Ⅱ-iii 雪の中の来客と唐突な旅立ち
雪兎が小屋の中で見つかることはなかった。カイはそのことに少しだけ安堵した。あの雪の帰り道、ずっと抱いて持ち帰った雪兎に、多少なりとも愛着がわかなかったわけではないのだ。そいつの皮を剥いでシチューにして食べるのは、さすがに気が引けた。
冷静になって考えると、どうやってチィは雪兎を捕まえたのだろう。しかし疑問に思っても口に出せる状態ではなかった。師レントはその日から滅多に自室の外に出なくなり、チィとカイもまた、それぞれに修行をする日々であった。
全く顔を合わせないわけではない。少なくとも夕餉の時には三人ともに食卓に着く。しかしながら必要以上の会話が交わされることはない。あの日以来、暖炉がいくら楽しげに炎を揺らめかせようと、三人の間に張り付いた氷が解けることはなかった。
王宮からの使いが来たのはそんなある日のことだった。
カイはシーナ以外の訪問客なぞ見たこともなかったのだが、わざわざまだ雪もちらつく冬の最中にやってくる者があった。師匠は相変わらず部屋にこもりがちだったし、チィでは幼すぎて接待するわけにもいかぬだろうから自然カイが出向くことになるのだが、一目見た印象はあまりよいものではなかった。
「こちらに偉大なる賢者であらせられるレント殿がおわすと聞いたのだが……。」
口調は丁寧なのだが、目が明らかにカイを見下している。うっすら開かれた双眸は冷たく、射抜くようでさえあった。カイはなんだか訳もわからずむっとしたが、最低限の礼儀をもって客を案内した。
男はカイにサーヘルとだけ名乗った。
客は口にこそ出しはしなかったものの、案内された台所にも出された茶にも不満なのが態度にありありと見て取れた。せっかくだからと、冬場では貴重なカイの特製ブレンドティーを出したのに、一瞥しただけで手も触れない。
カイは非常に腹立たしく思いながらも師匠を呼びに言った。
「……師匠、お客さんですよ。サーヘルとかいう奴。」
普通に呼ぶだけでは多分出てこないだろうと思って、外から客の名を告げる。すると聞き覚えのある名前だったらしく、しばらくがたごと中で音がしたと思ったら、不機嫌そうな顔がぬっと現れた。
「本当にサーヘル、と名乗ったのか?」
「はい。」
カイが肯定すると、レントの皺がますます深くなった。そして無言で台所に向かうのであった。
カイが弟子として給仕くらいするつもりでレントの後について台所に入ると、すっかり覚めた茶を前にして、カイが出ていた時と変わらぬ姿勢で座っていた。
「これはこれは偉大なる賢者殿にお会いできて光栄の極みです。」
カイへの態度とうって変わって立ち上がって丁寧なお辞儀をする。レントも礼儀として簡単な礼をするも、不機嫌なのは隠しきれていなかった。
「私は魔帥付魔導師団副長のサーヘルと申します。お父君からはかねがね大賢者殿のお話を窺っております。」
「……そうか。それで今日は何の用事なんだ?そもそもどうしてここがわかった?」
聞いていてカイはおやっと、思った。シーナが訪ねてきた時にはしなかった質問だ。というかシーナがこの場所を知っているなら王宮の他の人間が知っていてもおかしくはないと思うのだが。
しかしカイがその答えを聞くより先に、男はこう言った。
「そうですね、積もる話は山とありますが、お弟子さんがおりますと寛げませぬ。」
そう言って冷たい双眸がカイをはたと見つめる。つまり邪魔だから出て行け、というわけだ。
カイはむっとしたが、師匠に目配せをされてはどうしようもない。仕方がなしに一礼だけすると、大人しく台所を出て行った。
カイが扉を開けて出ると、そこには小さな影がいた。
「チィ、おま……。」
そこまで言って、チィが静かに、と無言で指を当て閉じた扉に耳を寄せるのを見て、やっとカイは立ち聞きしていたのだと気づいた。
