06 : それだけは、確かなこと。
シィゼイユが薬師として見せるその姿に、意外性を感じつつ納得ができた。
この人は悲しいことを、寂しいことを、考えないようにしている。
それは故意にしていることだ。
だからシィゼイユは微笑む。常に、誰に対しても、どこででも。
だから誰も知らないのかもしれない。
ふとした瞬間に見せる、陰った横顔を。
いったいなにが、シィゼイユにそうさせているのだろう。
「……シゼさま」
ギアにはわからない。ギアが憶えている思い出の中に、シィゼイユのそれを知る手掛かりはまるでない。
わからなくて、悲しくなった。
「? なにその顔」
「え?」
「途方に暮れたような顔しちゃって……そんなに仕事したい? 魔導師って、どうしてそんなに緑が好きかな」
ギアの表情は、どうやらシィゼイユには「王城に戻って次の仕事へ行きたいと思っている」と捉えられたらしい。確かに仕事は気になるが、それと同じくらい、シィゼイユのことが気になって仕方ない。いくら魔導師に唯一許されたものだとしても、考え過ぎだと思うくらいに。
「どうしたらいいのか、わからなくて……」
「なにがわからないの?」
「その……どう言えばいいのか」
「うん? 言葉にできないってこと?」
確かに、言葉にできない。言葉にし難い。どうして悲しい顔をしているのか、とシィゼイユに問うても、今この瞬間も微笑んでいるシィゼイユに、その言葉がどんなふうに伝わるのかわからない。そもそも、訊いてもいいものなのかさえ、ギアにはわからない。
「……ねえ、ギア」
「はい」
立ち止まって振り返ったシィゼイユが、じっと、ギアを見つめてくる。うっかり見惚れてしまったのは、シィゼイユのその姿が、とても好きだと思ったから。
ああ、わたしはこのお人に恋をしている。
改めて、そう自覚する。
どこから溢れてくるのかわからないいとしいと想う心に、胸が締めつけられる。
「仕事のことを考えているわけではなさそうだね」
「あ……え、と」
「そうか……うん、そうだね」
「? シゼさま?」
「もうそろそろ、いいよね」
なんのことか、ギアにそれを話すことなく自己完結させたシィゼイユは、にこっとギアに微笑みかける。
「行こうか」
「? はい」
促されて、一歩を踏み出すと、シィゼイユの手がギアの手を取った。
「! し、シゼさま」
吃驚しても、シィゼイユの手が離れていくことはない。むしろ引っ張られて歩くことになった。
「シゼさま、どこに……もう帰るのですか?」
ずんずんと歩くシィゼイユは、ギアを引っ張りながら今来た道を戻っている。今日の往診は少ないと聞いているが、それでもまだ四件ほどしか回っていなくて、いいのだろうかと少し不安になる。シィゼイユの薬を待っている人たちが心配だ。
「シゼさま、あの、往診がまだ、残って……っ」
「往診が不定期だというのは承知してもらっているから、だいじょうぶ」
「で、ですが」
「必要なところにはもう行ったからね、心配はない」
だいじょうぶだよ、と繰り返したシィゼイユは、真っ直ぐ家に向かう。
ギアが戸惑っているうちに、家には辿り着いてしまった。
「さて行こう!」
「えっ?」
ここからさらにどこへ行こうというのか。
荷物を家に置いたシィゼイユは、その背にばさりと、真っ白な翼を出した。久しぶりに見る、シィゼイユの一対の翼だ。思わず見惚れてしまう。ここまで真っ白な翼は、血が濃いとされる王族の翼種族でもそういない。
「わたしは夜目が利かないから、明るいうちに行かないとね」
「あ……え?」
うっとりと見とれていたら、不意にシィゼイユの腕が腰に回り、引き寄せられた。
「し、シゼさま?」
「さあ掴まって。風の力で補助してくれると助かるかな。早く移動できるからね」
力を貸してくれ、と言ったシィゼイユは、そのままギアを抱え、翼を動かした。
ふわりと、身体が浮く。
慌てて詠唱し、風をシィゼイユの翼に集めた。
「あの、わたし、自分で」
「いいから掴まっておいで」
「でで、ですがっ」
いったいなにが起こっているのかと、そう理解する前に、シィゼイユは翼を羽ばたかせ、空へと舞い上がる。ある程度の高さまで登ると、徐々に速度をつけて飛行し始めた。
「シゼさま!」
「ちゃんと掴まって、ギア。落としちゃうよ」
いっそ落とされたい。こんなに近いシィゼイユの体温に、感じ入っていられるほどギアの心臓は強くないのだ。
「おろ、下ろして、くださ……っ」
「この高さから落ちたらさすがのギアも大変だと思うよ?」
「わっ、わたしは、風詠の魔導師ですっ」
「古来の風読み一族チェリング、その知識を疑うわけではないけれど、飛行に関してはたぶんわたしら翼種族のほうが長けているよ?」
