半年後の島
秋が来た。
白淵の霧が秋になると少し色が変わる、とガルーンは言っていた。春の霧は薄く金色がかっていて、夏は白く眩しくて、秋は少し灰色を帯びる。冬になると霧が重くなって、島の縁まで上がってくることがある。それが怖くて泣いた、という子供の頃の話を爺さんがしたのは、一度だけだった。
レナは崖の端に腰を下ろして、灰色がかった霧の海を見下ろした。
半年。
根への二度目の潜降から、半年が経った。
この半年でいろいろなことがあった。今年の春、島の医者が「今年の冬は越えられないかもしれない」と言っていたガルーンが、結局冬を越えた。爺さん本人はそんな話は知らないという顔で朝のスープを飲んでいたが、医者のほうが驚いていた。体は戻りきっていないが、短い距離なら歩けるようになった。アシュが金属の筒のメモを全部解読した。セイラが島に居着いて、今はガルーンの仕事を手伝いながら潜降の腕を磨いている。カインからは、二ヶ月に一度、上の層からの伝書が届く。
そして——レナは、ずっと左目の修練をしていた。
「今日はどこまで届いた」
後ろからノアの声がした。振り返らなくても分かる。もう七年以上、この声を聞いている。
「崖の下、三百メートルくらいまで」
「昨日より五十メートル伸びた」
「でもまだ根の入口には届かない」
「七百メートルまで届けば届く。あと四百メートルだ」
レナは息をついた。
「今日の夕方、ガルーンが話があると言っていた」とノアが言った。
「また? この前も話があるって」
「今日は違う。あの棚の一番奥の、触れたことのない包みを取り出していた」
レナは少し、動きが止まった。
ガルーンの棚。鍵のない、でも誰も勝手に開けない棚。その一番奥に、レナが師匠に弟子入りして以来、一度も触れられたことのない包みがあった。布に包まれていて、縄で縛ってある。何度か視線を向けたことはあったが、爺さんが「それは触るな」と一度だけ言ったので、それ以来触っていなかった。
「……何が入ってるんだろ」
「お前が知らないものが入っている。それだけは確かだ」
「それは全部そうじゃないですか」
ノアは答えなかった。尾だけが、秋の風に揺れた。
夕方、全員が仕事小屋に集まった。
レナとアシュとセイラ、それからノア。ガルーンは机の前ではなく、椅子を並べてみんなに向き合う形で座っていた。膝の上に、布に包まれた包みを置いている。
「全員揃ったか」
「揃ってます」とセイラが言った。
ガルーンはしばらく包みを見ていた。それから、ゆっくりと縄を解き始めた。震える手で、でも丁寧に。
布を広げると——中には、薄い本が一冊入っていた。
手記だ。表紙に文字が書いてある。古い字体だが、読める。
レナは目を細めた。
「……白淵探索録、最終記録」
「私の師匠が書いたものだ」とガルーンが言った。「師匠は私に渡す時、こう言った。『お前が根まで辿り着いた時に読め。それより前に読むな』と。私は結局、根まで辿り着けなかった。だから——ずっと、開けられなかった」
「なんで今?」とレナが聞いた。
「お前たちが根まで辿り着いた。だから今だ」
「……師匠は根まで辿り着いたことがあったんですか」
「師匠が最後に潜降した時、七日間降りて、帰ってこなかった。八日目に、縄だけが戻ってきた。縄の先に——この手記が結んであった」
「自分の意志で、そこに留まった」
「そうだ」
少し間を置いて、ガルーンは続けた。
「師匠の名前はカルロ・フォグウォーカーといった」
レナの手が、止まった。
「フォグウォーカー」
「そうだ。お前と同じ苗字だ。師匠も、霧眼を持っていた。だから——私は最初からお前のことを、ただの拾い子だとは思っていなかった。弟子にしたのも、そのためだ」
レナは手記を胸に抱えた。
ガルーンが静かに言った。
「根まで行ってこい。師匠が行って、帰ってこなかった場所まで——お前は行って、帰ってこい」
「帰ってきます」
「約束しろ」
「約束する」
爺さんは頷いた。
それだけだった。
手記を読んだのは、その夜だった。
カルロの手記には、深潜の記録と考察と——そして最後に、根の入口から奥へ進んだ記録が書いてあった。
でも、レナが最も驚いたのは、そこではなかった。
手記の中ほどに、こんな一文があった。
島の東端の丘に、壊れた機械がある。島民は「守り神」と呼んでいる。子供の頃、私はその機械を何度も見に行った。金属の骨格が地面から突き出していて、動かない。でも——表面に刻まれた文字が、廃墟都市で見た文字と同じだった。あれは守り神ではない。白淵の底にいた人間たちが、何かのために作ったものだ。
レナは手記を持って、アシュの部屋の扉を叩いた。
「起きてる?」
「起きています」
「この部分読んで」
アシュが手記を受け取って、しばらく黙って読んだ。
右腕の指先が、文字の上をなぞった。
「……守り神」とアシュが言った。「島の東端の丘にある、壊れた機械」
「知ってる?」
「知っています。ここに来て最初の週に、島を歩き回っていた時に見ました。金属の骨格が土に埋もれていた。でも——」
アシュが右腕を見た。
「触れてみましたが、その時は何も感知しませんでした」
「今なら感知するかも。二巻でヴェロを目覚めさせた後から、腕の感度が上がってるって言ってたじゃない」
「そうですね。根の補正を一度経由したことで、腕の感知精度が変化した可能性はあります。あとは——あの時は一人でした。今回は、あなたの左目と腕が揃っている」
「試してみよう。明日、一緒に行きましょう」
「はい」
翌朝。
東端の丘に行くと、確かにあった。
高さ二メートルほどの金属の骨格が、地面から突き出している。形は——人型に近い。腕があって、胴があって、頭があったはずの場所が、今は欠けている。全体的に錆びていて、植物に覆われていて、でも一部の金属は——今も光沢を保っていた。
島民が「守り神」と呼んでいるのは知っていた。子供の頃、遠巻きに見たことはある。でも近づいたのは、今日が初めてだった。
アシュが骨格の表面に触れた。
右腕が——反応した。
ぼんやりと、でも確かに、光った。
そして——映像が来た。
アシュではなく、レナに。
左目から、直接。
機械が動いていた頃の映像。
骨格ではなく、完全な形で、その機械は——子供を抱いていた。
小さな子供を。泣いている子供を。それをあやすように、金属の腕が動いていた。
映像が消えた。
「……見えましたか」とアシュが聞いた。
「見えた」とレナは答えた。
「私にも、少し。子供を世話している映像が。これは——」
「育てていた」
二人は同時に言った。
「これが——この島の最初の住民を育てた機械だ」
レナは骨格を見た。錆びた、でも確かに誰かが丁寧に作った金属の構造物を。
「白淵の底から逃げてきた子供たちを——この機械が育てた」
「そうだと、思います」
ノアが丘の上に来て、骨格を見た。
長い間、黙っていた。
「……ノア」とレナが言った。「知ってたんですか」
「知っていた」とノアは言った。「でも——お前が自分で見つけるべきだと思っていた」
「いつから知ってたんですか」
「ずっと前から」
「どのくらい前から」
ノアは少しの間、黙った。
「……千年前から」
レナとアシュは、黙ってノアを見た。
ノアが続けた。
「これについては——根の中心まで行った時に、全て分かる。今はそれだけ言っておく」
骨格が、秋の光の中で静かに立っていた。