カイも気にならないわけがない。現在の政治について疎かったとは言え、レントの講義である程度わかっていたことがあった。レントの父率いる魔帥は、あのシーナと対立する立場にあるのだ。考えてみるまでもなく、レントの王宮での立場は微妙だと思っていたのだが、この小屋への二人の訪問者を比べれば、立つべき場所は明らかに思えた。
耳をつけるとあの男の声が聞こえる。
「そうですね、単刀直入に申し上げましょうか。
お父上はあなた様の力を必要としています。……お父上だけではありません。次期陛下であらせられるジーノ様もあなた様を欲しています。あなた様のお力があれば軍帥の連中なぞ全く必要ありません。……一気に問題が片付くでしょう。」
「……俺に父の望むような魔法の才能はない。それは父自身がよく知っているはずだ。」
はっと、カイは気づいた。レントの父は国随一の魔法使いなのだ。その息子がへっぽこ魔法使いなのでは、一体レントの立場はどうだったのであろう。
そんなカイにお構いなしに、レントの苦悩なぞ知るはずもない訪問者は話を続ける。
「いえいえ、あの戦いで水神を呼び出したことで、お父上はそれまでのあなた様の評価が間違いだったとお認めになったのです。……あなた様も人が悪い。あれほどの魔法が使えるというのに隠しているなんて。しかもそれが周りに知れた途端姿を隠すとは。……余程姫君に情が移ったと見える。」
くつくつと、意味ありげに使いは笑う。姫君、と言えば王の五子で唯一の女、シーナしかあり得なかった。
「……情も何も、俺は下らない後継者争いなぞに巻き込まれたくないだけだ。この山中で静かに暮らすのが望みだ。さっさと帰ってくれないか。」
不機嫌さを露に言い放つ。しかし王宮からの使いがそれで引き下がるはずもなかった。
「……本当にそうですかね?あなたとて姫君が無残に死ぬのを見たくはありませんでしょう?」
「どういうことだ?」
隣のチィが息を呑み、身を硬くするのをカイは感じた。サーヘルの声が低くなる。
「いえね、今のままでは思った以上に姫君とジーノ陛下との争いが長引きそうですからね。苛立ってる者も少なからずいるということですよ。このままでは何が起きることやら……。」
「シーナを暗殺すると、そう言っているのか?」
はっと、カイは息を呑む。カイには見えないが、サーヘルはにんまり笑って否定した。
「いえいえ、勿論私共は王族を手にかけるなどと、畏れ多きこと考えもいたしませぬ。しかしながらこのままの状態が続けばそうなっても無理はないかと……。」
間を置いて、サーヘルは続けた。
「しかしもしあなた様が我々の側に着けば、軍帥も勝ち目がないと悟るでしょうな。そうすれば残るは利に聡い人帥のみ。軍帥が離れれば自然と離れてゆくでしょう。さすれば我々も鬼ではありませぬ。姫君も賢きお方。負けが分かれば命を危うくすることもなく、大人しくなりましょう。」
「……帰ってくれないか。」
搾り出すように、レントが言う。その苦悩に満ちた声だけで、使いの者は満足だったのだろう。
「ええ、今日はお引取りいたしましょう。しかし三日後、またお伺いいたします。」
がたん、と音がして、慌ててカイとチィは扉を離れる。
すぐに男は小屋を出てゆき、再び雪のちらついてきた寒空の下、帰っていった。
カイとチィは台所の扉をそっと開け、祈るようにして固く手を組みテーブルに伏している師匠を伺い見た。
「パパ……ねぇねの力に、なるつもりはないの?」
口を開くのはやはりチィで、レントははっとして台所の入り口に立つ弟子二人を見やった。
「お前ら……聞いていたのか。」
力なく問い質す。チィはこっくりと、カイは多少後ろめたそうにおずおずと頷いた。
レントは溜息を吐き、そして言った。
「俺に……何ができる?あの水神を呼び出したのが本当に俺だったなら、幾らでもやれることはあっただろうよ。……しかしあれは俺じゃない!」
叫ぶようにして、レントは言った。
途端に、不思議なことが起こった。
レントの胸倉が、目に見えない何者かによって掴まれ、そしてその目に見えない何者かは、パーンと小気味のよい音を立ててレントの横っ面を張り倒した。……勢いでレントが飛ばされる。
