44、背徳の天使
学園祭まで、後一週間である。
男は書記の少女を引き連れて、校内を歩き回っていた。というのも、今日からは午後の講義はすべて休校であり、代わりに学園祭の準備となるからだった。
生徒会はこの日の為にいろいろと影で準備を重ねてきた訳だが、おそらくイレギュラーな事態は数多く出てくることと予想される。のんびりとただ歩いているだけに見えるこの二人も、学園の様子を事前に観察して起きるべき事態を少しでも見極めようとしているだけだった。ただもちろん、その間に生徒会室を無人にするわけにもいかないので、生徒会室にやってくる生徒に対しては、生徒会がすっかり甘えきっているボランティアの少女と、副会長の二人を残してあった。
「みなさん楽しそうですね、会長さん」
各クラスの催し物やその詳細が閉じられた厚手のファイルを片手に少女が言った。
「あったりめェだ! 祭りごとだからな! ここで楽しめねェ奴は損するぜ!」
満足そうに頷きながら男が告げる。そしてこのクラスでこれから必要になりそうなものなどを聞いたりして次のクラスへ向かう。
その都度少女は、メモにいろいろと書き込んでいるのだが、男はただ隣にたってそのクラスの人と話をしているだけであった。さすがの男もこれは悪いという気がして、
「少しは手伝うぜ?」
と言葉をかけてみたのだが、
「会長さんが書いた走り書きのメモなんて、私は読みたくないですし読めませんよ。それに私は会長さんが聞き出した話をまとめているだけですから、会長さんにこっちの作業をされると逆にこまっちゃいますよ!」
と冷めた目で言われた。
それは少女が男の体調を思ってのことか、あるいは少女の本心かは不明だったが、男には半分半分といった感じに思えた。
少し前に、男が体調を崩している事を少女は知ってしまった。そしてその詳細について——つまりそれはかなり悪い状態まで進展しており、かつ、もしかしたら治療によって治るかもしれないということまで露見してしまった。その日以来、少女はことあるごとに入院を勧めてきて男は心底参っていた。そしてその心労がつもりたまり、少女の前で再び倒れるという事態に陥って以降は、少女が入院を勧める機会は減って今のように以前と同じような雰囲気で話をしてくれるようになった。
しかし雰囲気は以前と同じなのだが、その言葉の端々には今のように男の身体を考慮した配慮が見え隠れしているのだ。そしてそれは、男にとって嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない感情を抱かせたのである。
「考えごとですか? 会長さん」
気がつけば少女は正面に回り込んでいて、男を見上げていた。
「わりぃ。ちっとぼけっとしてただけだ! うし、次行こうぜ!」
活力的に告げた男に対して、少女は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに普段通りの表情を浮かべた。
「なら良いですよ。では行きましょう! と言いたいですが、私は疲れましたので少し休みます。購買部まで飲み物買ってきますので、会長さんはそこに座っててください」
少女はそう残して男を無理矢理、廊下に作られた息抜きスペースのイスに座らせるとセーラーを翻して去っていった。
ここから購買部まで、往復でだいたい5分くらいかかる。しかし少女は2分くらいで帰ってきた。なんてことない、という表情を装っているが、その額にうっすらと汗が滲んでいるところから見て、男が手持ちぶさたにならないように走っていってきたのだろう。
「ブラックとカフェオレ。どっちがいいですか?」
男の向かいに座る少女。
いつか少女は、諸事情により購買部のイチゴジュースが飲めなくなったから、代わりにオレンジジュースを飲むのだと言っていた気がする。どちらにしろこの少女はかなりの甘党である。
対してこの男は生徒会室で眠気ざましにコーヒーを飲んでいることが多く、ブラックだったりカフェオレだったりする事が多い。
「どっちもてめェの趣味じゃねェな?」
少女が気を使ったのは分かっていたが、少しだけ意地悪をしてみる。
「会長さんに何を飲むかを聞かないで購買部に言ったのは失敗でしたよ。何が飲みたいか分からないから、私が会長さんの趣味にあわせて買ってこないといけませんからね」
「好きに買ってきてよかったぜ?」
少女はムっとした表情を作った。
「そうはいきません! 私は会長さんに買ってくると言って一方的に残してしまったのですから、そこで会長さんを満足させられないような物を買ってくるなど責任問題ですよ!」
分かるような、分からないようなよく分からない理論だった。
「少しでも期待させたのですから、それに応えるのは当然の事です! 私のポリシーですよ!!」
そう断言させると、そうですかと言わざるえないだろう。
「……サンキューな」
棘のある言葉を紡いでいる少女。しかしその裏にある少女の優しさが痛いほど伝わってしまい、男は少しだけ声色を下げた。
「お礼は良いですから、どっちか選んでください」
別に眠いわけではない。なので気分的に言えばカフェオレのほうが飲みたいのだが、そうなればブラックを飲むのは甘党の少女である。
「んじゃ、こっちを貰うぜ」
男は真っ黒なパッケージの張り付けてある缶を取った。
「それではカフェオレは私が貰いますね」
茶色のパッケージの缶をとる少女。その表情が、どこかほっとしたように見えて、男は自分の選択が間違っていなかったことを確認した。
プルタブを起こして喉にコーヒーを流し込む。
苦い。
別段コーヒーが好きかと言えばそうでもないため、男は反射顔が渋くなりそうだったが、それをこらえて飲んでいた。
少女はそれを見て、安心したような表情を浮かべた後にカフェオレを飲む。
そちらは甘いのだろうか?
男はコーヒーを飲みながら、病院でのことを不意に思い出した。
病院で男が目覚めたとき、なぜかこの少女が男の恋人だということで一致団結していて驚いたのだった。当然それは学園でのことを知らない病院関係者が勝手に勘違いしたことだった。誤解を解くために男はすぐに病院側に真実を説明したが、なぜか心は少しだけ残念に思っていることに気がついてしまった。それ以降、不思議とこの少女に目がいってしまうのだ。
優しい少女である。
もしかしたらすべての人に対してそうなのかもしれないが、必要以上に男の心配をしてくれる少女に対して、男に対して好意を向けているのではないかと期待しても、それは仕方のないことだと思うし、逆に男が少女に対して平凡以上に思ってしまうのも自然であろう。
しかし、今の男が。確実な終わりが見えている今の男が少女に向けて良い感情というのは、一体どの程度であろうか?
優しい少女である。
男と親しくなればなるほどに、それは近いうちに大きな悲しみを生み出すことになるだろう。
手にした缶を傾けて、再びコーヒーを飲む。
口の中に独特の苦みが広がっていった。
「……そろそろ行きましょうか、会長さん」
しばらくしてイスから立ち上がった少女は、男へ向けて微笑みかけた。




