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空から落ちてきた人

 朝の仕事は早い。

 夜明けの鐘が鳴り終わる前に起き出して、島の南端まで走る。装備を確認して、縄の結び目を三回確かめて、霧灯に油を補充する。それからガルーンの仕事小屋に顔を出して、「行ってきます」と言う。たいてい爺さんはまだ寝ているか、渋い顔でスープを飲んでいるかのどちらかだ。

 今朝は後者だった。

「昨日の昇物リストを確認したか」

「しました。座標五番の中層域に金属片が二個。ただしひとつは霧食いがよく出る区域に近い」

「だったら近いほうは後回しにしろ。遠いほうを先に回収してから考えろ」

「分かってます」

「分かってますじゃない。実行しろ」

 ガルーンは皺だらけの手でスープを啜りながら、レナの顔を見ずに言った。七十歳を過ぎて、もう潜れない体になっても、この爺さんの目は鋭い。嘘をついてもすぐバレる。実のところ、金属片のもう一個も回収するつもりでいたレナは、素直に頷いた。

「……分かりました。実行します」

「よし。それと、霧の動きに気をつけろ。最近、深いほうから何か動いている。お前の左目が反応するようなら、即座に引き上げろ」

 左目。

 レナは無意識に指で目尻に触れた。

「……最近また、聞こえるんです。声、じゃないんですけど。なんか、波みたいな感じで」

 ガルーンがスープを置いてから、初めてレナのほうを見た。その視線が少し、重かった。

「強くなっているか」

「前より、はっきりしてる気がします」

 爺さんはしばらく何も言わなかった。また一口スープを飲んで、それから視線を窓の外の霧に向けた。

「今日の仕事が終わったら、話がある」

 それだけだった。

「……分かりました」


 白淵への降下は、大きく分けて三段階ある。

 まず「浮遊層」。

 島から百メートル以内、霧はまだ薄く、光が届く。ここには昇物が流れ着くことが多く、素人の潜り師でも比較的安全に作業できる。レナが今日担当しているのも、基本的にはここだ。

 次に「中層」。

 五百メートル前後。光が激減し、霧が濃くなる。霧食いや霧クラゲが生息している。霧食いは普段は深層に潜んでいて、中層まで上がってくることは稀だが——いない、とは言えない。ここから下は見習いの単独行動は禁止されている——が、ガルーンが一人で送り出すのは、レナを信用しているからでもあり、もう爺さん自身が降りられないからでもある。

 そして「深層」。

 それ以下のすべて。ここまで降りて帰ってきた深潜士は記録に数えるほどしかいない。ガルーンはかつて千二百メートルまで降りたという。今もその記録は破られていない。


 なお、白淵の霧は深くなるほど密度が高くなる。落下物の速度はその密度によって著しく減衰する。遠くから見れば、白淵に何かが落ちる時、まるで水の中に沈むように——ゆっくりと、ゆっくりと消えていくように見える。それが白淵の霧の性質だ。

 レナはロープに体重を乗せ、島の岸壁をゆっくりと降りていった。霧がじわりと体を包む。冷たい、でも不思議と不快ではない。むしろ、水の中に潜るような、慣れ親しんだ感覚だ。

 左目が薄く光を感じる。霧の動きが読める。どこに渦があって、どこに流れが滞っているか。それがぼんやりとした映像のように脳裏に浮かぶ。これが「霧を読む」ということだ。誰にでもある能力ではない。ガルーンが言うには、生まれつき白淵と相性のいい者だけが持てる特殊な感覚だという。


 そして——最近、それが変わってきている。

 以前は「読む」だけだった。霧の流れを感知して、危険を回避する。ただそれだけの、機能的な能力。でも最近は、霧の中に「何か」がある気がする。流れとは別の、意志のようなもの。呼びかけるような、引き寄せるような——。

 振り払うように頭を振った。

 仕事に集中しろ、と自分に言い聞かせる。

 金属片の一つ目は、予定の座標よりやや南に流れていた。霧の流れを読んで先回りし、難なく回収袋に収める。重さはそれほどでもない。辞書二、三冊程度だろうか。表面に古い文字が刻まれているが、判読できない。こういう遺物は港町の骨董商が高値で買ってくれる。

