【1】 夜明け前、眠れぬ者たち
――一年後。
女は、首都高速から中央自動車道に乗り継いだ。
都会はまだ、眠りの中にある。
車の時計は、午前四時三十分を指していた。
――ここから『25時間』。
三十人の絶望と恐怖の、一日が始まる。
――◇――
バラード調のカセットが、静かに低く流れる。
空には、白けた月がかすかに残っていた。
相模湖を左手に、白いポルシェが滑るように走る。
夜は少しずつ薄まり、灰色の空が、淡く色づいていく。
女は右手を伸ばし、助手席のバッグからサングラスを取り出した。
アスファルトの継ぎ目を踏むたび、車体がコトリと小さく揺れる。
松本方面へ――。
ポルシェ959のターボ音が、朝の静けさを切り裂いていた。
(……まったく、どういう仕事の入れ方してんのよ)
疲労は、目の奥にじわじわと滲んでいた。
昨夜の収録が終わったのは、午前二時。
西麻布のマンションには戻らず、
テレビ局の控室の長椅子で二時間ほど横になっただけだった。
化粧も直さず、朝焼けを追うように――車を飛ばす。
白鳥碧。二十五歳。
今、もっとも勢いのあるフリーの女性レポーターである。
――◇――
切れ味鋭い話術に、瞬発力のある頭脳。
長く伸ばしたストレートの黒髪、きりっとした目元。
端正な顔立ちと華やかな容姿を武器に、
ニュース番組から観光CM、
情報バラエティまで引っ張りだこ。
とりわけ京都観光のCMで見せた“紅葉の中の笑顔”は、
多くの視聴者の記憶に焼きついている。
だが、それだけではない。
学生時代には陸上短距離で全国大会まで進出。
驚異の瞬発力と体力を備えた――まさに「跳ばす女」だった。
(……それなのに、過労死コース?)
疲れと苛立ちが、じわりと目の奥を刺す。
(マネージャーも事務所も……私を過労死させる気じゃないの)
碧は、散らかったダッシュボードに手を突っ込み、
煙草の箱を探った。
セカンドバッグに入っていた分は、
府中を越えたあたりで吸い尽くしてしまっていた。
(……あった)
潰れかけの箱がひとつ、指先に引っかかる。
中には――一本だけ。
マニキュアを塗った細い指が、シガーライターを押し込む。
碧は最後の一本をくわえた。
潰れた箱は、そのまま後部シートへ放り投げられる。
――◇――
煙草に火を点ける。
流れる景色を見ながら、遠くに視線を投げた。
三ヵ月間、休みらしい休みはない。
満足に眠った記憶すら、おぼつかない。
カセットテープを止め、FMに切り替える。
――パッ。
軽快なラテン調の音楽が流れ出した。
――◇――
煙草を灰皿に押しつける。
窓を全開。
ゴォォォッ!
灰が舞ったが、気にも留めない。
冷たい風が一気に吹き込み、黒髪が宙を泳ぎ、頬にまとわりつく。
左手を開き、窓の外へ突き出した。
時速百キロの風が、手のひらに鋭く叩きつけられる。
腕が後方へ押し返される――それでも、前へ。
前へ。
数度繰り返すと、風が車内へ冷気を送り込んでくる。
七月初旬の早朝。
まだ冷たい、だが寒くはない。
頭が冴えていく。
眠気が薄れていく。
眠れぬ女騎士の――小さな儀式だった。
――◇――
少し走ると――
【談合坂サービスエリア:二〇〇メートル】
左上の案内板が視界に入る。
碧はウインカーを点け、左車線へ。
やがて分岐路が迫り、ハンドルを切った。
白いポルシェは、滑り込むように停車する。
――◇――
まだ朝は早い。
広い敷地には大型トラックばかりが目立ち、乗用車は数えるほど。
静けさの底に、かすかな寒気が漂っていた。
碧は車を降り、トイレへ向かう。
ヒールの足音がタイルにカン、と響く。
鏡の前でサングラスを外す。
映ったのは、覇気を失った自分の顔だった。
――◇――
用を済ませ、自販機で缶コーヒーと煙草を買う。
ちらりと前方に目をやる。
革ジャン姿の男たちが、古いハーレーの横で談笑していた。
二、三人の視線が、こちらを追ってくる。
サングラス越しに、それを感じ取る。
含み笑いの角度。
――ああいうのは、経験上ろくな目に遭わない。
視線を戻すことなく、歩調も変えず、その前を通り抜ける。
サングラスをかけていても――
やはり、その容姿は目を引くのだろう。
「ちょっと……」
一人が追いかけてきて声をかける。
碧は無視した。
「ちょっと、待てって!」
足音。息遣い。
次の瞬間、缶コーヒーを持った腕を、背後から乱暴につかまれた。
――碧は振り返る。
小柄なリーゼントの男。
どう見ても二十歳前後。
ガムを噛みながら、ニヤついた顔で碧を覗き込む。
「あんた一人かい?
