ヴェロ
ヴェロが動けるまでになるのに、丸一日かかった。
根の空間の外にいるセイラとアシュに、レナはノアを通じて伝えた。「一日待ってて」と。セイラが「分かった」と伝えてきた。アシュが「私も来ますか」と聞いてきた。「来て」と答えた。
アシュが深層に入ってきた。
ヴェロを見て、黙った。しばらく、右腕の感知で見ていた。
「右腕を、この人の手に触れさせてみてください」
アシュが黒い金属の手を、ヴェロの止まった手に近づけた。
触れた瞬間——右腕が強く光った。
オレンジ色の光が走って、ヴェロの体に広がった。時間が——その体の周囲だけで、速くなった。呼吸が速くなる。顔の表情に変化が生まれる。
「腕が、時間を補正している?」
「根の地図を読む鍵、というだけではないのかもしれません」とアシュが言った。体が少し熱くなっていたが、続けた。
「この人に——工房の老人との接点がある気がします。右腕の光の中に映像が見えます。この人が工房に来ている映像が。老人と、話している映像が」
ヴェロが翌朝、動けるようになった。
アシュの腕のおかげで、ヴェロの周囲だけ時間が通常の速さに戻っていた。
ヴェロは——女性だった。
身長が高く、髪が長い。顔立ちは今の人間と少し違う。戸惑っているような、でも確かに喜んでいるような表情だった。
声が出た。
「……千年、という感覚がない」
発音が少し古かった。でも分かった。
「根の中の言葉は時代を越える」とノアが言った。
ヴェロはノアを見た。
「番か。いるんだな、まだ」
「いる。ずっと」
ヴェロは自分の手を見た。指を折り曲げて開いた。
「千年分動いていないと、こんなに驚くものか。指が動く、ということに」
「慣れるかもしれません」とレナが言った。「私もいろいろ慣れてないことがあったんで」
ヴェロがレナの左目を見た。
「霧眼の子供。お前に話さなければならないことがある。千年待っていたのは、そのためだ」
「聞きます」
ヴェロが息をついた。千年ぶりの呼吸のような息だった。
「言葉で説明するより——見てもらったほうが早い。根の記録を、少しだけ開く」
ヴェロがレナの左目に向けて、何かを向けた。意志のようなもの、白淵の声に近い何かが。
映像が、来た。
言葉ではなく、直接。
大地から霧が湧き出す。最初はほんの少しが、季節をまたぐごとに増えていく。街を飲み込む。人々が逃げる。上へ、上へ。浮島が作られていく。そして——時間が、深いところから止まっていく。
「都市が止まったのは、根から記録が溢れたからです」とヴェロが言った。「なぜ溢れたのか——その原因については、根の中心まで行けば分かる。今日はまだ話す時ではない。ただ——あの日、根の内側に留まるはずの記録が一気に外へ漏れ出した。それが深層に充満して、時間を歪めた。私たちは逃げられなかった」
「あなたは——起きていた」
「根と取引をした。霧眼を持つ者が来る日まで時間を与えてほしいと。条件は——霧眼の子供に、真実を伝えること」
「白淵が記録を蓄えている理由を」
「そうだ」
ヴェロが立ち上がった。
「記録は、読まれなければ意味がない。覚えていても、誰も読まなければ、ただの堆積だ。でも——読む者が来た。それが霧眼を持つ者の意味だ」
「根の中心まで行けますか」
「今日は無理だ。お前の左目はまだ十分に開いていない。半年——長くて一年かかる」
「分かった。また来ます」
「待っている。次に来る時まで——根の記録を整理して、お前たちが読みやすいように準備しておく」
「あんたはどうすんですか。ここにいますか」
ヴェロが止まっている人々を見た。
「この人たちを、時間の中に戻してやりたい。それにはお前の力が要る。次に来る時に、頼む。私はそれまで根の記録の整理をしながら、ここで待っている」
「……ありがとうございます」
ヴェロが少し、眉を動かした。困ったような、でも温かい表情だった。
「千年待ったのだ。少し待ってもらっても文句は言わない」
