071:本当の強さ
ふと気付くと、真っ暗な闇が広がっていた。目を明けているのか閉じているのかさえ判別できない、真の闇。
「やっぱ、死んだかな。」
伊織は小さく呟いてみる。ここはどこなんだろう。病院、の匂いはしない。
間違いなく、零は生きているだろう。だったらまぁ、どうでもいいか。
自分でも驚くほどさっぱりした気分。幸せ、と言う表現が正しいのか、吹っ切れたと言うべきなのか。守りたいと思える人を守れた充実感なのかもしれない。
寒くも、熱くもない、いうなれば何も感じない温度。例えるなら滑らかな泥の沼に浮かんでいるような不思議な感覚。死というものは冷たく恐ろしいものと思っていたが、意外にも穏やかで静かなものなんだなと、そんな事を考える。
ふと、右腕の怪我を思い出す。動かそうとしてみるが動く気配はなく、代わりに痛みもなかった。
「ま、死んだら痛いもくそもないか。」
真の闇。寝ているのか起きているのか、立っているのか、それすら分からない。もしかすると空に浮遊しているのかもしれないとさえ思う。
死んでも意識はあるんだな、とか、記憶も残っているんだな、とかやけに冷静に分析している自分をおかしく思いながら伊織は闇に身をゆだねて目を閉じる。音も光もない世界がこんなにも心地いいものだと初めて知った。
・・・でも、最後くらいは零の笑顔を見たかったけど。
こんな時でもアイツの事を思い出すんだな、と伊織は苦笑する。最後に見たのは、怯えて泣いている零の顔。よく考えたら、零が自分を見るときはいつも少し怒っているか、怯えているかのどちらかだった。
・・・まぁそれは自業自得か。
自分が零に対してしてきた事を思い出して少し後悔する。一度くらいは自分に向けられた心からの笑顔が見たかったのに、と思う。
寮に女が来ると聞いた時は正直、うっとおしいと思った。だからあえて、春休みが終わるその日まで寮には近づかなかった。でも、あの日、寮に戻ろうと街からの道を歩きながら寮を見上げた時に部屋のバルコニーに出て春の穏やかな陽の光の中で何かを見つけて眩しいほどの笑顔を浮かべた彼女の横顔を見た俺は、その瞬間から彼女のその笑顔を守りたいと、思ったのかもしれない。
あの日のあの笑顔を思い出すと、今でも心の奥が暖かくなる。フェアリーかエンジェルか。いや、俺にとっては女神か。
弱いくせに時々強くて、頭がいいくせにちょっと抜けてて、素直で純粋で、怖がりで泣き虫で天真爛漫で目が放せない。そんな、特別な存在だった。
・・・あいつ、俺のために泣くのかな。・・・責任、感じるんだろうな。
心の中で伊織は思う。この世に神がいるのなら、零の記憶から、あの瞬間の記憶を消してくれと祈る。こんな事で零が心に傷を負う必要はない。
「いてっ!」
その瞬間、ズキン、と右腕に鋭い痛みが走って伊織は思わず声を上げる。
・・・痛い、ってなんだよおい、ちょっと願い事したくらいで・・・。
心の中で伊織は神に文句を言いながら、痛みの走った右腕の方に目をやる。相変わらず闇の中だったが、そこに腕がある、と認識させるには十分な痛みだった。
『・・・くん!伊織くんっ!』
遠くに、零の声が聞こえる気がする。泣いているとすぐに分かる涙声。
・・・やっぱ、泣いてるんだな。
伊織は思う。
・・・それでも、抱きしめて慰めてやりたいって、思うんだな、俺。
「伊織くん!ごめんね、ごめんね・・・」
「・・零ちゃん、お願いだからもう泣かないで・・・先生は大丈夫だって言ってたから。ね?零ちゃんも怪我してるんだよ?ちゃんと横になって、早く治さないと・・・」
「やだ!私ここにいる!」
息も出来ないほどに泣きじゃくって伊織にすがりつく零の姿を見ていると心が焼けるように痛む。どんな言葉を選ぶのが正解なのか、とかおるは思う。
「伊織くん・・・伊織くん・・・」
