第7話 意味のわからない魔紋
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「ところで、ジェラード様。ひとつ気になることがございます。奥様の背中に、見たことのない魔紋があるのです」
「えっ……わたしの背中に、魔紋があるのですか?」
クリスティアーナは驚いて目を見開いた。自分の背中など普段見ることはないため、そんなものがあるとは、今までまったく知らなかった。
「はい。ドラゴンの頭にペガサスの翼、そして人魚のような尾ひれを持つ、不思議な幻獣です。ちょうど背中の中央で翼を広げるように浮かんでいます」
「わたしにも魔紋が……」
思わずクリスティアーナの胸が高鳴った。これまで一度たりとも魔法を使えたことはない。それでも魔紋があるというのなら、もしかしたら自分にも何か使える魔法があるのではないか。
「ふむ……そんな魔紋は聞いたこともないな。クリスティアーナ、君は本当に魔法が使えないのだろう?」
「はい。炎も水も風も、どの魔法も使えません。でも……魔紋があるのなら、わたしにも何かできるのでしょうか?」
「それは今のところ何とも言えんな。悪いが、俺にも背中を見せてもらっていいか?」
「はい」
クリスティアーナは隣室へ移り、今度はジェラードにも背中を見せることになった。
「ほぉ……これは確かに綺麗だな。初めて見るが、ずいぶん神秘的だ」
ジェラードはしばらく魔紋を眺めていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「ドラゴンの頭に、ペガサスの翼、それに人魚の尾ひれか。なら、炎と風と水……三つとも試してみるか?」
「えっ、でもわたし、魔法の使い方がわかりません」
「難しく考えなくていい。魔法はまず、起こしたいことを頭の中で思い描くんだ。炎なら、指に小さな火が灯るところを想像してみろ」
言われた通り、クリスティアーナは右手を前に出し、指に火が灯るところを懸命に思い浮かべた。
しかし、いくら待っても何も起こらない。
「……出ません」
「では水だ。そこの空のコップに、水が満ちるところを想像してみろ」
今度は机の上のコップをじっと見つめる。透明な水が底から湧き上がり、縁まで満ちていく光景を頭の中に描いてみたが、やはりコップは空のままだった。
「風もやってみよう。あのカーテンを揺らすつもりで」
クリスティアーナは窓辺のカーテンへ意識を向けた。けれど布はぴくりとも動かない。
三つとも試してみたものの、結局何ひとつ起こらなかった。
「うーん……魔紋は確かにあるのにな。どういう意味を持つものなのか、この魔紋で君に何ができるのかもわからん」
「そう、ですか……」
わずかに膨らんでいた期待がしぼんでいく。
「こんな魔紋があっても、何もできないのなら何の役にも立ちませんね。……申し訳ありません」
クリスティアーナは落胆を隠せず、しゅんと肩を落とした。
「謝ることはない。クリスティアーナのせいじゃないさ。俺の魔力が多すぎるのも俺のせいじゃないのと同じだ。魔法が使えない体質に生まれたなら、自分の努力ではどうにもできん。気にするな」
「そんなことを言われたのは初めてです」
「そうか? 俺はこの思考で生きてきたぞ。例えば、俺の寿命は持って生まれた魔力の多さが原因だが、悩んだところで仕方がない。そういうもんだ、と思えば気にはならない。とにかくだ、クリスティアーナはもっと栄養をつけろ。それじゃあ、抱いたところで骨が折れそうだ」
「つっ……ご、ごめんなさい」
「すぐに謝る癖もやめろ。からかうこともできないよ」
「ごめん……あっ、えぇっと、これから気をつけます」
「早く元気になるんだぞ」
クリスティアーナは小さく頷いた。
(わたしはただの契約妻なのに、ジェラード様は優しいわ……)
クリスティアーナの口元に、自然と小さな笑みが浮かんだ。
ジェラードに言われた通り、しばらくは無理をせず、食べて休むことを優先する日々が続いた。最初は病人食のようだった食事も、少しずつ品数が増えた。料理長が毎日、胃に負担のかからないものを工夫してくれていることもあり、青白かった頬にもわずかながら血色が戻ってきている。
天気のいい日には庭園を散歩するようにもなった。長い時間歩くことはまだできないが、花壇の間をゆっくり歩き、疲れればガゼボで休む。そこで本を読むのが、最近のクリスティアーナの日課になっていた。
穏やかだった。しかし、あまりにも穏やかすぎて、クリスティアーナは次第に落ち着かなくなってきた。
「……何か、お手伝いできることはありませんか?」
ある日、クリスティアーナはとうとうエルダにそう尋ねた。
「お手伝い、でございますか?」
「はい。ずっと食べて、散歩をして、本を読んでいるだけでは申し訳なくて」
「奥様は療養なさることがお仕事でございます」
「でも、もうずいぶん元気になりました」
「でしたら、なおのこと無理をなさらず、そのままもっと元気になってくださいませ」
にっこり笑って断られてしまった。
クリスティアーナは困った。実家では朝から晩まで何かしら仕事があった。自分の部屋でのんびり本を読む時間などほとんどなかったし、何もせず座っていると、それだけで怠けているような気がしてしまう。
その日の午後、廊下を歩いていたクリスティアーナは、壁際に置かれたモップに目を留めた。メイドが掃除の途中でどこかに行ったようだ。窓際の床に少し汚れが残っているのが見えた。
(これくらいなら迷惑にはならないわね)
そう考えてモップを手に取り、床を拭き始めたところで、戻ってきた侍女に見つかった。
「奥様、何をなさっているのですか。お掃除でしたら私がしますから、どうぞお部屋でお休みください」
「でも、もうずいぶん元気になりましたし、少しくらいならお手伝いできると思ったんです」
メイドはモップを受け取りながら苦笑する。
「どうしても何かしたいとおっしゃるのでしたら、刺繍でも読書でもなさってください。これは私の仕事ですから」
そう言われてしまえば、それ以上は強く出られない。クリスティアーナは素直に部屋へ戻った。
(こんなによくしてもらっていいのかしら。わたしは魔法も使えないのに……)
ふと、先ほど医師に言われたことを思い出し、クリスティアーナは鏡台の前に立った。合わせ鏡にして背中を映すと、そこには今まで存在すら知らなかった魔紋が浮かんでいる。
ドラゴンの頭に、ペガサスの翼、人魚を思わせる尾ひれ。火、水、風、それぞれの魔法を象徴する幻獣が、ひとつに組み合わされたような奇妙な姿だった。鏡に映るそれをしばらく見つめてから、クリスティアーナは小さく息を吐いた。
「こんな魔紋があっても意味がないわ。こんなわたしでも、少しはジェラード様のお役に立てたらいいのに……)
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