062:嵐の前の
週末に飛び込んできた大型の台風が近づいているというニュースに
先週街へ出かけた時にお気に入りの傘を忘れてきたことを思い出した零はため息をついた。
今更取りに行ってもきっともう誰かの手に渡ってしまっているだろう。
傘がないのも困るし、買いに行こうかな・・・
台風が近づいているとはいえ、まだこのあたりの天気は悪くない。
先週かおる君一緒に行ってくれたから、さすがに誘えないよね。
出かける準備をしながら思う。絶対に一人で街へ行くな、と言われているものの、先週散々あちこち回って一日買い物に付き合ってもらったことを思い出すと、二週連続誘うのも気が引ける。
いつものように、かおるは穏やかに微笑みながら零の希望を全て叶えてくれた。少し疲れたと感じる頃に休憩を提案したり、日差しが強くなり始めると木陰へ誘導してくれたり、何も言わなくてもごく自然に提供される快適な時間。
その時は気付かなかったが、こうして思い出すと相手に全く気を遣わせることのない繊細な気遣いに驚かされる。
今日は傘買うだけだし、ぱぱっと行ってこよう。
零は手早く準備を済ませて部屋を出た。
「あら、今日は一人で零ちゃんお出かけ?」
寮を出ようとしたところで、寮母の倉口さんに会う。
「うん!傘買いに行くだけだから。」
「気をつけてね。あ、そうだ、零ちゃんに手紙が来てたわよ。」
「手紙?」
はい、と手渡された手紙は、前に届いた手紙と同じ流れる様な美しい文字。反射的に胸の奥が苦しくなる。
「あ、ありがとう!行ってきます!」
手紙を受け取ってそっと鞄の中に入れる。それだけで少し心が温かくなるような、そんな気持ちになった。
「・・・?」
ふと窓の外に目をやった伊織は寮を出ていく、見慣れた後姿を見つける。気がつくといつも目で追っている、華奢な背中。少し力を入れたら簡単に壊れてしまいそうな気さえする。
あの馬鹿、人の忠告を無視しやがって。
心の中で呟く。
ナイト様はどうしたんだよ。どんな時でも護衛するのがナイトの役目だろうが、と心の中で毒づきながらもバイクのキーを持って部屋を出る。
少し、興味もあった。零が一人でどこへ行って、何をするのか。
一番近い雑貨屋さんって確かこっちだったよね、と心の中で今まで行ったことのある場所を思い出しながら歩く。
そういえば、一人で街へ来るのは初めてかもしれない、と思う。いつも、誰かが一緒だった。
『危ないから、一人で出かけちゃいけないよ、』
かおるにいつも言われる言葉を思い出す。言いつけを破ったという少しの後ろめたさを抱えながらも、なんとなく晴れ晴れとした気持ちにもなる。
一人の時間は嫌いではない。時にはゆっくりと、自分自身の事を考える時間を持つことも必要だ。
・・・あれ?こっちじゃなかったっけ?
たぶんこの場所、と思っていた場所に、思っていた店がない。思い出した。私は方向音痴だったんだった、と心の中で思う。
今までずっと、誰かが一緒にいてくれたから苦労せずに目的地にたどり着いていたから忘れていた。
確かに見覚えのある道なんだけど、と思いながらとりあえず曲がり角を曲がってみるが、やはりお目当ての店は見当たらない。
その代わりに、まだ行ったことのない、新しい店を発見した。
洋服と雑貨、アクセサリーなども置いてあり、少なからず心が踊る。当初の目的地ではなかったがここで十分満足だ。
気付かれぬように後をつけていた伊織は、零が道に迷っているであろうこと、そしておそらく当初の目的の場所ではないところへ行きついて、そのことでテンションが上がっているであろうことを遠巻きに眺めながら苦笑していた。
本当に、目が離せないヤツだ。そばにいても危なっかしいけど、一人ならなおさらだ。
当初の目的だった傘も、気に入ったものが見つかり、おまけにワンピースとネックレスまで買ってしまった。少し大き目の紙袋を受け取って、零は大満足で店を出る。
そして、自分が右から来たのか、左から来たのか分からなくなっていることに気付く。
しばらく左右を見渡すが、さっぱり思い出せない。
・・・方向音痴って不便だよね・・・。たぶん、右っ!
方向音痴にありがちな、「たぶんこっち」が間違えている法則に従い、寮から遠ざかる方向へ歩き出した零を見て、離れた場所で見守っていた伊織は思わず噴き出す。
まるで背中に吹き出しを背負って歩いていると言ってもいいほどに、何を考えているのか手に取るように分かる。これほどに無防備な姫をこれ以上一人で放っておくわけにもいかない。
そう思った伊織がバイクにまたがるのとほぼ同時に、曲がり角の向こうに零の姿が消える。
偶然を装って、声をかけようか。
あてにならない野生の勘を頼りに道を曲がった結果、たぶん知らない道だと気付いた零は少し途方に暮れる。こっちじゃないってことは、逆だったかも、と引き返そうと思った瞬間に後ろから肩を掴まれた。
「ねぇ、君って白金の子だよね?」
驚いて振り向くと、いつか健が言っていた『関わらない方がいい人たち』がそこに立っていた。
「え、あ、あの・・」
「名前、なんていうの?っていうか、とりあえずちょっと付き合ってよ?」
手首をつかまれ、大通りから一本細い道の方へ連れて行かれる。
「ちょ、放して!」
振り払おうとしても、痛いほどの強さで掴まれていて、零の力では到底敵いそうもない。
「嫌っ!放して!やだっ!」
次第に身体が恐怖に支配されていく。
「うるせーな、黙ってろよ。黙らせてやろうか?」
お前みたいなチビ、一発殴れば簡単なんだぜ、と間近に顔をのぞき込まれる。
「泣いちゃって、かわいいねー?おチビちゃん?」
そう言って、一人が零の顎に手をかけた瞬間だった。
「貴様ら、死にたくなければ今すぐ失せろ、」
好きな人が自分の知らない場所でどんな顔を見せているのか、どんなものを見て何を感じるのか、知りたい時もありますよね。