カイは驚いてその光景を見守っていた。何が何だか分からぬままに、レントはしりもちをついて呆気に取られている。
はっとして、チィを見つめる。するとチィは驚くでもなく、ただひたすらに怒りの形相をレントに向けていた。
「……っざけないでください!」
今までの無邪気なチィとはあまりに違う口調が、その口から出ていた。
「シーナ様が、いつあなたに魔法を使ってくれと頼みました?シーナ様があなたに望んだのは昔から唯一つ、執政官になることだけ!それだって私はあなたにゃ無理だと思ってましたわ!あなたにやらせるくらいなら、私がなってやろうと思ってましたのに……それなのに、あなたは、あなたは……!!」
「……チィ、お前、一体……?」
レントが呆気に取られながらも、戸惑い隠せぬ様子で言う。はっ倒された頬が赤く火照っている。しかしチィはその問いに答えず、ひたすらに怒りをぶつけた。
「私が誰かなんてんなのどーでもいいんです!……ってかほんっとうに、あなたって昔っからそう!無神経で、愚図で、のろまで、へっぽこへたれ野郎のくせして、シーナ様に頼りにされて……!」
幾らなんでも非道い、とカイは思った。現にそのあまりの言われように師匠は傷ついた顔をしている。
しかしながらチィの罵詈雑言は続く。
「そっれなのに、あなたときたら全く――!どうして私がこんな奴に負けなくちゃいけないんですの!?私の方がぜっっったい、シーナ様に相応しいのに、どうして私の力は必要とされないで、あなたなんかが頼られるんですの!?」
小さな肩が、ぜぇぜぇと揺れる。
と、揺れた拍子に、カラン、と音を立てて何かがチィの服から落ちた。円形のそれは、チィがはっとして落ちたことに気づいた時には、真っ直ぐ尻もち着いてるレントのところに転がっていた。レントはそれを拾い上げた。……いつぞやカイがチィに届けた、太陽を中心に雨と風らしきものが描かれ一匹の蛇らしきものがとぐろを巻いて囲んでいる紋章が描かれた、バッジであった。
レントは拾い上げたそれを一目見るなり顔色を変え、気まずそうにもじもじしているチィの顔とバッジとを交互に見ながら、結局チィの顔をまっすぐ見つめて、言った。
「……お前……アズリル、なのか?」
え、と何が何だか分からぬカイが驚きの表情でチィを見つめる。チィはふう、と溜息を吐き、観念したかのように、上を見上げた。
くるくるっと、目まぐるしくチィの体が一転二転する。次の瞬間、すらっとした雰囲気のカイより少しだけ背の高い、とは言えシーナよりも明らかに幼い少女の姿がそこにあった。
驚きでただただ目を見開くばかりの二人だったが、呪縛が解けたように、レントがゆっくり口を開いた。
「……生きて…たんだな……。」
「ええ。」
チィ、改めアズリルが、気まずそうに答える。カイにはさっぱり訳がわからない。
「お前、その姿……。」
「ええ、十年前のままです。私は十年前に死んでから、この姿になったのはたった一度だけ。……成長するはずがありませんわ。」
「……魔法、か…?」
その質問に、アズリルは盛大に溜息を吐いた。その目はあからさまにレントを馬鹿にして蔑んでいた。
「……水神を呼び出したのは、私ですわ。」
「!?……お前が?」
信じられない、という疑惑の眼差しで、レントがアズリルを見つめる。アズリルは元々それが癖なのか、それともチィでいた頃に身についたのか、こっくり頷いて肯定した。
「あなたって、昔っからそう!とんまで間抜けでこの上ないへたれで、」
へたれ、という所にやたら力が込められる。……そこまでへたれと言われる十年前の師匠の姿をカイは見たいとさえ思ってしまう。
「だから私が魔法を使っても、全く気づきもしないで、シーナ様に中途半端に当たったりして……ああ、もう思い出しただけでも腹立たしい!」
事実再び怒りがむかむかこみ上げてきたらしい。眉根が可能な限り最大限に吊り上る。