医師の話によると、伊織に比べれば軽症でも零の身体も無傷ではない。肋骨にひびが入っていたり、背中の内出血が酷く、止まらなければ最悪手術が必要になるかもしれないというのに。
「零ちゃん、あんまり泣くと身体に障るから・・・お願いだから少し横になって身体を休めて?」
自分を庇って傷ついた伊織がもしも目覚めなかったら、零はどれほど自分を責めるのだろうと考えただけで息が出来なくなる。どんな言葉も、今の彼女には届かないような、そんな気さえする。
・・・伊織、零ちゃんの事を本当に守りたいというなら、早く目を覚ませ。
そう心の中で思う。こんな時でさえ、伊織よりも零の事を思ってしまう自分はやはり冷たいのだろう。
「零ちゃん・・・伊織が目を覚ました時にびっくりしちゃうから、そんなに泣かないで・・・」
どう言えばいいのか、かける言葉が見つからない。
「だって・・・伊織君私のせいで!何で私はちょっとしか怪我してないの?半分ずつ怪我すればよかったのに!どうして伊織君・・・」
ベッドサイドに座り込んでぼろぼろ涙をこぼしながら必死に訴える零を、かおるは思わず抱きしめる。
「伊織は零ちゃんを守りたいって、言わなかった?もし僕がそばにいたら、伊織と同じ事をしたよ?零ちゃんが軽症でよかったって、伊織だってそう思ってるよ。」
「そんなのやだよ!どうしてそんな事言うの?私だけ元気でも・・・意味ないのにっ!」
他人のためにこんなにも本気になれる彼女の事を愛おしいと思う。目を真っ赤にして、うまく息ができないほどしゃくりあげながら泣く事など、いつからしていないだろう。
「私、伊織君が元気になるまで、ずっとここにいるっ!」
「・・・そんなしがみついたら痛ェよ、零・・・おはよう。」
「い・・おりくんっ!」
「・・・っ!おいおい、今日の零はえらく積極的だな?」
伊織は全身を駆け抜ける痛みに一瞬顔をしかめて、それでもいつもの毒のある笑みを唇に浮かべて抱きついてきた零の背に左手を回した。
「伊織!・・・」
目を覚ました伊織は視線でかおるに感謝を伝え、かおるもそれを受け取って小さく頷く。
「・・・せっかく姫との感動のご対面なんだ、かおる、ちょっと外してくれよ?」
「・・・仕方ないな。5分だけ、時間をあげるよ。5分後に先生を連れてくるから。」
「あぁ、頼んだぜ、」
頼んだぜ、の言葉の意味を、かおるは頭の中で考えながら部屋を出る。伊織は意味のない言葉は発しない。『頼む』って、何を?
かおるが部屋を出て行くと、伊織は自分にしがみついて泣きじゃくっている零に声をかける。
「・・・零、顔を上げてこっちを見ろ。」
「ごめんね、伊織くん、ごめんね、」
「・・・バカ、お前が謝る必要なんかない。俺が好きでやったことだ。あの時も言ったろ。」
「違・・もん・・・」
一生懸命何か言っているが、もはや何を言っているのか分からないほど。子供のように泣きじゃくる零がどれだけ自身を責めているのだろうと思うと心がずきずきと痛む。それは身体の痛みよりも大きく感じるほど、じわじわと伊織の中に広がった。
「零、頼むから泣きやんでくれ。俺はお前が自分を責める事なんか望んでない。お前はいつも笑っていればいい。それとも零は、俺がお前を泣かせる為に助けたとでも思ってるのか?」
手を伸ばして、泣いている零の頭を撫でる。ただそれだけの事で、悲鳴を上げたくなるほど身体が痛んだ。
「思っ・・て・・ないっ・・けどっ!」
「じゃあ、笑えよ。」
伊織の手が零の頬に触れる。零の瞳からぼろぼろと溢れる温かい涙が伊織の手を濡らす。それでも、涙を堪えようと一生懸命努力しているのが手に取るようにわかる。
「・・・零、」
苦しいほど、愛しくて抱きしめて慰めたいのに、うまく動かない体がもどかしい。
「零、お前の事抱きしめたいから、怪我が治ったら思いっきり抱きしめさせろ。」
「え・・?
