三十四、蛇
広隆は秘色を抱えて立ち上がった。触手は勢いよく襲いかかってきて地面にめり込んだ。危うく避けた二人だったが、獲物を逃した触手はしゅるしゅると巻き戻り板の中に溶け込んだ。
わずかな時を置いて、再び触手が二人に襲いかかった。
「くそっ」
広隆は片手で刀を抜き触手を払った。切り飛ばされた触手の先がぼとぼとと地面に落ちた。それは地面の上で苦しげにうねっていたが、やがてちろちろと赤い舌を出す黒蛇に姿を変えた。秘色が短い悲鳴をあげた。
広隆は秘色の肩を抱いて走り出した。上空に浮かぶ黒い板は二人の真上にぴったりと張りついて轟音をとどろかせながら追いかけてきた。断続的に触手が襲いかかってきて、切り落とすとその部分は黒蛇になって地面をうめる。
「きゃあっ」
秘色が足をもつれさせて転んだ。
「秘色っ」
広隆が足を止めて振り返る。起き上がろうとする秘色の腕に、数本の触手が絡み付いた。触手は足腰にまで絡み付き、秘色の体が宙に持ち上げられた。
「秘色っ」
広隆は慌てて手を伸ばすが、秘色の手にはわずかに届かなかった。
「広隆っ」
秘色の体が触手と共に板の表面に沈んでいく。秘色は必死にもがくが、抵抗むなしくその全身は黒い板に飲み込まれていった。
完全に秘色を吸収してしまうと、板は辺りを揺るがすほどの雷鳴をとどろかせた。思わず耳をふさいだ広隆の頭上を、黒い板はすごい速さで滑って行った。
「待てっ」
広隆は遠ざかっていく物体に向かって叫んだ。だが、黒い板はどんどん小さくなっていき、まもなく空の向こうに姿を消した。足元を埋め尽くしていた黒蛇も、急に広隆に興味をなくしたようにばらばらと散っていった。
広隆は板の消えた方角をみつめて立ち尽くした。足が震えていた。板に飲み込まれる秘色の姿が目に焼きついて離れなかった。秘色は、死んだのだろうか。あの黒い板に吸収されるとどうなってしまうのか、助ける方法はあるのか、広隆は一生懸命考えようとした。だが、ひょっとしたらまたしても人の死を、身近な者の死を味わってしまったのかもしれないという恐怖が広隆の思考を乱していた。
緋色の最期の姿が目に浮かぶ。
(あの時と同じだ。何もできなかった)
広隆は自分を責めた。黒い板を追いかけなくては、と頭のどこかが命令するが、足がうまく動かない。
(追いかけてどうなる?秘色を助けられるのか?)
広隆はぎゅっと目をつぶった。追いかけるのは怖かった。化物に遭遇するのが怖いのではなく、秘色が死んだとしてその証拠を見せられるのが怖かった。
広隆は長い時間その場に立ち尽くしていた。
どれくらい経ったのか、空を見上げたままでいた広隆は、突然後ろから声をかけられて飛び上がった。
「あれは厄介なものだよ。時折現れて蛇を撒き散らす」
振り返った広隆の真後ろに、赤いチャンチャンコの男の子が立っていた。
「お前は……」
霧の里を出てすぐに会った子供だった。
あの時はまだときわと出会う前だった。なんだかずいぶんと昔のことのような気がした。
子供は広隆を見上げて言った。
「ときわとはぐれたか」
相変わらず子供とは思えないしゃべりかたをする。そういえば、最初に会った時にはこう言われた。「道に迷わぬようにな」。
広隆は子供に尋ねた。
「さっきの黒い板が何なのか知らないか?お前はこの世界のこと、なんでもわかっているんだろう?」
子供の堂々とした態度がそう思わせた。広隆は子供の肩をつかんで揺さぶった。
「教えてくれ。秘色は生きているのか」
子供はすっと目を細めて、口角を吊り上げた。
「生きていたとしたら、どうする」
からかうような口調だった。
「決まっているだろう。助けにいく」
広隆は言った。
「本当か?」
子供はけけけと不気味に笑った。
「あんなおそろしい化物につかまった巫女を助けにいくのか」
「あ、ああ………」
広隆はぞっとして子供から手を放した。子供はにやにやしたまま森の奥を指差した。
「まっすぐ行くと洞窟がある。その中に入って暗いほうを 目指して行けば巫女はみつかるだろう」
「暗いほう………」
「そう、暗いほうだ」
広隆はごくりと唾を飲んだ。目の前の子供の薄気味悪い迫力にのまれそうで、思わず早口になる。
「わかった。俺、行ってみる」
広隆は覚悟を決めて刀をぎゅっとつかんだ。
そして、子供が差し示したほうへと歩を進めようとした。すると、子供が再び広隆の背中に声をかけた。
「本当にいくのか?お前もつかまるかもしれないぞ」
広隆は足を止めた。確かに危険だ。怖くないわけがない。
その感情に追い打ちをかけるように子供が言った。
「このまま見捨てても、誰にもわからないぞ。わしはしゃべらない。おぬしもしゃべらなければ、すべて闇の中だ」
広隆の心臓が大きく跳ねた。そんなことができるものかと、広隆は頭を振った。
子供は愉快そうにけたけた笑った。
広隆は振り向いて子供を見た。この子供も化物ではないだろうか。人間の男の子の姿をしているだけで、正体はおぞましい何かではないのか。
広隆は薄気味悪さをにじませた声で尋ねた。
「お前は、何者だ?」
子供はふと真面目な顔をして答えた。
「わしは何者でもない。ただの幻だ」
広隆は拳をぎゅっと握り、秘色を助けるんだと自分に言い聞かせた。広隆はこれ以上子供の誘惑を聞かなくてすむように走り出した。迷ってしまったら足が動かなくなってしまう気がした。
一刻も早く子供から遠ざかろうとする広隆の耳に、からかうような調子で忠告する声が聞こえた。
「暗いほうを選ぶのだぞ。明るさに惑わされてはならぬ」




