根に至るもの
広場の中心には、穴があった。
穴、というのは正確ではない。それは落とし穴でも竪穴でもなく、まるで空間そのものが——薄く、別の何かに変わっている部分のようだった。透明な、でも明らかに性質の違う何かが、広場の中心で螺旋を描いている。
霧が、そこへ吸い込まれていく。
すべての霧の流れが——この中心に向かって、ゆっくりと渦を巻いている。
「これが……根の入口?」
「そうだ」
アシュの腕が、激しく反応していた。指がびりびりと震えて、それが全身に伝わっているのか、アシュの体がかすかに揺れている。
「腕が……引っ張られています」
「無理に抵抗しないで。流れに任せて」
「あなたは?」
レナの左目が——光っていた。
霧灯を消しても分かるほど、銀色の光が、左目から溢れ出していた。痛みはない。熱もない。ただ——何かが、応じている。呼んでいる声に、ようやく応じている感覚。
「私も引っ張られてる。一緒に入りましょう」
ノアが先に入った。霧の渦の中へ、白い体が溶けるように消えていく。
レナとアシュは目を合わせた。
「怖いですか」
「怖い」
「私も怖い、ということにしておきます。でも——行きます」
「うん」
二人は同時に、一歩踏み出した。
根の中は——静かだった。
霧がない。光がある——どこからとも知れない、白い光が空間全体に満ちていて、影がない。広い。どこまでも続くような、でも息苦しくない、奇妙な無限感。
そして——記録があった。
壁、というよりも空気の中に、像が浮かんでいる。文字と映像が混在した、何かの記録。人々が生きていた頃の映像——子供たちが走り回る広場、市場の喧噪、夜の灯り。それが静止画のように、空間に浮かんでいる。
「これは……全部、記録ですか」
ノアが答えた。
「白淵は、見たものを覚える。根はその集積場だ。白淵が観てきた全ての記憶が、ここにある」
アシュが前に進んだ。
ある映像の前で、立ち止まった。
工房の映像だった。天井に、ガラスの模様がある。幻影霧の中で見た映像と同じ天井。机に向かった人物が——今度は正面から見える。老人だった。白髪で、でも目が若く、どこか楽しそうに何かを組み上げている。
金属の右腕を。
アシュの右腕と、まったく同じ形の腕を。
「……この人は」
「お前の作り手だ」とノアが言った。
アシュは、動かなかった。
「私は——人間ではない、ということですか」
「お前は人間から作られた。お前の元になった人間がいた。でも今のお前は——その人間でも、ただの機械でもない。白淵の中で、長い時間をかけて変わっていったものだ」
静寂。
アシュが老人の映像を見ていた。その顔に、どんな感情があるのかは——レナには読めなかった。でも、見ていた。長い間、見ていた。
「……この人は、今は」
「ここにいる。白淵が覚えている。もうずっと前に死んだが——記録は残っている」
アシュは静かに、映像の前に膝をついた。
それが何を意味する動作なのかは分からない。でも——なんとなく、レナには邪魔してはいけない気がした。視線を外して、別の映像へ向かった。
レナは歩きながら、映像を見た。
都市の映像。人々の映像。そして——白淵が生まれた瞬間の映像。
地面から霧が湧き出した。最初はほんの少しの霧が、季節をまたぐごとに増えて、街を飲み込んで、空まで届いた。人々が逃げる映像。浮島の建設が始まる映像。そして、島から白淵を見下ろす人々の映像。
その中に——子供がいた。
小さな、レナと同じ左目をした子供。霧が増えていく中で、それでも下を見ている。怖がっていない。むしろ、何かを待つように、じっと白淵を見ている。
その子供の周りに——霧が集まってきた。
穏やかに。ゆっくりと。まるで挨拶するように、霧が子供の体をなでて、それから引いていく。
子供が笑った。
レナは、自分の顔が笑っているのに気づかなかった。
目から——光が漏れているのに気づかなかった。
霧が、語りかけてくる。言葉ではない。でも意味は分かる。
お前は——迷子だった。
白淵の中で、迷子になっていた。
根が育つより先に、根の近くへ来てしまった子供。どこから来たのかも分からない、なぜここにいるのかも分からない、小さな迷子。
だから守った。
壊れないように、届けるために。
選んだわけではない。試したわけでもない。
ただ——迷子が、いたから。
レナの目から、涙が出た。
人前で泣くのが大嫌いな自分が、今ここで泣いている。白淵の根の中で、誰かに見られているかもしれないのに、涙が止まらなかった。
七年間の疑問の答えがあまりにも——拍子抜けするほど単純だったから。
選ばれた存在でも、試される存在でも、使命を持った存在でもない。
ただの迷子が、拾われただけ。
でも——だからこそ、よかった。
なぜか、そう思えた。
左目からの光が、少し和らいだ。
アシュが戻ってきた頃、レナはとっくに涙を拭いていた。
「泣きましたか」
