないかって話なんだけど」
「え?」
「さっきガル様から届いた指令書にな。君をぜひ陛下に紹介したいから、ガル様が戻るまで必ず引き止めておくようにって追伸があったんだよ。今回の戦の事後処理が済んだら、俺たちは年明けの年賀行事のために黄都へ帰還する。その凱旋にぜひ君も同行してほしいとさ」
「え……えぇっ!?」
エリクは一瞬己の耳を疑いかけ、たったいま聞いたリナルドの言葉を反芻し、そして改めて驚愕した。そんなエリクの反応が可笑しかったのか、ふたりの青年将校は屈託なく笑っている。だが待ってほしい。果たしてこれは笑いごとか?
自分の耳が偽神シャーウに毒されたわけでないのなら、リナルドは今とんでもないことを口にした。一介の傭兵に過ぎないエリクを陛下に紹介すると。
彼らの言う〝陛下〟とはつまり、トラモント黄皇国の絶対君主たる黄帝のことだ。確か現在皇位に就いているのは第十九代黄帝オルランド・レ・バルダッサーレ。ガルテリオは彼を皇太子時代から守り、盛り立て、今では国一番の腹心と謳われていることはエリクも噂に聞いていた。
しかしだからと言ってこんな駆け出しの傭兵を黄帝と引き合わせようとはどういう了見か。まるで意味が分からない。というか正直、分かりたくない。
「い、いや……ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は傭兵としての報酬がもらえればそれで……他のことは一切望んでないし、故郷では妹も待ってるし……できれば将軍のお気持ちだけ有り難く頂戴して、全力で辞退させていただきたいんだが……」
「へえ、お前、妹がいるのか。なら黄都までの道すがら、お前の家族の話も聞かせてくれよ。太陽の村の文化とか暮らしとか、俺たちも興味あるし!」
「い、いやいや、だから……」
「残念だけどな、エリク。俺たち軍人にとって上官の命令は絶対だ。というわけで俺もウィルも、誠に遺憾ながらガル様の命令を遵守しなければならない。ついでに言うと、話を聞いた君が慌てて逃げ出したりしないよう見張っておけというシグ様の命令もな」
「い、いくら何でも横暴すぎないか……!?」
「生憎とこれが黄皇国の気風でね。ま、そう構えなくても大丈夫大丈夫、何も取って食おうってわけじゃないんだから! な、リナルド?」
「ああ。ガル様は今回の君の働きに感謝して、何かしらの褒美が出るよう陛下に掛け合いたいんだそうだ。こんな計らいは滅多にあることじゃない。名誉なことなんだから、そう謙遜せずに喜んで受ければいいと思うぞ」
と、ふたりは笑ってそう言うものの、エリクはだらだらと冷や汗が流れ出すのを止められなかった。彼らはもうすっかりエリクを黄都へ連れて行く腹積もりでいるらしく、どんなに拒んだところで聞き入れられそうな空気ではない。
だが黄帝とはこの国の頂点であり、気安く人目に触れていい存在ではないのではないか。そんな人の御前に連行されて自分にどう振る舞えというのか。
いくらガルテリオの紹介とは言え、何かひとつでも粗相をすれば不敬罪とか何とかで即座に首が飛ぶのでは……? 考えれば考えるほどエリクは全身から血の気が引き、青い顔で立ち尽くした。が、凍りつくエリクの心中など知る由もなく、楽しげにはしゃいだウィルが景気よく背中を叩いてくる。
「ま、そういうわけだからさ! もうしばらくよろしくな! 黄都に着いたら俺たちが街の中を案内してやるよ。行ったことないんだろ、ソルレカランテ?」
「着いたらすぐ六聖日だしな。黄都の新年祭は死ぬ前に一度見ておいて損はないと思うぞ。祝賀パレードに移動劇、聖戦、天燈祭……とにかく派手な催し物がよりどりみどりだからな」
「はあ……」
と覇気のない返事をしながら、行くしかないのか、とエリクは半ば諦めた。
ガルテリオが戻ったら直接抗議してみようとは思うものの、恐らく笑って流されるに違いない。これは腹を括らないとな……と嘆息しつつ、同時にエリクは未だ見ぬ黄皇国の都に思いを馳せた。トラモント黄皇国の皇都ソルレカランテは世界でも稀に見る大発展を遂げた大都市だ。市民の数は百万を超え、その華やかさと美しさは多くの冒険記の中で讃えられている。
かつてこの地を混沌から救った英雄、竜騎士フラヴィオが愛した黄昏の都、と。
(……ソルレカランテ、か)
そこは一体どんな街なのだろう。街の様子を楽しげに話すウィルやリナルドの話を聞いていたら、少しだけ期待が膨らんだ。
かの都はここより遥か東。
日の出づる先、二六〇〇幹(一三〇〇キロ)の彼方だ。




