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天落ちの右腕

 ガルーンは仕事小屋の奥に、古びた棚をひとつ持っている。

 鍵もない。ただ——誰も、勝手には開けない。それだけのことだ。中に何が入っているのかをレナが知ったのは、師匠に弟子入りして三年目のことだ。白淵の地図だった——正確には「記録」と呼ぶべき書き付けの束で、ガルーン自身が長年の潜降で書き溜めたものと、過去の深潜士たちが残した記録の断片が、ごちゃごちゃに詰め込まれていた。

 その中に、霧眼についての記述があった。

 アシュを連れて戻ったレナに、ガルーンは珍しく驚いた顔をした。少年の右腕を見て、それからアシュの目を見て、それから目を細めた。老人の直感が何かを感じ取ったのが、レナには分かった。

「空から来たってのは本当か?」

「はい。あなたのことは存じ上げませんが——深潜士、ですか?」

「引退した老いぼれだ。腰を下ろせ」

 ガルーンはアシュを棚の前の椅子に座らせて、自分は向かいに腰を下ろした。レナは壁に背中を預けて、二人のやり取りを聞く。ノアは窓の外の縁に乗って、霧の向こうを見ていた。

「その腕——自分で作ったものではないだろう」

「違います。気づいたらついていました。もともとあった腕がどうなったのかも、覚えていません」

「指が示す方向を変えようとしたことは?」

「試してみましたが、変わりません。腕の意志なのか、私の意志なのかも分からない。ただ、下を向いているんです」

 ガルーンは自分の手を見た。皺だらけの、もう霧には入れない手。それから立ち上がって、棚を開けた。

 取り出したのは、一枚の薄い板だった。素材は石とも金属とも違う、レナが見たことのない材質。その表面に、無数の細かい線が刻まれている。文字のようでもあり、地図のようでもある。

「二十八年前、私が深層の九百メートルで拾ってきたものだ。文字は解読できていない。ただ——」

 爺さんは板をアシュの右手の前に置いた。

 黒い金属の指先が、ぴくりと動いた。

 そして指の一つが、板の表面の、特定の線の上に触れた。

 線が、光った。

 レナは思わず立ち上がった。

「えっ——なに今の——」

 ガルーンは静かに言った。声が、ほんの少し重かった。

「……長年、分からなかった。でも——今日、ようやく分かった気がする。この板は地図だ。白淵の内部構造を示した地図。そして——お前の腕は、その地図を読むための鍵だ。違うかもしれない。だが、他に説明がつかない」


 夜になった。

 ガルーンは夕食を三人分——厳密には三人と一匹分、ノアのために干し魚を余分に皿に乗せながら——作って、それから急に咳き込んだ。

 ひどい咳だった。

 以前からだ。一年前から、爺さんの咳は悪くなっている。島の医者に見せているが、よくなる気配はない。白淵の霧を何十年も吸い続けた代償だと、ガルーン自身は苦笑交じりに言う。本人は気にしていないふりをしているが、レナは知っていた。今年の冬は越えられないかもしれない、と医者が言っていたことを。

 咳が収まってから、ガルーンは椅子に深く座り直した。

「レナ」

「……なに」

「お前の左目のことを、ちゃんと話す時期が来た」

 アシュが静かにこちらを見た。ノアは干し魚を咥えたまま、動かなかった。

 ガルーンは棚から今度は手書きの文書を取り出した。かなり古い——紙の色が黄ばんでいる。インクもかすれている。でも文字は読める。

「これはスカイリーフ群島の建国以来の記録の一部だ。白淵の研究記録といってもいい。この中に、霧眼の子供についての記述が三件ある。三件だけだ。千年以上の記録の中で」

「……三件」

「いずれも、白淵の浮遊層に漂っているのを発見された子供だ。記憶がなく、素性が分からず、左目が白く濁っている。発見された後は、それぞれ深潜士か、深潜士の補佐になっている。共通しているのはそれだけだ。でも——ここを見ろ」