「泣いてない」
「目が赤い」
「霧のせい」
「そうですか。では私も、霧のせいで少し——胸が苦しかったです」
レナはアシュを見た。
表情は相変わらず薄い。でも——何かが、少し、柔らかくなった気がした。
「分かった? 自分のこと」
「少し。全部ではないですが——私を作った人が、何を望んでいたかは、分かりました。白淵の研究をしていた人です。根を探していた。でも辿り着けなかった。だから——私を作った。代わりに行く、道具として」
「道具?」
「最初はそうだったと思います。でも——映像の中の彼は、最後まで私に話しかけていた。道具に話しかける人は、いないでしょう。だから——途中から、道具ではなくなっていたのかもしれない。それが——少し、嬉しい、という感覚に近いものを、今持っています」
レナはアシュの右腕を見た。
黒い金属の手。根の白い光の中で、静かに輝いている。その指が——もう、真下を指していなかった。どの方向も指していない。ただ、自然に、腕の脇に下ろされている。
「腕の指、止まってる」
アシュも右腕を見た。
「……そうですね。目的を果たしたので、止まったのかもしれません」
「これからどうする?」
「……帰りますか。島に」
「うん」
「それから?」
レナは少し考えた。
「分からない。でも——この廃墟の都市の記録とか、根の記録とか、持って帰れるものは持って帰りたい。ガルーンに見せたい。それから——この地図を使って、もっと深く降りられる準備をしたい。今回は記録の断片を見ただけで、まだ全部は分かっていない」
「つまり、また来る、ということですか」
「また来る」
アシュは少しの間、何かを考えるように指を折り曲げた。
「私も——また来る理由が、できました」
「どんな理由?」
「あの老人が研究していた記録が、まだここにあります。白淵の全記録——それを、読み解きたい。彼が辿り着けなかった答えを、私が見つけたい。それが——私の目的になりました。腕の方位針が止まっても、私自身の針が、ここを指している」
レナは少し笑った。
「変な言い方」
「詩的に言おうとしました」
「もう少し練習して」
ノアが二人の前に来て、上を見た。
「行くなら、今がいい。白淵の潮流が上向きになっている。霧の流れに乗れば、浮遊層まで半日で出られる」
「爺さんが心配してるよね」
「そうだな」
「帰ろう」
レナ達は、根の入口へ向けて歩き出した。
白い光の中を、上へ。
廃墟の都市に入ってしばらくして、アシュが聞いた。
「さっき——根の中で何が分かったか、帰りに教えてくれると言いましたね」
レナは歩きながら、少し間を置いた。
「言ったね」
「覚えていました」
二人の間を、発光苔の青白い光が静かに満たしている。幻影霧はもう薄い。帰り道だからか、それとも根の中で何かが変わったからか。
「私が何者か、ということが——思ってたより、ずっと単純だった」とレナは言った。「選ばれた存在とか、使命がある存在とか——そういうのを、どこかで期待してたと思う。怖かったけど、それでも」
「……そうではなかったんですか」
「ただの迷子だった。白淵の深層で迷子になって、白淵が守ってくれた。それだけ。送り出したのも、試したのも、何か大きな目的があったわけじゃない。迷子がいたから、拾った。それだけのことなんだ」
アシュがしばらく黙って歩いた。
「それが——あなたには、良かったのですか」
「うん」
即答だった。
「だってさ——選ばれた理由があるって、重いじゃないですか。私はただ、ここで生きたいだけなんだ。霧を読んで、縄を手繰って、爺さんの小言を聞いて、ノアと口喧嘩して。その延長線上に、白淵を知りたいっていう気持ちがある。それで十分なんだと思う」
「……なるほど」とアシュが言った。
それだけだった。でも何かを考えているらしく、しばらく指を折り曲げていた。
「私も——似たようなことを、根の中で感じました」
「どんなことを?」
「作られた目的があっても——それが全てではない、ということです。あの老人が話しかけ続けた相手は、道具ではなかった。だとすれば——今の私が何を目的にするかは、私が決めていい」
「そうですよ」
「それが——少し、気持ちが軽くなる感じと繋がっているのかもしれません」
レナはアシュの横顔を見た。相変わらず表情は薄い。でも——どこか、さっきより静かな顔をしていた。
廃墟の都市を抜けると、霧の密度が増してきた。帰り道だ。浮遊層まで半日で出られる、とノアは言った。
レナの左目は、もう痛くなかった。銀色の光は消えていない——でも、光の意味が変わった気がした。呼ばれているのではなく、応えている。何かに引かれているのではなく、自分で選んで、そっちを見ている。
白淵が、霧を揺らした。
まるで、また来いと言うように。
まるで、気をつけて帰れと言うように。
レナはその揺れを感じながら、ただ、上へ向かって、歩いた。