「あの時、シーナ様がどれだけ心を痛めたか!何の根拠もないのに、あなたはシーナ様につっかかって……!挙句の果てには家出して、どれだけシーナ様が心配したかわかってますの!?」
「……いや待て、お前が水神を呼んだってことは、やっぱりあれはあいつの仕業じゃないか!なんで俺が怒られなきゃならないんだ!?」
いきなり再会することとなった少女に呆然とばかりしていたレントだったが、ようやく事態を把握してきたらしい。……カイ一人だけが置いてけぼりであった。
「そもそも、お前どうして死んだ振りなんてしてたんだ!お袋さん哀しむだろうが!」
「そんなことあなたに関係ありませんわ!あなたが逃げ出したせいで、シーナ様はほんっとうに落ち込んだんですのよ!だから私は、私だけは何があろうと、シーナ様ただお一人の味方だと証明するために……!それなのに結局シーナ様はあなたを必要とするんですわ!」
涙さえにじませて、泣き叫ぶようにして抗議する。……カイには詳しい事情はわからなかったのだが、それでもなんとなく師匠が不憫に感じられてしょうがなかった。
「あいつが俺を必要って……!ちょっと待て、お前がいれば十分だろうが!なんで俺が必要なんだ!?」
確かに言われてみればそうである。あれほど形の違う子供の姿から今の少女の姿へ、呪文も杖も無しにあっさり変わってしまう上、あの水神の魔法を扱ったというのが本当ならば、下手をすれば世界最強の魔法使い、である。そんな魔法使いがこのように泣き喚くほど忠誠を誓っているのなら、特にレントなぞいらない気もする。……師匠のことを尊敬してはいたが、カイは冷静にそう分析した。
しかしアズリルは相変わらず涙を滲ませながら、叫ぶようにして言った。
「だからっ……!シーナ様は、魔法使いではなく、政のできる人間、執政官の器を必要としてるんですの!あなたがなるくらいなら私がなってやろうと思ってましたのに……!なのに、あなたは、あなたは……どうっして魔法はからっきしのくせに、やる気もないくせに、全て持ってますの!?」
「え!?」
心底驚いたように、レントが声をあげた。
カイは以前チィとした会話を思い出していた。――もっとすごい才能持ってるって――あの時チィはシーナが話していたことを話していたが、本人も認めたくないだけで知っていたのだろう。……レントの深すぎる程の知恵を。
しかし当の本人であるレントだけが、それを理解していない。結局自分がへたれだと言う魔法、それしか見ることができていないのだ。
「シーナ様は、あの日、あなたがあんまりにも魔法ができないこと気にするから、偽りであろうとも、自信が持てるようにと、わざとヘル殿下を挑発したってのに……!なのにあなたときたら、そんなシーナ様のお心も知らずに家出なんてして……!」
「ってかそれ俺が悪いのか!?……っ!!だからあいつは嫌いなんだ……!」
ぷい、といじけたようにそっぽを向く。やはり相変わらずあまり訳がわかってないのだが、カイは師匠が哀れに思えてしょうがない。明らかにアズリルの論法は滅茶苦茶なのだが、へたれな師匠は見事に負けていた。――いつも負けてたって――いつぞやのチィの言葉が蘇る。
「まあシーナ様を恨むなんてお門違いも甚だしいですわ!そもそも、あなたが素直にさっさか魔法以外の才能を認めたらよかったんですのよ!」
アズリルのなじりに、レントは一つ、小さく溜息をついた。
「……なあ、お前、どうしてここへ来たんだ?」
レントは疲れたのか、話題を変えた。アズリルは相変わらずかっかした様子で答えた。
「シーナ様の命令ですわ!あなたを執政官になると納得させるか、私が執政官に相応しい学を身に着けるかするまで帰ってくるなって……。」
そこで、アズリルの怒声が止んだ。変わりに、みるみる内に瞳に涙が溢れ、こぼれてきた。両の手の平で、涙をすくうようにして、アズリルは顔を覆った。
「そうよ、だから私は帰れ、ないんだわ!シーナ様に雪兎、持って、帰ろう、って思ったのに……!」