 ロープを手繰りながら二つ目の座標へ移動しようとした時——。

 霧が、揺れた。

 揺れた、というのは比喩だ。実際に霧が動いたのではない。レナの左目が、何かを感知した。深いところから何かが上昇してくる。それも、速い。普通の昇物はゆっくりと浮かんでくるが、これは違う。まるで落ちているかのような、上から下へではなく上へ向かって「落ちている」かのような加速度を持った勢いで——。考えるより先に、体が動いた。

 ロープを掴んで、全力で引っ張る。

 岸壁に張り付いて、頭上を見る。

 雲を突き破って、何かが落ちてきた。

 空から——島のはるか上方、雲の切れ目から、人間の形をした何かが猛烈な速さで落下してくる。浮遊層に突入した瞬間、霧の抵抗を受けてわずかに速度が落ちた。それでも衝撃は凄まじく、岸壁に叩きつけられ、砕いた岩石を巻き散らしながら白淵の中へ消えていった。

「っ……!」

 考えるより先に、縄を投げていた。

 引っかかる感触があった。引く。重い。でも確かに、何かが繋がっている。レナは歯を食いしばりながら、岸壁に足を踏ん張って、渾身の力で縄を引き上げた。

 霧の中から現れたのは、黒いコートを纏った少年だった。

 歳は自分とそう変わらないだろう。薄い金色の髪が霧に濡れている。顔は青白くて、表情がなかった。意識はある——開いた目が、レナを見ている。そして——。

 右腕。

 肘から先が、黒い金属で出来ていた。

 人間の腕ではない。でも機械的というには精緻すぎる。指の関節一つ一つが、まるで本物の骨格のように——むしろ本物より美しいと思えるほど繊細に、組み上げられていた。その腕の表面には細かな傷が刻まれていて、岸壁への衝突の衝撃をそこで受け止めたことが見て取れた。その手が、レナの縄を掴んでいる。

 レナは少年を岸壁に引き寄せながら、思わず言った。

「……なんで空から落ちてきたの」

 少年はレナの言葉を頭の中でじっくりと解読するように時間をかけてから、

「私にも、それがよく分からないんです」と返事した。

 真顔だった。


 名前はアシュ、と言った。

 それ以外のことは——「少し、記憶が混乱しているため」とだけ言って、教えてくれなかった。落下の衝撃で記憶が乱れているのかもしれない、とも言った。

 とはいえ放っておくわけにもいかず、レナはアシュを引き上げて、島の縁に腰を下ろさせた。ノアが霧の中からひょっこりと現れて、アシュの顔をしばらく見てから、ゆっくりと後ろへ下がった。

「ノア、あんたはどう思う」

「危険ではない」

「それだけ?」

「今のところは」

 短い。相変わらず短い返答だが、ノアが危険ではないと言うなら信じていい。この白い狐が何者で何を知っているのかは七年来の謎だが、少なくとも嘘はつかないことは分かっている。

 レナはアシュに向き直った。

「コートの傷は、霧食いにやられたやつじゃない。もっと鋭いものだ。どこから来た?」

「上から来ました。正確には——空の、さらに上から」

「空の上から」

「ええ。ここ、スカイリーフ群島の上空には、雲の層があるでしょう? その上に、もう一層、何かがある。私はそこから降りてきました」

 レナは口を開けたまましばらく言葉が出なかった。

「……嘘ついてる?」

「嘘をついても私に利益はありません」

「じゃあどうして空の上から落ちてきたの。目的は?」

 アシュは少しの間、黙って自分の右腕を見た。黒い金属の手が、ゆっくりと指を折り曲げて、また開く。精緻な動作だった。まるで、考えるために指を動かすかのように。

「根を探しています」

「根?」

「白淵の根。白淵が始まる場所のことを、そう呼ぶらしいと聞きました。霧の全てが生まれ、全てが帰っていく場所。深層のさらに下、白淵の中心——そこを、私は探しています」

 霧の声が、揺れた気がした。

 正確には、レナの左目の奥が、じんと熱くなった。

「……なんで、そんなものを」

「そこに行けば、何かが分かる気がするんです。私が何者なのか。この腕が何なのか。なぜ私が、あの場所にいたのか」

 アシュは右腕を持ち上げて、人差し指を霧の中に向けた。

 黒い金属の指が、静かに真下を指す。

「この腕は、根の方向を指し示します。ずっと、まっすぐ下を」

 レナはその指先を目で追いながら、ゆっくりと息を吸った。

 白淵が、呼んでいる。

 ——昔から、ずっと。



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