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もう一度、白淵へ.....

 夜明け前の白淵は、霧が最も薄い。

 光の粒が霧の上層に漂っていて、島の崖から見下ろすとまるで星が地上に降りてきたようだ。レナは毎回この瞬間を好きだと思うし、毎回それを誰にも言わずにいる。

 今日は三人と一匹だった。

 セイラが縄の確認をしながら言った。「前回は縄なしで降りました。六百メートル。今回は縄をつけます。深層は方向が狂うと聞いたので、縄が命綱になる」

「前回縄なしで行った理由は?」とアシュが聞いた。

 セイラは少し間を置いた。

「……急いでいたので」

 それ以上は言わなかった。アシュも聞かなかった。

「さっきから喋り続けてますね」とアシュが言った。

「緊張してるんです」とセイラが言った。「深層は初めてなんで」

「緊張すると喋るタイプですか」

「普段は喋らないほうです。でも一人で降りることが多かったので、声を出さないと自分がどこにいるか分からなくなって——習慣になりました」

「声が、錨になる」

「そういうことだと思います」

 レナは二人のやり取りを聞きながら、縄を蹴った。先頭で降下を始めた。


 浮遊層は問題なく通過した。

 前回と同じ経路を辿る。今回はセイラが加わって三人と一匹——それだけで、心理的な余裕が違う。誰かが注意を払っていない方向を、誰かがカバーできる。

 三百メートル付近で、セイラが「止まって」と言った。

 全員が静止する。

「右斜め下、霧食い一体。小型。縄張りを移動中です。五分待てば通り過ぎます」

「見えるの?」レナが聞いた。

「見えませんよ。霧の動きで分かります。霧食いは前進する時に霧を押しのけて、後ろに小さな渦を作ります。あの渦のパターンが見える」

「右と、もう一体——後ろにいる。こっちの気配に気づいてます。探索中です」

「後ろ?」レナは急いで感知しようとした。——確かに、いる。気づかなかった。

「後ろの個体が私に気づいたら、私が横に逃げます。残りは下に降りてください」

「囮になるの?」

「なります」

 それだけだった。余計な言葉はなかった。

 セイラはすでに動いていた。音もなく、霧の流れを縫うように、後方へ移動している。ナイフを一本抜いて、逆手に持っている。

 ノアがレナの隣に来て、低く短く鳴いた。腹の底に響く、音というより振動に近い声だった。

「信用していい」

 二分後——後方で、霧が大きく揺れた。

「行って」セイラの声が霧の向こうから来た。

 二人と一匹は一気に下へ降下した。五分後、セイラが縄を手繰りながら下から合流してきた。コートの肩に霧食いの引っかいた跡があったが、体は無傷だった。

「後ろの個体が思ったより速かったです。でも大丈夫」

「危なかったって認めてくれれば、私は安心できます」とアシュが言った。

 セイラが少し、口角を上げた。笑い、というより苦笑いに近かった。

「変なところが真面目ですね」

「そう言われます」

「嫌いじゃないです」

 レナは二人を見て、先に行く、と言って縄を蹴った。


 廃墟都市の入口に着いた時、セイラがしばらく動かなかった。

 霧の中に浮かぶ発光植物の光。青白い光が滲んで、全体が水の底のように見える。建物の影が重なって、霧の向こうに消えていく。

「……前回ここまで来た時、どう思いましたか」とセイラが聞いた。

「綺麗だと思った」とレナが答えた。

「こわいとは思わなかったんですか」

「こわかった。でも綺麗でもあった」

 セイラはしばらくその景色を見ていた。

「……南の島に、伝承があります。白淵の深いところに、眠っている者たちがいると。帰ってこなかった者たちが、止まったまま待っていると」

「ガルーンが言っていたことと同じですね」

「だから——」

 セイラが言いかけて、止まった。

「……行きましょう」とだけ言って、先に歩き出した。

 レナはその背中を見た。

 深層に行きたい理由が、少し、見えた気がした。

 そして——霧の「波」が、また、届いた。

 呼んでいる。でもその奥に——やはり、痛みに似た何かがある。

 気のせいだと思おうとした。でも、廃墟都市に入るほど、その感覚は薄れるどころか強くなっていった。

 三人と一匹は廃墟都市に入った。


 幻影霧は、廃墟都市の奥に入るほど濃くなった。

 前回も経験したが、今回は明らかに密度が違う。廃墟の壁から、床から、霧が滲み出してくるような感覚がある。発光植物の光が乱反射して、方向感覚が狂い始める。

 レナは二回幻を見た。最初は孤児院の院長の顔——名前を呼ばれた。二度目はガルーンが降りていく映像——まだ若い、潜れた頃の爺さんが、深い霧の中を降りていく後ろ姿。

 どちらも振り払った。前回より早く払えた。

 アシュが一度止まった。ノアが低く短く鳴いた。それだけで、アシュがはっきりと目を開いた。

「工房の夢を、また。今回は振り返りかけていました」

「深層に入ったら、もっと見えるかもしれない」

「そうかもしれません。……でも今は、行くことが先です」

 アシュが前に進もうとして——もう一度、止まった。

「どうしたの」とレナが聞いた。

 アシュが廃墟の壁を見ていた。崩れかけた壁の、基礎の部分。石畳に接するあたりの、金属の骨格が露出している部分。

「……この金属の構造が」

「なんですか」

「島の東端の守り神の骨格と——やはり、ここの構造物の形が似ています。ガルーンも同じ文字だと言っていましたし、素材も同じかもしれない」

 レナはその金属の骨格を見た。確かに——言われてみれば、守り神の錆びた骨格が持つ独特の曲線と、似た形をしている。

「覚えとく」とレナは言った。

 ノアは何も言わなかった。でも一瞬だけ——その骨格を、長く見た。

 セイラが一度、完全に立ち止まった。

 目が、焦点を失った。

「リン」と呟いた。

 それだけで戻ってきた。

「大丈夫っ?」とレナが聞いた。

「大丈夫です。ここで時間を使うつもりはない。先に行きましょう」

 声が平静だったが——手が、一瞬だけ、拳を作っていた。

 広場に着いた。

 根の入口の渦が——前回より大きくなっていた。霧を吸い込む速度が速い。渦の中心から、白い光が漏れている。

「……中に入るんですか」とセイラが聞いた。

「入る」

「分かりました」

 セイラが右手でナイフの柄に触れた。確認するように。それから手を離した。武器が役に立つ場所ではない、と分かっているのに触れてしまう——そういう動作だった。

 ノアが先に入った。

 レナとアシュとセイラが続いた。



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