言ってることが滅茶苦茶だ。レントはほとほと困ったように、ぼそぼそと呟いた。
「……結局、いつもあいつの手の平の上だな……だから嫌いなんだ……」
その呟きはアズリルには聞こえなかったらしい。というか、聞こえないように呟いたのだろう。次の瞬間、レントは静かに、しかしはっきりと言った。
「……わかったよ。俺を、連れて帰ればいい。」
アズリルをまっすぐ見つめていた。その瞳を見た瞬間に、カイは理解した。……そうか、師匠は……だからシーナさんはこの人を置いていったんだな……。
はらはらと、涙を流しながら、アズリルは顔をあげた。
「……本当、ですの……?」
レントが、こっくり頷いた。信じられない、という目でアズリルはレントを見つめた。
きっとアズリルのこっくり頷くのは、元からの癖だな、とカイは思った。……そうでなければ師匠にうつるはずがない。
「……もう、逃げ出さん。約束しよう。だから、連れて行けばいい。」
「執政官に、なるんですの……?」
アズリルの表情が、複雑であった。やはり、できることならそのポジションは自分が就きたいのだろう。
その気持ちがわかったからか、それともやはりまだそれだけの自信はないのか、いや、とレントは否定した。
「それは……まだわからん。行ってから、考える。」
アズリルの表情が、奇妙に崩れる。取られない、という安心感と、半分は命令を果たせていない不安感とが入り混じって――。
それでも、結局くしゃりと笑顔になった。……なんだか第三者のカイまで複雑な気持ちである。とにかく師匠が哀れで仕方がない。
「それでしたら、善は急げ、ですわ。早速城に参りましょう。」
そう言った次の瞬間、あっと言う間もなく山中の小屋の粗末な台所は消え去り、いきなり目の前に豪奢な寝台があった。……寝台だけであの狭い台所と同じだけの広さである。
「いやいくらなんでも流石にこれは急すぎじゃあ……。」
呆然としながらも、カイがまごまご抗議する。しかしアズリルは聞いていない。久しぶりに帰れた喜びで胸が溢れていたらしい。
レントはと言えば、驚愕の表情を浮かべていた。
「アズリル、お前、昔からこれだけの魔法を使えたのか……?」
懐かしそうに目を細めていたアズリルの顔が、くるりとレントの方を向く。
「そうですね、幾ら私でも昔でしたらこれだけの距離、自分一人が精一杯でしたわ。ここ十年の修行の成果ですわ。」
「自分一人って……。」
それだけでも十分すぎるほどの魔法である。移動の魔法は距離が増せば増すほど難しい。レントの暮らしていた山は国でもかなりの辺鄙な場所で、王都からは一番離れていたかもしれない。つくづく、アズリルの隠していたその才能が元々桁違いだと思い知らされる。
「……あの修行はふりか……。」
確信を持って呟くと、アズリルは悪びれることもなく言う。
「ふりじゃありませんわ。ちゃんと変化してましたわ。目には見えない、味を色々変えてました。」
そう言ってから、それでもバツが悪そうに、目を伏せた。
「……まあシーナ様に命じられて、魔法のできないふりしてたのは本当です。でもそれは、そうすればあなたが自信を持つと思って……」
「シーナがそう考えたんだろ?別に気にしちゃないさ。」
少しばかり後ろめたそうに言うアズリルの言葉を遮って、レントが言う。その言葉と表情で、アズリルはほっと胸をなでおろしたようだった。
だが実際には、レントの怒りはシーナに向いただけであって、本当に気にしていないわけではなかった。アズリルは気がつかなかったが、カイはその微妙な表情を見て察した。……この状態でシーナが目の前に現れたら、一体どうなるのだろう。
そんな風にカイが考えていたそのタイミングで、部屋の扉が開く。……しかし現れたのはシーナではなかった。
「……っなんだ、貴様ら?謀反人の仲間か城に侵入した賊か……?まあいずれにせよ、罪人には違いないか。捕らえよ!」
「はっ!」
長い衣を垂らした集団が、部屋になだれ込む。
「!?」
「一体どういうことだ……?」
