第19話 生い立ち
操縦桿からだらりと手が離れ、ルーベンスデルファーは操縦席の中に崩れ落ちた。
パイロットの手を離れた機体は、左に傾きながらゆっくりと高度を落とし始めていた。
「ルーベンスデルファー! ルーベンスデルファー!」
エインゼルは半狂乱で呼び掛ける。
(死なないで! 生きて……)
糸の切れた凧のように、ルーベンスデルファーの戦闘機「ジルヴァー・シュトライプ」はゆっくりと回転しながら落下してゆく。
(ふふふ……落ちろ、落ちろ……)
仕留めたと確信したリディアは悠然と高空を遊弋しながら、ルーベンスデルファー機が地表に叩きつけられるのを見守っていた。
機体の中では、エインゼルがルーベンスデルファーへ必死に呼び続けたが反応はない。制御の効かなくなった「ジルヴァー・シュトライプ」は次第に墜落の度合いを速めてゆく。
エインゼルの視界に地表が迫って来た。
(もう……駄目……)
エインゼルは泣きながら水宝玉を見た。自分の到着を待ちわびているフェリーリラ王国の人々に、彼女は心の中で詫びた。
(フェリーリラのみんな、ごめんなさい。みんなの命を繋ぐ水をとうとう届けられませんでした……)
死を覚悟したエインゼルは、ふと、この水宝玉が届かなかった故国はどうなるだろう……と思った。
きっと誰もが喉の渇きに耐えかねて地獄の苦しみを味わい、喉を掻きむしって死んでゆくだろう……親は子を守ることも出来ず、子は親をかばうことも出来ずに。小さな子も、何の罪もない赤子も、誰も彼も……
(いいえ、駄目!)
ふいに、彼女は激しく頭を振った。
(そんなの絶対に駄目! このまま死んだら、みんなが……みんなが……!)
(死ぬわけにはいかない! この空をなんとしても生き抜いて……!)
エインゼルは後部座席からよじる様にして身を乗り出し、操縦席へ手を差し伸べた。どこもかしこも血でぬるぬるしている。
彼女は涙をボロボロこぼしながら、うなだれたようなルーベンスデルファーの頭部に触れ、そっと揺り動かした。
いま彼女に出来ることは、もうそれだけだった。
「ルーベンスデルファー。生きて……生きて……お願い……」
ふいに身体がすうっと軽くなった。
落下していた機体に浮力が戻ったのだ。ハッとして外を見ると、翼の後部にあるフラップが動いていた。
「ああ、生きる……その水を……届けるまで……は……」
操縦席を覗き込むと、意識を取り戻した血まみれのルーベンスデルファーが操縦桿を抱きかかえるようにして機体を制御していた。
「ルーベンスデルファー……」
エインゼルは、わっと泣き出した。
「死なないぞ、俺は……誓ったんだ……貴女に……」
咽び泣きながらエインゼルは何度もうなずいた。失速していたルーベンスデルファーの戦闘機は、意識の戻った彼の手で制御を取り戻した。少しづつ翼が風を捉え、墜落から次第に立ち直ってゆく。
(チッ、死にぞこないが!)
傷ついた獲物へトドメを刺すべく、上空で遊弋していたリディアが再び襲い掛かる。ルーベンスデルファーは傷ついた身体にむち打ち、機体をリディア機に無理やり向けると機首の全武装を開いて反撃した。
(!!)
狙いなどつけてはいなかったが、激しい銃火の威嚇に一瞬怯んだリディア機を掠めるようにしてルーベンスデルファー機はすれ違った。
しかし、重傷を負ったまま到底空戦など出来るはずがない。彼はそのままそこから離脱を図ろうとした。
(馬鹿め、逃がすか!)
すぐにそうと察したリディアは、自機を旋回させて後を追う。
出血が止まらず気力だけで操縦するルーベンスデルファーをエインゼルは、後部座席から見ることしか出来ない。
(私に出血を止める魔法が出来たらいいのに……)
エインゼルは自分の無力さを呪った。魔法どころか手元には包帯もガーゼもない。めそめそ泣くことしか出来ない自分が悔しくて仕方なかった。
後方から銃弾が何度も機体を掠めてゆく。リディアが嬲るようにルーベンスデルファー機にダメージを与え続けているのだ。
対するルーベンスデルファー機は後方へ反撃する武装を持っていない。撃たれるまま回避し少しづつ敵を引き離してゆく以外、為す術がなかった。
「ルーベンスデルファー、ルーベンスデルファー……私に何か出来たらいいのに……こんなとき何の役にも立たないなんて……ごめんなさい」
朦朧として途切れそうなルーベンスデルファーの意識を、エインゼルの声だけが支えている。
「話し掛けてくれ……」
「え……?」
ルーベンスデルファーが落下するように高度を落とすと、かわした機銃弾の束が風防ガラスの上を通り過ぎていった。
「操縦しているだけだと、気を失いそうなんだ……何でもいい、話をしてくれ」
「は、話を……で、でも私、何の話をしたらいいの?」
「そうだな……」
前を向いたまま、ルーベンスデルファーは血だらけの顔に小さな笑みを浮かべた。
「貴女の話を聞きたい」
普段だったら恥ずかしさで自分のことなど語れなかったかも知れない。
だがこのまま撃墜されたらお互い死ぬだけなのだ。この期に及んで、もう恥も照れくささもなかった。
「私は……」
後ろのロシア機は相変わらず追尾を続けている。こちらの隙を伺っては銃撃を浴びせた。たまに一、二発ほど命中することもあるが、ルーベンスデルファーは動じない。