それはそうだが、身体と身体の距離が、近過ぎるのだ。ばくばくと高鳴っている鼓動が、いつシィゼイユに知れるともわからない。掴まってと言われても、そんなこと、ギアにできるわけもなかった。
いっそ落とされるか、気絶してしまいたい。
「うー……っ」
「なに緊張してるかなあ? 昔はよく一緒に飛んだじゃない」
幼い頃は、子どもだったから素直だったのだ。シィゼイユといられるだけで幸せなのは今も同じだが、昔のように「嬉しい」と「幸せ」だと、明け透けにはいられない。それくらい、おとなに成長してしまった。
「まあ、いいか。わたしがしっかりと捕まえておけばいいからね。少し速度を上げるから、目を閉じておいで。乾いちゃうよ」
ギアの気持ちなどばっさり無視してくれたシィゼイユは、ギアの頭を胸に押しつけて、これまたギアを硬直させる。頭上で苦笑する声を聞いたが、ギアにはそれどころではなかった。
そうして飛び続けること数時間、ひたすらギアはシィゼイユに心内を知られないよう必死に隠し、一方でシィゼイユの穏やかな鼓動に耳を傾けていたわけだが、やはり足が地につくとほっとする。すぐにシィゼイユから離れた。
しかし。
「まだだよ、ギア」
「へ……?」
シィゼイユがギアと共に降り立ったのは、王城の中央、つまり女王たるユゥリアを中枢にした者たちが働く場所だ。皆が執務中なのであまり人気を感じないが、それでもいくつかの視線はある。そんなところにシィゼイユと降り立ち、あまつさえ、手は握られたまま。ギアには赤面ものだ。
「うーん、と……姉上はあっちかな」
「姉……え、陛下?」
「先に報告しないと、次々持ち込まれそうだからね」
「ほ、報告? 持ち込まれ?」
なんのことか、さっぱりである。
早口に述べたシィゼイユは、辺りをきょろきょろしながら宮に入り、廊下を歩いて行く。ちなみに手は、ずっと繋ぎっぱなしだ。
ああどうしよう、なにが起きているのだろう。ギアの頭は混乱に陥り、破裂寸前だ。
「あーねうえーぇ」
「ん? あら、シゼ?」
「お久しぶり、姉上」
ああどうして、こんなことに。そう思ったところで、もはや手遅れだ。シィゼイユは今代王陛下、ユゥリアをあっさり執務室で捕まえた。
「中至の祭り以来ね、シゼ。こんなに早く来てくれるなんて……あら?」
女王陛下が、シィゼイユに引っ張られて連れてこられたギアを見つけ、美しい蒼の双眸を真ん丸にする。
「随分と懐かしい組み合わせ……いったいどうしたの?」
「あれ? 姉上、ギアを知ってるんですか」
「あなたたち、昔は一緒に遊んでいたじゃない」
「一時のことですけど?」
「あなたが誰かと遊ぶなんて珍しかったから、よく憶えているのよ」
「あー……わたしはひとり遊び専門ですからね」
「友だちなんて、ロザヴィンくらいしかいなかったでしょ」
「ロザは弟みたいなものですよ。今はああですけど、昔はすっごく可愛かったですからね。女の子みたいで」
「それ、本人に言ったら怒るわよ。シャンテもね」
「シャンテは弟大好きですからねえ。じゃ、なくて」
「なぁに?」
姉弟らしい会話をしていたシィゼイユだったが、唐突にギアを、ユゥリアの前に引っ張り出した。え、とギアは驚き、その事態に硬直する。
「風詠の魔導師ギア・チェリング。わたしがもらいますよ?」
その宣言は、ギアを思い切り、驚かせた。それは息が止まるほどの、驚愕だった。
「あら、あら……なに、あなた、いたの?」
「いましたよ。言うと面倒なことが起こりそうだったから、黙っていただけです」
「わたくしには教えてくれてもよかったでしょう」
「もう一度言います。言うと面倒なことが起こりそうだったから、黙っていただけです」
「それでも、よ」
「面倒ごとは嫌いです」
「横着ね」
「あなたという姉を持つ弟ですからね」
そういうことですから、と言ったシィゼイユは、固まるギアの頬をそっと撫で、現実に引き戻す。
「……シゼさま?」
「うん。今の、聞こえたよね?」
「は……はい」
「きみ、今日か明日あたりから、ギア・チェリング・ホーンだから」
「は……?」
「わたしはシィゼイユ・ホーン。漸くユシュベルの名から解放されるわけだ」
なにを言われているのか、理解には、まだ追いつかない。
「……、え?」
確認するように瞬きをして首を傾げれば、見惚れるほど美しく、シィゼイユは微笑んだ。それは悲しそうな横顔からは想像できないほど、艶やかで偽りないものだった。
「よろしくね、奥さん」
呆然と、ギアはシィゼイユを見つめる。
なぜこんなことになっているのか、ギアは未だ理解できていないが、シィゼイユが突拍子もないことを言った、それだけは確かなことだった。