わけがわからずぼんやりしているカイとレントを差し置き、アズリルは一団を一睨みした。
窓も空いてないのに突風が起き、連中振り上げようとしていた手や杖で咄嗟にかばう。その隙にアズリルは二人の手を取り場所を移動した。
次の瞬間三人は薄暗い路地裏にいた。明らかにそこは城内ではなく、アズリルは目を瞑って必死に何かぶつぶつと唱えていた。
「どうした、アズリル?」
「黙ってて!!」
すごい剣幕である。心配して声をかけたレントが、思わず引っ込む。そしてカイと二人静かに見守るしかなかった。
「……ない。やっぱりどこにもいない!レント、あなたもシーナ様の居場所探して!」
「!!わかった。」
「?」
カイには相変わらずわけがわからなかったが、レントは何かを察したらしい。真剣な面持ちで頷いた。しかし……。
「……アズリル、悪いが俺は杖がないと魔法使えないんだ。」
「あーもう、はい!」
明らかに苛立った様子で、アズリルが空中から何かを掴むような仕草をすると、次の瞬間その手にはレントの杖が握られていた。
レントは杖を受け取ると、折りよくあった水溜りに杖を向け、呪文を唱えた。
「セダシツウヲヨシバイノノモノカ!」
しかし水面は、チィを探した時のように白くなるでもなく、変わらぬ姿のままそこにあった。カイはこの数日分かっていたこととはいえそっと溜息を吐かずにいられない。
しかしレントは眉間にさらに深い皺を刻み、アズリルは絶望したかのように「ああ……。」と声を漏らすと、そのまま膝から崩れ落ちた。慌ててレントが横にいき、その肩を持つ。
「……まだそうと決まったわけじゃない。落ち着け、あいつが死ぬタマか?」
静かに囁かれたその言葉に、カイはぎょっとした。そういえば、本で読んだことがあった。……死は絶対のもので、イメージでは覆せないものだから、死者に対する魔法はいかなるものであれ効果を表さない。それはいかな大魔法使いと言えど変わらない――。
アズリルが顔を引きつらせ、叫ぶ。
「でも……!あなたの魔法はともかく、私がシーナ様を見つけられないなんてそんなこと……死んだ以外に考えられません!!」
「落ち着け、アズリル!」
「いや、シーナ様が死んだなんて嫌!!」
髪を振り乱して、暴れるアズリルを、レントは必死に抑える。慌ててカイもレントに加勢するが、どうにも収まらない。
と、パーン、と小気味のよい音が響くと、アズリルの頬に大きな赤い手形が残っていた。
……ああ、これがキスとかなら満点だったのに、師匠。思わずカイは心中で呟く。
そんなカイの心中なぞ知らぬレントは、必死の思いでアズリルに叫ぶ。
「落ち着け!よく考えてみろ!あいつの部屋に来た奴ら、魔導師団だろ?あいつらがシーナの部屋に来たってことは、あいつの行方が見つかってないんだ!しかもあいつら何て言ってた?謀反人、って、言ってたよな?ということはシーナの奴、やむにやまれず姿を隠してる可能性が高い。しかも魔導師団に見つからないような場所にいるんじゃないのか?それならお前の魔法が効かないのは当然だ!」
「でも……どうやって?」
まだ絶望の淵から完全に立ち返ったわけではなさそうだったが、もう暴れることはなかった。とりあえずカイもレントも胸を撫で下ろした。
「そうだな例えば……魔法除けの呪文をかけている、とか?」
途端にアズリルの冷たい視線がレントを射抜く。……絶対零度の視線だ。
「私以外に王国屈指の魔法使いが揃っている魔導師団の呪文をも退けられる魔法使いが、シーナ様についていると?」
「う……心当たりはないのか?」
「ありません。」
きっぱりした回答である。レントは必死に頭を巡らした。
「……竜鱗があるじゃないか!」
「魔物討伐遠征の折は魔導師連中に徹底的にマークされて竜鱗なんて持ち込もうものなら失脚確実でしたわ。国内に竜鱗は皆無です。」
「うっ……。じゃあ、ほら、あれだ、魔除けの粉とか……。」
「そんなん効くのはへたれ魔法使いのへたれ魔法だけです。」