追われる機上で、エインゼルは身の上を語り始めた。
「私は……みなしごです。親の顔は知りません。生後まもなく川辺に捨てられて、落ちて溺死しかけたところを行きずりの人々に救われたのだそうです。そして孤児院に引き取られました。ああ、こんな時にこんな下賤な身上話なんて……もっと別の話を……」
「貴女は下賤ではない」
ルーベンスデルファーはドイツ人特有の強い言い回しでエインゼルの言葉を否定した。
「下司な人間が祖国を救うために生命を掛けたりなどするものか」
「……」
ルーベンスデルファーは既に知っていた。見た目こそ脆く弱々しいが、この少女の心の奥にはドイツ軍人ですら及ばない、気高い信念があることを。
エインゼルは思わず胸を押さえた。
胸が痛い。前にも感じた快い心の痛み。
この青年に抱いている自分の気持ちが紛れもなく恋なのだと……彼女はもう認めざるを得なかった。
「続けてくれ。聞きたいんだ」
こんな時だったが、エインゼルの声には想い人に自分を知りたいと言われた嬉しさが滲んでいた。
「孤児院には私のような子供がたくさん暮らしていました。親切な修道女が何人もいて……それからは食べ物も困ることもなく、雨風に晒されることもありませんでした。孤児院は学校も兼ねていて、みんな一緒に勉強もしました。親がいない寂しさに泣く子がいると、必ず翌日に王様とお妃様がいらして慰めて下さいました」
「国王が?」
「はい、フェリーリラ王国に生まれて親のいない子はすべて国王陛下が父、王妃が母になって下さるのです。お忙しい公務の時間を割いて来て下さり、私のような子に『父はここにおるぞ』と泣いて下さる陛下や『お母さんはいつでもそばにいますよ』と抱きしめて下さる王妃様をずっとお慕いしておりました。食べ物も着る物も、学校もすべてフェリーリラの人々の税金や寄付で賄われているのだと教えられ、私にとってフェリーリラという国そのものが家庭でした」
「そうか、だから……」
ルーベンスデルファーは、この少女がフェリーリラの為に生命を投げ出した理由が分かった気がした。
「ある日、陛下に連れられてロゼリア姫が孤児院に慰問に来られました。ロゼリア様は一六歳になったばかりでしたが、陛下から容姿の似た子がいると聞かされ私に会われるのをずっと楽しみにされていたそうです。そして私と親しくお話されて数日後に、侍従長の方から私へ侍女として姫にお仕えする気はないかと尋ねられまして……ルーベンスデルファー?」
「ああ、聞いている。続けてくれ……」
後ろからリディアの戦闘機の機銃が咆哮する。ルーベンスデルファーは蛇行するように見せかけて急上昇し、回避した。
致命傷をなかなか与えられず、追い詰めているはずのリディアの表情にようやく焦りと苛立ちの色が浮かんできた。
「ロゼリア様は私を妹のように可愛がって下さりました。姫様は病弱で親しいお友達もおらず、ずっと寂しい思いをされていらしたのです。私は心からお仕えいたしておりました。でも、姫様はいつも従僕ではなく本当の妹のように私のことを……」
「……」
「そんなある日、姫様の美貌を聞きつけたセント・ラースロー帝国から縁談が申し込まれました。あの大国相手に拒否など出来るはずありません。どうしたものかと苦悩される国王陛下に、ロゼリア様は自分は喜んで嫁ぎますと言われました。なのに……」
エインゼルの顔は悔しさに歪んだ。
「縁談を申し込んだ癖に、セント・ラースロー帝国からはお迎えすらありませんでした。国王陛下は護衛の近衛兵を付けてロゼリア様をお送りされるつもりでいらっしゃいましたが、ロゼリア様が入国した先で揉めることになってはと心配され、自分ひとりだけで行かれると言われたのです。私はロゼリア様と離れたくない一心で必死にお願いし、ついてゆくことを許されました。だけどセント・ラースローへの旅の途中、姫様のご持病が急に悪くなられて……」
思い出したエインゼルの口から抑えきれなくなった嗚咽が漏れる。ルーベンスデルファーは「すまない、辛いことを思い出させてしまったな……」と謝った。
「エインゼル……もうそれ以上……言わなくていい」
「いいえ、ここまで語ったのです。最後まで聞いて下さい」
主君でもあり姉のようにも思った人のことを想い人に知って欲しいと、エインゼルは涙ながらに続ける。
「ロゼリア様は止めましたが私は魔法を使ってしまいました。でもロゼリア様のご病気はもう、よくなりませんでした。もう、魔法でも救えないほどになってしまっていたのです。もう一度魔法を使おうとするのをロゼリア様は必死に押しとどめられて……」
「……」
「では私がロゼリア様に成りすましてセント・ラースローへ行きますから心配なさらないでと申し上げたら、ロゼリア様は私が不憫だと言われてお泣きになって……私はお姉さまが少しでも幸せになって下さることが私の幸せなのですと申し上げたら……ロゼリア様は微笑まれて……」
「……」
「お姉さまと呼んだのはあのとき、一度きりでした。ルーベンスデルファー、聞こえていますか?」
「ああ」
「私は……こんな身の上です……」
そうか、とルーベンスデルファーは独り言のようにつぶやいた。
血塗れのその顔に満足そうな表情が浮かぶ。
「そうか……俺は……そんな貴女の国を救うために……今、飛んでいるのか……」