「え?じゃねーよ。好きなヤツが目の前で泣いてたら、泣きやむまで抱きしめて慰めたいと思うのが男なんだよ。」
「・・・・え?」
「だから、え?じゃねーって。お前はホントに・・・」
思わず笑ってしまう。
「・・・いってぇ・・・笑うと・・流石にっ」
平気な顔をして話してはいるが、座っているだけでもどこが痛いのかさえ分からないほど体中が悲鳴をあげていたのに、笑うのは命取りかもしれない、と痛みをこらえながら伊織は他人事のように思う。
「いっ?!伊織君っ?!大丈夫っ?ごめん、なさい、私っ!」
「・・・心配すんな。これ以上・・お前を泣かせる様な真似、しねーよ。」
「伊織君・・・」
「だから、もう泣くな。」
その時、お世辞にも控えめとはいえないノックと共に、医師を連れて戻ってきたかおるの姿に伊織は小さく舌打ちする。
「零、いい子だから、部屋に戻って寝て来い。俺もゆっくり休みたいから、そうしてくれたほうが嬉しい。」
「・・・・うん・・・。」
「かおる、姫を頼んだぜ、」
「・・・あぁ、任せろ。」
「・・・私、やっぱりここにいる!お願い、ここにいたいの。」
「零ちゃん、」
「邪魔しないから!大人しくしてるから!お願い。伊織くんの側にいたいの。」
伊織のそばにいたい、と言う零の言葉に、かおると伊織はそれぞれの立場でドキっとする。
「・・・零ちゃん・・・伊織の気持ちを考えてあげて?伊織は零ちゃんに、自分の怪我を見せたくないんだよ。これ以上零ちゃんが自分を責めないように、って。」
「・・・でも・・・」
「零ちゃんだって、怪我してるんだよ?こんな風に歩き回ってちゃいけないくらいの怪我なんだよ?今は平気と思っていても、後で手術しなきゃならなくなるかもしれないって、先生に説明してもらったよね?伊織の事を心配する気持ちは分かるけど、これ以上は零ちゃんのわがままだよ?」
「・・・・かおるにしちゃ、厳しい事言うじゃねーか。姫が泣いて訴えてるってのに。」
二人のやり取りを見ていた伊織が口を挟む。当事者なのに、傍観者の様な口ぶりにかおるは一瞬鋭い視線を投げた。
「・・・わがままでも・・・伊織くんの側にいたいの・・・お願い、泣かないって、約束するから。お願い・・・」
「もう泣いてるくせによく言うぜ。俺のそばにいるってことは、俺の女になるって言う意味でいいのか?」
「・・・伊織!」
非難するようなかおるの声に、伊織はにやりと笑ってみせる。
「冗談だよ。マジになるなって、かおる。・・・零、いい子は寝る時間だからさっさと部屋に戻れ。・・・ナイト様、ちゃんと姫を守れよ。」
「言われなくてもそうするよ。」
かおるは半ば強制的に零を連れて伊織の部屋を出る。『姫を守れ』それはつまり、零がこの部屋に戻ってこないように見張っていろ、と言う意味に他ならない。
あれだけの怪我をしていて、痛みがないわけがない。額から吹き出した油汗を見ればその痛みは容易に想像できた。それでも零を傷つけないために、そんなそぶりさえ見せず平気な顔をしていられる精神力の強さは流石だと思う。
・・・零ちゃんのために無理をした事は褒めてやる。けど・・・それでまた、しばらく目覚めないのなら意味がない。かおるの心に苦く広がる敗北感にも似た感情。自分が同じ立場なら、同じ事が出来るのだろうか?同じように振る舞えるのだろうか?零の事を大切に思う気持ちは負けないと思っているが、それでも今回の一件でほんの少し自信がなくなった。
泣いている零に掛ける言葉さえ見つけられない自分に苛立ちながら、かおるは伊織の部屋を後にした。
はぁ・・・
零ちゃんかわゆす。
そしてイケメンは見かけ(も大事だけど)やっぱりハートだと思うわけです。