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白淵の記憶

 五百メートルを超えた。

 ここから先は、ガルーンの記録にも断片的にしか情報がない。

 変化は、まず視覚から来た。

 霧灯の光が、妙に屈折し始めた。真っ直ぐ照らしているはずの光が、まるで水の中の光のように揺らいで、遠くのものを見ようとすると輪郭がぼやける。代わりに——霧の奥に、発光する構造物のようなものが見え始めた。

「あれ……建物?」

 霧の中に、影がある。大きな、まっすぐな影。窓のような形の空洞。壁のような面。人工物だ——間違いなく、誰かが作ったもの。でも素材が分からない。石でも木でも金属でもない、白みがかった何か。

「昇物の残骸、でしょうか」

「……いや、違う。浮いてない。固定されてる、何かに」

「ここは昔、地面があった場所だ」

 ノアが静かに言った。

「白淵ができる前——霧が大地を覆う前——ここには都市があった。人間が、空ではなく地の上で生きていた頃の都市が、今も白淵の中に沈んでいる」

 レナは呆然と、霧の奥の影を見た。

 建物だ。

 崩れかけているが、確かに建物だ。屋根が崩落して、壁が半分消えて、でも基礎部分だけは頑固に残って、霧の中に立っている。窓の跡に発光する植物が根を張って、青白い光を放っている。それが幾重にも重なって——まるで幻みたいな、でも確かにそこにある廃墟の街が、霧の向こうに広がっていた。

「これが、かつての世界ですか」

「その一部だ。本物の中心はもっと下にある」

 レナはノアを見た。

「ノア——ガルーンが言っていた幻影霧が出始めるのってここから?」

「そうだ。濃くなってきている。廃墟の中では特に出やすい。吸い込んだと思ったら即座に声をかけろ。一人で幻の中に入るな」

「分かった」

 廃墟の都市の入口にさしかかったところで、ノアがもう一度立ち止まった。

「幻影霧は、見た者の過去に関連した幻を見せる。白淵はここを通ったものの記憶を、全部覚えている。それが染み込んでいる——見えても、追うな」


 廃墟の都市の中に入ると、霧の濃さが増した。発光植物の光が乱反射して、方向感覚が狂う。アシュが腕の方位機能を使って方角を確認しながら、レナ達はゆっくりと前進した。

 最初に幻を見たのは、アシュだった。

 突然立ち止まって、まっすぐ前を見た。

「アシュ。アシュ、聞こえてる?」

 返事がない。焦点が合っていない。右腕の指がぴくぴくと動いている。

 レナはアシュの腕を掴んで、揺さぶった。

「アシュ!」

「——っ、……すみません。何かを——見ていました」

「何を?」

「……工房のようなものです。誰かが、机に向かって、何かを組み上げている。金属の部品を。こちらに背中を向けていて、顔は見えない。でも——あの工房の天井のガラスの模様を、私は知っています。どこかで見たことがある」

 ノアが低く、短く、鳴いた。音というより振動に近い、腹の底に響く声だった。それだけで、アシュの目の焦点が戻った。

「白淵が覚えているお前の記憶が、霧に反応して浮き上がった。お前はかつてここを通ったことがある」

「……私が、ここを」

「ただし——今は先に進め。幻影霧は深くなるほど濃くなる。止まるな」

 レナは息を飲んだ。

 次の瞬間、自分の左目に激痛が走った。

 思わず膝をついた。霧灯を落としそうになるのをアシュが掴む。左目の奥から——光が滲んでくる感じ。暗い場所で突然強い光を受けたような——。

 幻が、来た。

 白い霧の中に、子供がいる。

 五歳か、六歳か——小さな子供が、霧の中で浮いている。眠っているように目を閉じて、何かに包まれているかのように、穏やかな表情で。その子の左目が——薄く光っている。銀色の光が、霧の揺れに合わせて明滅している。

 あの子を、私は知っている。

 わかる、とレナは思った。

 あれが自分だ。

 七年前に——いや、もっと前に、白淵が包んでいた、自分。

 でも——あの子を包んでいる何かは——霧が、意図を持って、子供を囲んでいる。壊れないように。傷つかないように。上へ、上へ、届けるように——。

「……白淵が、送り出したんじゃない」

 レナは呟いた。

「白淵が……守っていた?」

 幻が薄れた。

 レナは地面——廃墟の床、発光苔に覆われた古い石畳——に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。アシュが手を差し出した。黒い金属の手を、レナは掴んだ。

 冷たくない、と思った。

 機械なのに、温かい。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫。なんか、分かった気がする」

「何が?」

「帰りにね。行きましょう。下に行かなきゃ」

 アシュは少し頷いた。それ以上は聞かなかった。



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