 爺さんは文書の一部を指で叩いた。

「三人全員、白淵への潜降中に消えている。深層に入って、帰ってこない。いなくなっている。でも死体も道具も残されていない。まるで——」

「まるで、自分で降りていったみたいに」

 ガルーンは頷いた。

「霧眼の者は、白淵から送り出された子供だと、私は信じている。何のために送り出されたのかは分からない。でも——」

 爺さんの声が、低くなった。

「そのうちの一人が残した記録がある。白淵の深層で声を聞いた、と書いてある。言葉ではない、意志のようなもの。それが言っていたのは——」

 咳が、また出た。

 ガルーンは文書を置いて、咳を手で押さえた。長い。長すぎる。レナは思わず立ち上がったが、爺さんが手で制した。

 収まるまで待った。

 それから、爺さんは静かに言った。

「帰っておいで、と言っていた、そうだ」

 レナは、何も言えなかった。

 左目が、熱い。


 その夜、レナは眠れなかった。

 アシュには仕事小屋の物置部屋を使わせた。ガルーンは自室に引っ込んでいる。ノアは窓枠に丸まって、目を開けているのか閉じているのか分からない顔で外を見ている。

 レナは外に出て、島の端まで歩いた。夜の白淵は昼間とは違う。霧の中に、ぼんやりとした光の粒が浮いている。生物発光だ、とガルーンに教わった。深層にいる発光生物が出す光が、霧に反射して滲んで見える。幻想的で、綺麗で、底知れなくて——怖い。

 でも、引き寄せられる。

 帰っておいで。

 白淵が自分を呼んでいるとして——それは本当に「帰る」ことなのだろうか。自分は本当に白淵の産物なのか。それとも、七年前に白淵に落ちた、ただの子供なのか。

 記憶がない。七年前より前の記憶が、ひとつもない。

 だとしたら——あの七年間のレナは何者だったんだろう。

 後ろから足音がした。軽い、でも確かな足音。

「眠れませんか」

 振り返らずに、レナは答えた。

「あんたもでしょ」

「私は元々あまり眠りません。必要がない、というよりも——眠ると夢を見るので」

「夢?」

「深い場所の夢です。霧の中を、ずっと落ちていく夢。でも怖くはない。むしろ懐かしい感じがします」

 アシュが隣に立った。右腕が夜の光の中で鈍く光っている。

「あんた、本当に記憶ないの?」

「断片的にあります。でも脈絡がない。雨の中を走っている記憶と、誰かの声を聞いた記憶と、この腕が完成した瞬間の感覚——そういったものが、バラバラに。繋がりがない」

「……そっか」

 しばらく、二人とも黙っていた。

 霧が光る。白淵が、静かに息をしている。

「私は白淵へ降りる。あんたを連れていく」

 唐突にそう言って、レナはアシュの顔を見た。

「爺さんはそう長くない。でも、爺さんが死ぬ前に——聞きたいんだ。本当のことを。私が何者なのか。この目が何なのか。そのために、白淵に行く。ガルーンを説得する。あんたはどうする?」

 七年間、ずっとここを見てきた。降りたいと思わなかった日は、一日もなかった。毎朝この霧の中に潜って、毎晩この霧の光を見上げて——それでも降りなかったのは、怖かったからじゃない。一人では降りるべきではないと、何かが言っていたからだ。でも今夜は違う。今夜は、一人じゃない。

 アシュは少し間を置いて、静かに答えた。

「私が白淵へ行くのは、最初から決まっていたことです。あなたが連れていくと言うなら、一人で行くより遥かに良い。断る理由がありません」

「……感情ないの? 普通、もう少し驚くよね、こういう話」

「驚きましたよ。ただ、顔に出ないようです。昔から、と思うのですが——昔のことも覚えていないので、確かめようがない」

 レナは思わず笑ってしまった。

 久しぶりに、笑った気がした。

「変な奴」

「あなたも、相当に変わっています」

「どこが」

「空から降ってきた知らない人間を、何の説明もなく救助して、拾って帰ってくる人間は——普通ではないと思います」

 それは否定できなかった。

「……ノアが危なくないって言ったから」

「あの白い狐ですか。彼は何者なんです?」

「分からない。七年一緒にいるけど、よく分からない。なんか知ってるっぽいけど教えてくれない」

「白淵の生き物、でしょうか」

 レナは少し考えた。

「……そうなのかもしれない。あいつが現れたの、私が孤児院に来たのとほぼ同じ頃なんだ。霧の中から、急に来て。なんか、白淵に縁があるのかもね」

 ノアが、遠くの窓枠から、声なく二人を見つめていた。


 白淵には、時間の流れ方が違う場所がある。深く降りるほど、時間は遅くなる。五百メートルでは数時間の差。千メートルでは数日の差。それより深くへは——誰も帰ってきていないから、分からない。ガルーンの師匠の師匠が書いた記録には、こうある。「白淵の底には、止まった時間がある。そこにいる者たちは、千年前から動いていない」



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