それから、レナに向けてもう一言だけ付け加えた。
「一つだけ、今日のうちに言っておく。白淵は——今も、ここにいるお前たちを感じている。千年間、ずっと感じ続けていた。それだけは覚えておけ」
「白淵が感じている、というのは——」
「根の中心まで行けば分かる。それだけだ」
根の空間に戻った時、アシュが静かに口を開いた。
「聞いていました。ノアを通じて」
「そうですか」
「……重い話でしたね」
「重い」
「あなたは——どう思いましたか」
レナはしばらく黙って、根の白い光の中を歩いた。
「すごく嫌だと思った。最初に。なんで私だよ、って。見習いの深潜士で、記憶もなくて、何者かも分からない子供が、世界の記録を読む役目って、そんなの重すぎる」
「それは正直な感想だと思います」
「でも——」
レナは前を向いた。
嫌だと思うのと、やらないというのは、別の話だ。重くても、自分にしかできないなら——やる。それだけだ。大げさな話じゃない。自分の出自を知りたいっていう気持ちの延長線上にある話だから。
「やる。また来る。それだけ」
アシュが少しの間、黙って歩いた。
「……私も」
「え?」
「老人が辿り着けなかった場所に、私は来た。でも——老人が何をしようとしていたのかを、最後まで確かめたい。それが今の私の目的です」
「二人で、また来ますか」
「来ます」
「セイラも来ますかね」
「来るでしょう」
「なんで分かるんですか」
「あの人は——深層に来たかった、という気持ちが、ここに来てからずっと顔に出ています。もっと見たい、という顔をしています。来ないという選択肢はないと思います」
レナは思わず笑った。
「アシュ、人のことよく見てるんですね」
「表情の変化を読むのは、私には人より少し時間がかかります。だからよく見ています。見ないと分からないので」
「あんたは分かりやすいほうですよ。口より顔に出ます」
「それは言わないでほしかった」
セイラが根の空間の入口で待っていた。
「どうだった?」と声を出した。今度は届いた——根の外に出たからだ。
「いた。千年止まってた人が。一人、目覚めた」
「……会えたんですか」
「会えた。また来ないといけない」
「また降りる、ということですか」
「そう」
セイラが少し、黙った。
「……また来る理由が、できた気がします」
「深層に用事があると言ってましたね」
セイラが深層の入口の裂け目を見た。暗い、低い呼吸音が聞こえてくる裂け目を。
「根の記録に——止まっている人々に——五年前に深層に入って帰ってこなかった、私の兄がいるかもしれない」
全員が黙った。
「リン・デプスウォーカー、という名前です。単独潜降でした。無謀でした。でも——もし根の記録に残っているなら、見たい。それが、私が深層に来たかった理由です」
セイラが顔を上げた。
泣いてはいなかった。ただ、真剣な顔だった。
「次に来る時——一緒に来ていいですか。根の記録の中で、兄のことを探せますか」
「来て」とレナは言った。「白淵は見たものを覚えている。記録があるかどうかは分からない。でも——探すことはできると思う」
「ありがとう」
「お礼はいい。まだ何もしてないんで」
セイラが少し、表情を緩めた。
「それは私が言いそうな返し方ですね」
「そうですか」
「そうですよ」
ノアが、尾を立てた。
「行くぞ。時間がかかりすぎた。ガルーンが心配している」
三人と一匹が、上に向かって歩き出した時——。
「待て」
ノアが止まった。
全員が振り返った。
ノアが上を見ていた。
「……上から、何かが降りてきている」
「霧食い?」
「違う。人間だ。白淵の潜降者ではない。お前と同じ来方をしている」
最後の言葉は、アシュに向けて。
アシュが右腕を見た。
黒い金属の手が、ゆっくりと、久しぶりに——上を指した。
「……お迎えが来た、ということでしょうか」
誰も、すぐには答えられなかった。




