05 : それだけは、変わらない。3
どうして、こんなことに。
なぜ、こんな状況に。
なにがどうなって、こうなったのだ。
そんな、混乱の常套句である言葉をぐるぐると頭に巡らせながら、ギアは内心冷や汗を流しながらシィゼイユの目の前で朝食を摂っている。美味しそうな麺麭の香りは、しかし目が覚めた一瞬にしか感じられず、口に運んでいる今はもう味などわからない。
わたしはどうして、ここにいるのだろう。
昨夜はそう、イチカに夕食をご馳走になった。イチカの恋人アサリが働く大衆食堂は、これが意外にも絶品でギアの胃の腑を満足させた。
そのあとだ。
ギアの思い出の人、おそらくは初恋の、そして今もなおとても大切に想い、心の奥底に秘めている人が、食後の席に現われた。王都に帰るギアを心配し、宿泊地を提供し、酒を勧められたのはもう昨夜のことになる。つまりそれは、ギアが提供された宿泊地に泊まり、眠る前には酒を飲んだということだ。
「……ギア」
「は……はい」
「二日酔い?」
「失礼ながら、そのようです」
記憶がないのであればよかったのだが、残念ながら鮮明である。むしろ弱いという自覚がある酒を飲んだのにも関わらず、緊張のあまり酔いが回らず、眠気もこず、二日酔いというより寝不足であるといったほうが、今のギアには正しい状態だ。
「それなら食が進まないのも仕方ないけれど……ちょっと待ってね、今薬を持ってくるから」
「え、あ、いえだいじょうぶです」
「いいから。わたしは薬師だよ? こんなときこその薬師でしょう」
ギアを心配してくれたシィゼイユは、朝食の席を立つと隣室に姿を消す。すぐに戻ってきた彼の手には、小さな薬壜があった。無色透明のその薬は、ギアが飲んでいたお茶に数滴、垂らされる。
「胃の腑を調整してくれる便利な薬だよ。味も匂いもないから、こうして飲みものに混ぜて使うんだ。だいじょうぶ、大量に入れない限り毒にはならないから」
毒ではないから、とは、つまり毒にもなるということだ。それには少し恐怖を覚えるが、たとえばシィゼイユに殺されるための毒なら、ギアは喜んで口にする。
「申し訳ありません……」
謝りつつ、ギアはお茶を口に含む。シィゼイユが好んで飲むラハルの茶は、すっきりしていて渋みがほとんどない。これを蜂蜜で少し甘くしたものを、シィゼイユは常飲している。
昔と変わらないな、とふと思った。今も昔も、変わらないことがあるなんて、なんだか少し嬉しい。
「酒に弱かったんだね、ギア」
「ええ、まあ……」
「あんまり飲まないの?」
「自分から進んで飲むことは、まずありません。得意ではありませんから」
「美味しいのに勿体ないなぁ」
「そういうシゼさまは?」
「わたしはひとりで月見酒。この村での娯楽って、それくらいだからね。まあ十分だけど」
ひとりで飲む酒もまあまあ美味しいよ、と微笑みながら、シィゼイユは朝食の皿を綺麗にしていく。ギアも少しは食べなさい、と言われて、齧ってしまった麺麭だけは食べきった。
「イチカくん並みに小食だな……いつもはもうちょっと食べる?」
「これに生野菜を少し……」
「偏食」
「すみません……」
「朝はしっかり食べないと、頭が働かないよ。そうでなくても魔導師は忙しいんだから、体調は万全にしておかないとだめだろう」
「……ごもっともです」
「まあ、弱いのに酒を飲ませたわたしが悪いか。仕方ない。わたしのほうから師団長に連絡するから、もう一泊してくといいよ」
「は……はいっ?」
説教を甘んじて聞いていたが、聞いてはいけない言葉を聞いてギアは慌てる。
「だいじょうぶ。師団長とは連絡手段があるんだ。あと……そうだなあ、ついでだからイチカくんみたいに休暇申請したらどう? 外回りって、休む暇もないでしょう」
「いえ、すぐに王都へ帰ります。報告書の提出もありますし、次は北方へ行く予定なので、支度に時間が」
「はいはい、仕事ばかの魔導師さん、たまには身体を休ませましょうね」
「シゼさまっ」
「聞かないよー」
なにをばかな真似を、と思ったが、本当にシィゼイユはギアの断りを聞かなかった。終えた朝食の片づけを始めたシィゼイユは、ギアが後ろでこれからの予定を述べているのに、相槌もしなければ頷きもしない。
「あ、そろそろ往診の時間だ。ギア、手伝って」
「え?」
口をきいてくれたかと思ったら、片づけを済ませてすぐ移動を開始したシィゼイユは、隣室にギアを呼ぶ。
「こっちこっち。その棚から赤と透明の薬壜を二つずつ、すぐ下の棚から紙袋を一つ、取ってくれる?」
