第五十二討 オ料理苦労
コトコトと鍋が鳴る。
ぐつぐつと煮える音がする。
ぐらぐらと鳴きながら、黒々とした液体がその濃度を上げていく。
じゅじゅっと液体が金属に当たって蒸発する。
「ちょ、火止めて! 煙出てる、煙出てる!」
背後で起きている惨事に気付いたヨーコが声を上げた。
瓦斯焜炉の上に置かれた両手鍋からは、もうもうと煙が立っている。その中では真っ黒で粘度の高い謎の物体が泡を吹いていた。
ガチン、と焜炉のつまみを切に動かす。液体だった物を沸き立たせていた火は消え、鍋はようやく拷問から解放された。
「なんだい、鍋を見ていろと言うから見ていてあげていたというのに」
「ただ見てて欲しかったわけじゃ無かったんだけど……」
指示通りにしてやったと言うのに、はぁやれやれ、とレンが肩をすくめる。
ダガンッ!
「うわっ、何!?」
背後で大きな音がした。
驚きながら振り返るとそこには、包丁を頭の上まで高く振りかぶるレイナの姿。彼女が睨みつけるのは俎板の上の魚だ。
板の上で寝る可哀想な彼は胴体の真ん中で両断され、今度はその首を狙われていた。その目はヨーコの方を見て、助けを求めているかのように感じる。
「待った、待った、待ったぁっ!」
「なんですの。三枚に下ろせ、と言うから三つに切ってあげているというのに」
「三枚おろしと三分割は違うんだよ……」
大急ぎで止めたヨーコの顔には疲れが見える。
彼女達は二組合同での調理実習の最中であった。皆が布エプロンを装着し、普段の授業とはまた違った雰囲気での勉強である。
良家の令嬢たりとて、自ら料理が出来ずして何が一人前か。それゆえに夕月女学院では調理実習が行われている。だがしかし当然の如く、令嬢がたに料理の経験など有ろうはずがない。
居並ぶお嬢様がたの中にいて、料理が出来るヨーコは貴重な人材の一人。であるが、同じ班となった相手が悪かった。
二司と三郎士。よりにもよって四摂家の二つの家の娘であるレイナとレンが同班となったのだ。
協力しなければ実習にならないというのに、当然のように二人は反目する。ヨーコは一計を案じて、二人それぞれに役割を決めて接触を避けさせたのだ。
そこまでは良かった。だが彼女の考えよりも二人は箱入りだったのである。
レンに火にかけた鍋を見ておいてくれ、と指示をしたら、本当にただ見ているだけで中身を焦がしに焦がして鍋をダメにしてしまった。
レイナに魚を三枚に下ろしてくれ、分からなければ聞いてくれ、と伝えたら、鉞で薪を割るかのように包丁を振り上げた。
結果として、ヨーコは孤軍奮闘する事となる。一人で全部やった方が絶対に早く、調理が楽で、美味しい物が出来るのが間違いない。だがそれでは調理実習にはなり得ない。
もはや彼女は二人に付きっきりの教師状態である。
「これはこうして、それはあーして」
面倒臭そうに、ヨーコから教わる事を嫌がるレイナとレン。だが流石に授業の内容を無視して楽をするわけにはいかない。たとえ気に食わない相手からの指導であっても、ここはグッと耐えなければならないのだ。
「はぁ、まったく。もっと分かりやすく教えてほしいものですわ」
「君は教師に向いてないね、かみ砕くという事が全く出来ていない」
「なんで私に対して言う時だけ息ピッタリなの……?」
親切心と責任感をもって対応していたヨーコに対する、何ともまあ心無い言葉。その程度で彼女はへこたれないが、不良生徒二人を相手にするには少々戦力不足だ。
「レイナちゃんとレンちゃん、またヨーコさんに迷惑をっ」
「はいはい、待った待った。貴女が出ていっちゃダメよ」
着物を襷掛けにして袖を上げているリヨと、羽織を脱いで水色ワンピースだけとなったユウコ。二人は別の班で一緒になっていた。両者とも料理の心得があった事で円滑に迅速に課題料理は完成し、何とも美味しそうな香りを漂わせている。
「で、ですが」
「まあ大丈夫よ、ヨーコなら。打たれ強いもの」
心配そうに眉尻を落とすリヨに、ふふっ、とユウコが笑った。
リヨはレイナとレンを、ユウコはヨーコを。それぞれがそれぞれを良く知っている。だからこそ間に入りに行きたいと考え、放っておけば良いと考えるのだ。
「毎回貴女が出ていったら、あの二人は成長しない。他の繋がりが必要なのよ、まあヨーコには犠牲になってもらいましょ」
「犠牲って……。でもユウコさんが言う事も理解できます。とっても心配ですけど、見守る事にします」
そう言いながらも、リヨは出ていきたい様子でチラチラとヨーコ達の事を見ている。そんな彼女のいじらしい様子をユウコは微笑ましく眺めていた。
「なるほど、分かりましたわ。流石私!」
「ふむ、それなら分かるよ。ボクには簡単な事だね!」
「よ、良かった、分かってくれて……」
初等部よりも小さな子に言い聞かせるほどに、丁寧に簡単に説明した気がする。随分と疲れた表情でヨーコは安堵の溜め息を吐いた。もしかしたら彼女には教員の才能が有るのかもしれない。
ようやくスタート地点に立った三人。
魚の三枚おろしとそれの煮つけ、豆腐切りに刺身の切り分けはヨーコが担当する事にして、レイナには皿の用意と盛り付けを、レンには味噌汁のために湯に味噌をとく事をそれぞれ任せる事にしたのだ。
これで完璧である。
「で、出来たぁ……」
「簡単でしたわ! 私の腕ならば当然ですわ!」
「料理など、ボクの敵ではなかったようだね!」
皿の上の綺麗な盛り付けに、椀の中の素晴らしい湖。
レイナとレンが手掛けたのだ、芸術品のような姿になるのは当然だ。その裏にとある人物の甚大な苦労があったとしても、そんなものは排水溝に流されて消えている。
「良かった、なんとかなったみたいですね」
「ええ、私の言った通りでしょ?ヨーコが疲労でフラフラなのも予想通り」
とりあえず大きな問題が起きなかった事でリヨはホッとした様子で微笑み、自身の予想通りの結果となったユウコは悪戯っぽく笑う。彼女達が見守る中、ヨーコは調理に使った鍋を洗い始めていた。
完成品を誇るレイナとレンは、取り巻きとフアンたちから口々に褒めそやされている。功労者は手柄を全て奪われて、影へと追いやられていた。
まるで社会の縮図だ。
そう考えながら、ヨーコは蛇口をキュッと締めた。