先輩たちがさ、方向同じなら一緒に走っていかないかって」
視線の先――背後に仲間たち。
碧はちらりと見やり、黙って腕を振り払う。
そのまま背を向けた。
……が。
白いワンピースの肩に、乱暴な手が伸びてきた。
「待てよ!」
怒鳴り声。肩が強引に引き寄せられる。
バシンッ!!
碧の右手が、電光のように走る。
頬を打ち抜かれた男は、二、三歩よろめいて後ずさった。
乾いた音が、早朝の空気を裂く。
静けさが弾け、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。
碧が踵を返そうとしたところで、また腕が肩を掴んだ。
今度は、怒りに任せて強く。
「てめぇ……!」
怒鳴り声。拳が振り上がる――そのとき。
後ろから、その手を掴んだ者がいた。
黒の革ジャン。黒のブーツ。
全身を黒で統一し、黒いフルフェイスを被った男。
身長は百八十を超え、筋肉質な体つきが革越しにも見て取れる。
ガムを噛んでいた男は、碧の襟首を掴んだまま振り返った。
「あんた、威勢がいいね」
フルフェイスの男は、掴んでいた拳をゆっくりと放す。
「若、なんで止めるんですか。俺は、こいつに殴られ――」
――バシンッ!!
言葉より早く、鋭い音が空気を裂いた。
フルフェイスの平手が、ガム男の後頭部を容赦なく叩きつける。
ぴゅっと、ガムが飛び出して路上に転がった。
「痛たたたっ!」
男は碧を放し、腰を折って両手で頭を庇いながら蹲る。
「うちの若いもんが、世話かけたな」
フルフェイスはそう言い、小柄な男の襟首を無造作につかむと――
そのまま引きずるように後ろへ歩き出した。
――◇――
碧はその場に立ち尽くした。
ようやく顔を上げる。
……だが、周囲の視線がまだ自分に突き刺さっているのを感じ、
すぐに目を伏せた。
言葉もなく踵を返す。
足早に、車へと走った。
(まったく……わたしって、何をやってるんだろう)
後悔が胸を掠める。
寝不足と疲れが、心の余裕をじわじわ削っていた。
――◇――
車に戻ると、すぐさまエンジンをかける。
ブォン――!
一刻も早く、この場を離れたかった。
シートベルトを引き寄せ、ローに入れる。
アクセルを踏み込む。
ポルシェは、鋭く前へ飛び出した。
――◇――
本線へ戻る途中。
車線脇に、十数台のバイクが固まって停まっているのが見えた。
碧は目線をやり、眉をひそめる。
(……暴走族?)
その中で――。
先ほどのフルフェイスの男が、一際大きなバイクに跨っていた。
片手を上げる。
黒いヘルメットの奥の表情は、見えない。
碧は、そのバイクの脇を無表情で通り過ぎると、本線へ走り出した。
――◇――
彼女はまだ知らない。
ここからの“25時間”が、人生で最も長い日になることを――。