「あ、は、はいっ」
「それをこの鞄に入れて。あと机にある薬壜も全部、持って行くから鞄に」
隣室は薬師であるシィゼイユの調合室のようで、慣れない匂いが鼻を突く。その中で、あれこれ指示されて薬や道具を鞄に詰めた。気づけばもう外に出ている。ギアは荷物持ちと化していた。
「し、シゼさま」
「足許に気をつけて。ロザに少しずつ土地を作ってもらって、人が住めるくらいにはしたけど、ロザは調整術が上手くないからね」
「……雷雲?」
シィゼイユが居をかまえる家は、周りに住居がない。少し歩いた先に小屋はあるが、そこは農耕のために作られた物置小屋で、人が住めるような建物ではない。しばらく歩いてやっと民家が見える、そんなところにシィゼイユの居がある。昨夜は夜道で、今よりももっと緊張していたので周りを見ている暇などなかったが、シィゼイユに説明されてやっと足許に目がいった。
「ロザの力は攻撃性が強いだろう? こういうところなら、ロザのそんな力で調整を試みても危険は少ないし、だからちょっと訓練をね」
「訓練、ですか」
なだらかとは言い難い足許は、あちこちに凸凹がある。誰かの手が入ったのだとしたら、それはとても不格好で、いい仕事をしたとは言い難い。自然にできた道に見えなくはないが、それにしては見晴らしがよく、しっかりと歩いていれば躓くこともない。
「楽土の魔導師……アノイなら、もっと上手く土地を均すことができるんだろうけど、そんなふうにロザは細やかに力を使わないからね。やればできるくせに、面倒臭がりだから」
「まあ……相性も、ありますし」
「相性?」
「雷雲は天の力に属性があるのだと思います。雷を操れますし。そうすると、地の力に属性がある楽土のように、地に属するものを操ることは、あまりできないでしょう」
「え、そういう法則ってあるの?」
「はっきりとした法則ではありません。歴代の魔導師を調べると、属性のようなものがある、という曖昧な調査結果がでるだけです」
「へぇ……知らなかったな」
だいぶ歳をとって、いろいろなものを知ったつもりでいたのに、とシィゼイユは苦笑する。
「シゼさまの知識は、充分であると、思いますが」
「そうでもないよ? 留学したときなんかは、まあ知識は別として、生活の違いにけっこう戸惑ったしね。なかなか慣れなくて、苦労したよ」
留学、とシィゼイユの口から出て、少しだけどきっとした。ギアはシィゼイユが留学したあとのそれからを、つい最近まで、知る機会がなかった。留学から帰ってきて、どこでなにをしていたのか、まったく知らない。そもそも留学の期間は長かったはずであるのに、たった一年で帰ってきたと聞いたときも、いったい彼になにがあったのか、さっぱり見当がつかなかった。
「あ……あの、シゼさま」
「うん?」
「留学のとき……」
なにがあったのですか。
そう、訊けたらいいのに。
どうしてだろう、訊くことができない。訊いてもいいのか、わからない。シィゼイユは、誰にもなにも告げず、姿を消している。その理由を、幼馴染のロザヴィンは知っている様子だが、それに関して誰にも口を開かない。
だから誰も知らない。
シィゼイユが、突然、留学を決めたこと。長期留学を、短期間で終わらせて帰ってきたこと。帰ってきたのにも関わらず、つい最近まで王城はおろか王都にも姿を現わさず、連絡を絶ち、王都から離れた村にいたこと。そしてまた、姉であり女王の危機には城に帰ってきたものの、居を村にしたままにしていること。
どうしてシィゼイユは、王弟であり公爵である地位を捨てて、隠れ住むように村にいるのだろう。
「ギア」
「はっ……はい!」
「見えてきた。あれが今日最初の往診する家だよ。急ごうか」
訊けなかった。どうして、と一言、口にするだけだ。なにがあったのかと、さり気なく訊けばいいものだ。
それでも、訊けなかった。
あの弱音を、ギアただひとりが、聞いてしまったからだろうか。
『すごく、寂しくなる……心にぽっかり穴が開いて、どうしようもなく締めつけられて、それで、苦しくなる。温かいものを見ていると、感じていると、どうしても……寂しくて悲しくなるんだ』
弱くて強い、シィゼイユがこぼした弱音。
笑みの裏に隠れた、なにも見ていないひどく冷めた横顔。
それらを知っているから、見てしまったから、なにかを知るのが怖いと思ってしまったのかもしれない。
今もそれだけは、変わらない横顔だったから。
変わらないことは嬉しく思うのに、その横顔が変わらないのは、嬉しくないと思った。