びしっと返されてしまった。……すっかりしょげ返った師匠を見て、先ほどから蚊帳の外のカイも必死にレントをフォローし始めた。
「アズリルさん以外は誰も魔法使いは味方についてなかったんですか?」
その言葉に、何故だかアズリルは遠くを見つめるように目を細めた。
「……いないことは……ないです。だけどあの人は自分は大した魔法は使えないし、今じゃかなり高齢のはず……。」
「誰だ?」
怪訝そうにレントが問うと、アズリルは自信なさそうに答えた。
「私の、師匠です。」
「師匠!?」
レントの素っ頓狂な声に、アズリルはこっくり頷いた。
「それってつまり……アズリルさんに魔法を教えた人、ですか?」
カイが恐る恐る尋ねると、アズリルは肯定した。
「ええ、シーナ様の母君シェーハザード様に召抱えられていた魔法使いです。ご本人はそれほど大した魔法は使えないのですが、人の才能を引き出す才能がありました。」
カイは驚愕した。……アズリルほどの魔法使いを育て上げることのできる魔法使いなら、ぜひ一度会ってみたいものである。
思わずちらり、とカイがレントを見ると、レントは何やら得心したように頷いていた。
「なるほど、シェーハザード様に召抱えられていたということは、当然シャシーの出身だな。」
しかしカイにはわからない妙な得心は、ばっさり切られた。
「いえ、違いますわ。ラカの出身で一時は魔帥にも籍を置いていたそうですが、役立たずと追い出されたそうです。……だからあなたが知らないのも当然でしょう。」
ばっさり切りながらも、ちょこっと入れられたフォローでカイも得心した。確かに、ラカの魔法使いはほぼ例外なく魔帥に籍を置く。その中でもそれほど有能な魔法使いなら、魔帥の一人息子であるレントが知らないはずがないのだ。
「……父もとんだ見当違いをしたわけだ。」
アズリルは久々ににっこり微笑んで、「ええ」と頷いた。
こんな桁違いに強い魔法使いを育てることのできる人間を追い出したのは、当人ばかりが知らぬ深い痛手だったに違いない。ましてやその桁違いに強い魔法使いが、魔帥にとって敵方であるシーナの味方についているのであれば尚更である。
「何はともあれ、行ってみるか、そのお師匠様とやらのところに。ここでぼうっとしていても仕方がないしな。」
「ええ……そう、ですわね。」
カイがアズリルの顔を見、その顔がなんだか沈んでいるな、と思った次の瞬間には、景色は一転、路地裏からある家の一室に変わっていた。
「せめてなんか言ってくれよ……。」
「確かに、心臓に悪いっすよ。」
ぶつくさ文句を言う二人を尻目に、アズリルはさっさと部屋の隅にあった階段に足をかけ、二階へ向かう。慌てて二人もその後を追った。
アズリルは形式ばかりのノックをして、すぐに扉を開けた。
「シグロ様、お久しぶ……」
アズリルの言葉が尻すぼみに消えていく。レントとカイがその後ろからひょいっと覗き込むと、部屋にいたのは若い女が一人きりだった。さすがにアズリルも常識はずれだったと反省し、逸る心を抑えて謝った。
「失礼しました。えっと、シグロ様はご在宅ですか?」
女は突然のことに驚くでもなしに、はて、と首を傾げた。
「さあ、そのシグロだかジグロだかいう人は知らないけど、あんたが『チィ』かい?」
「え、ええ、まあ、はい。」
師の不在に戸惑いながらも、アズリルはこっくり肯定した。そして続く女の言葉で、目を輝かせた。
「頬に傷ある旦那からの伝言、『花屋で待て』、ってさ。ふうん、あんたがねえ……。」
そう言って女はアズリルをじろじろと値踏みするように上から下まで眺める。女からもらった伝言に浮き足立っていたアズリルだが、しばらくすると流石に嫌になったらしい。眉根を寄せて、聞き返した。
「……あの、何か?」
「あんた、旦那とどうゆう関係なんだい?」
女の台詞に、思わず口をあんぐり開けてしまったのは、後ろにいた男二人の方だった。……これではまるで、男を巡る修羅場の幕開けではないか!
しかしながら当の本人はむっとして答えるだけだった。
「あなたに関係ありませんわ。」
つん、とそっぽを向く。女はしばらくそんなアズリルを見つめる。……男二人は何故だか漂うその場の緊迫した空気にはらはらしながら二人の女を見つめていた。そしてその空気は、男二人の安堵したことに、女の漏らした笑いであっさり破れた。
「ふふん、ま、いいさ。私は旦那に入れあげてるわけじゃなしね。ただ旦那が一番大切な人間、とか言うから気になっただけさ――。」
「それ、シーナ様が――!?」
アズリルが、心なしか頬を上気させて、女の言葉に食いついた。……カイはその時、横を向かずとも師匠が最高に不機嫌なのを感じ取っていた。ああ、別の修羅場が始まった……まあ先ほどよかよっぽどまともだからよしとすべきか。
……いやいややっぱりこの状況おかしくないか、と突っ込みたいのは山々だ。だがふと思い浮かべるいつぞやの彼女の姿――それだけで納得できてしまうから不思議だ。
そんなカイのぐるぐるした思考は一瞬の出来事で、次の瞬間には上気したアズリルを女が「しっ」と指をあて牽制していた。
「その名前をむやみやたらに口に出すんじゃないよ。誰が聞いてるかもわかんないからね。あんたたち、状況は把握してるのかい?」
女の言葉にアズリルは悔しそうに首を振った。その様子を見て女は何故だか微笑し、その後ろのレントを見ると、一層微笑は深まった。……一目で三角関係を察したらしい。察したところで、全く何の解決にもならないのだが。
「ま、その辺は花屋で聞くといいさ。私はまだここでやることがあるんで案内できないが、これを持ってくがいい。」
そう言って女がアズリルに放って寄越したのは、大きな真珠のイヤリングだった。留め金のところに中々意匠が凝らされていて、かなりの値打ち物と知れた。
「それを見せれば案内してもらえるさ。」
「あ、ありがとうございます。」
アズリルは突然の成り行きに驚きながらも、嬉しそうに頭を下げ、ぎゅっとイヤリングを握り締めていた。……カイは師の顔を見るのが恐ろしかった。
「行くぞ。」
それだけ言うと、ぷいっとレントは後ろを向き、さっさと階下へ降りていった。カイは慌てて後を追いかけ、アズリルももう一度嬉しそうに女に頭を下げると後を追った。
雑踏へ踏み出した三人、いや、正確には二人と一匹は、足早に人ごみをすり抜けて歩いていた。
「お前もしかして……城にいた時その姿だったのか?」
小声でレントが、腕に抱いた黒猫――その耳にはしっかりと先ほど受け取った真珠のイヤリングが着けられている――に囁くと、黒猫は「にゃあ。」と猫そのままな声で頷いた。
「……にしても、なんで姿変える必要あるんですか?」
カイが尋ねると、猫はすっとぼけたように眠そうに欠伸をした。代わりにレントが答える。
「十年前とはいえ、よくシーナと一緒に城下をうろついてたからな。しかも死んだことになってるんだ。……怪しまれないわけがない。」
レントの抱える黒猫は、肯定するでも否定するでもなく、猫そのままに気ままに毛づくろいしている。……そういえばチィの姿の時も、幼い子供そのままだった。
「だったら見られないようにさっきみたいに直接魔法でシーナさんとこ行きゃいいじゃないですか。」
「いや、それは無理だな。」
「どうしてっすか?」
レントの暮らしていた小屋まで、軽々移動できるほどの魔法を使えるのだ。同じ王都の中にある、『花屋』なぞに移動するくらい、わけないはずである。
「そりゃあ、行ったことない場所じゃあ、どこ出るかわからんだろ。」
「でもそれなら一番近くの人目に付かない場所に出ればいいんじゃ……。」
王都にずっと暮らしていたのなら、しかも『花屋』の一言で通じるような場所ならば、よく知った場所に違いない。それなのにレントが行ったことない、と断言するのは奇妙な気がした。
「一番近くっつってもな。『花屋』は広いし人込みも多い。どんだけこいつの知ってる近くに出ようと、人目につかないわけにゃいかないんだよ。」
ますます奇妙だ。王都の『花屋』ともなるとそんなに大きなものなのだろうか。
カイが首を捻っていると、レントが歩みを止めた。
「ほら、着いたぞ。」
「え――。」
カイは立ち止まり、目の前に広がる見慣れぬ光景に、すぐにレントの言葉の意味を理解したのであった。――地元にそんな施設がなくとも、話にくらいは聞いたことがある。野に咲く草花でなく、年若い春真っ盛りな娘を売る『花屋』――。そう、そこは王国でも最大級の娼館集まる色街、であった。




