三十五、暗い方へ
洞窟はすぐにみつかった。
緑溢れる森の中で、そこだけが土も石も黒々と光っていた。まるで闇を切り取って嵌め込んだように洞窟の入口は真っ黒で、ブラックホールのようだと広隆は思った。
恐る恐る近付いてみるが、闇の濃さは何も変わらない。この中に足を踏み入れるのかと思うと、さすがの広隆も躊躇した。こんなに暗いのでは中に入ったとしても何も見えないだろう。それでは秘色をみつけることなど不可能だ。
広隆は辺りを見回して適当な枯れ枝をみつけようとした。松明が欲しかったのだが、燃やせそうな木の枝は見当たらなかった。広隆は溜め息をついてもう一度洞窟を見た。
黒々と口を開ける洞窟に入って無事に出てこれるとはとても思えない。本当にこの奥に秘色がいるのだろうか。広隆は子供の言葉を疑った。あの子供の正体もわからないのだ。敵か味方かわからない者の言葉を信じて危険に足を踏み入れていいものだろうか。
(何を今更。ここまで来たっていうのに)
広隆は自分を叱りつけた。
(秘色を助けるんだ)
広隆は目を閉じた。緋色の姿が浮かんできた。この世界に迷い込んだ時、祭壇の上の自分を見て輝くような笑顔を見せた少女。彼女を自分は守れなかった。目の前で死なせてしまった。緋色は死んだ。母も死んだ。父も死んだ。
(これ以上、大切な人に死んでほしくない)
広隆は大きく息を吸い込むと、意を決して闇の中に足を踏み入れた。やわらかい膜を通り抜ける感覚がして、次の瞬間には広隆の周囲は真っ黒く染まった。振り返っても洞窟の外のあかりが見えなかった。手を伸ばしてみても指先に触れるのは光ではなく闇ばかり。
広隆はごくりと唾を飲んだ。それから、用心深く足を踏み出した。何しろ周囲が黒い闇なので、広隆は手探りで洞窟の壁に沿って前に進んだ。闇の中をゆっくりと進んでいくと、ずっと向こうにかすかなあかりが見えた。
広隆は足を速めた。光との間がどんどん縮まっていく。どうやら、この先はふたまたに分かれており、一方の道は明るく、もう一方の道は黒く続いているらしい。広隆は子供の言葉を思い出した。
(暗いほうを選べって言っていたな)
しかし、自分の手さえ見えない闇の中で目にした光にはあらがいがたい魅力があった。
もしも子供の言葉がなければ、広隆は迷わず明るいほうへ進んだだろう。
やがて分かれ道にさしかかった広隆は足を止めて明るい道を見た。長い洞窟が続いていくのが見える。どこからも日は差さないのに明るさあふれる洞窟の奥には何も脅威がないように見えた。
広隆は少し迷ったが、子供の言うことに従って闇の中に進もうとした。だがその時、聞き覚えのある声が響いた。
「かきわ」
驚いて横を向くが誰もいない。だが、声だけが洞窟内に響き続ける。
「かきわ、行っちゃダメだよ」
辺りを見回した広隆は、ふと、光の中に小さな黒蛇がいるのに気付いた。声はその蛇から聞こえていた。間違いなく、ときわの声が。
「かきわ、早くこっちへおいでよ。ぼくはこっちにいるんだよ」
蛇はときわの声でしゃべりながら赤い舌をちろちろ覗かせた。広隆は蛇を睨み付けた。
「俺が蛇の言うことなんて聞くと思うか」
声はときわでも姿が蛇では信じられるはずがない。無視して先へ行こうとする広隆を、蛇は慌てて呼び止めた。
「かきわはだまされているんだよ。そっちは危険なんだ。こっちへおいで。ぼくは安全なところにいて蛇を使って君と話しているんだ」
広隆は再び足を止めた。ときわの声は本当にかきわを案じているようでとても演技とは思えない。ときわの声はさらに続ける。
「こっちへくるんだ。秘色もこっちにいるよ。二人とも無事だ」
広隆の心が動いた。明るいほうへ行けばときわと秘色が待っているんだろうか。
「ぼくを信じて、かきわ」
これは本当にときわの声だ。
広隆は蛇を見た。どうしよう。どちらを信じればいいのだろう。
広隆の迷いを見透かしたようにときわの声が言った。
「ぼく達は別の世界から来た仲間じゃないか。あんな不気味な子供とぼくのどちらを信じるかなんて、悩むことないだろう。こっちへおいで。元の世界に帰ろう。帰る方法がわかったんだよ」
広隆は顔を上げて明るい道の奥を見た。
「だから早く来るんだ」
ときわの声はしきりに明るいほうへ広隆を誘う。広隆は思わず引き寄せられてしまいそうになる足を踏み止めて尋ねた。
「ときわ。じゃあ、元の世界に帰る方法を教えてくれ」
ときわの声は答えた。
「早くこっちへおいで。こっちに来たら教えるよ」
広隆はなおも尋ねた。
「今、聞きたいんだ。どうやって元の世界に帰るんだ。お前はどうやってその方法を知ったんだ?」
広隆は力強く尋ねた。
「お前は誰だ」
「ぼくはときわだよ」
「違う。お前の名前を聞いてるんだ」
ときわの声は乾いた笑い声をたてた。
「ぼくの本当の名前なんて、聞いてどうするんだい?知らないくせに。そんなことどうでもいいじゃないか。ぼくはときわで君はかきわだ。元の名前なんて今は必要ないだろう」
広隆は明るい道の奥に向かって叫んだ。
「確かに、俺は元の世界でのお前の本当の名前を知らない。だけど、元の世界に帰る方法をお前が知っているなら、自分の名前をどうでもいいことだなんて絶対に言わない」
ときわの声は沈黙した。
「俺はかきわじゃない。広隆だ。お前の名前は何だ?」
途端に、洞窟内に甲高い笑い声が響いた。
大きくこだますその笑い声は、ときわの声によく似てはいたが、明らかに悪意を含んだ声だった。
広隆はほーっと息を吐いて暗い道を進みはじめた。危なかった。もう少しでだまされるところだった。
(もう迷わないぞ。暗い道を選べばいいんだ)
広隆は闇の中をひたすら進んでいった。しばらくすると、再び道がふたまたに分かれ、一方は明るく一方は暗かった。
広隆は明るい道のほうにやはり小さな黒蛇がいるのを見た。
「あいにくだな。もうだまされないぞ」
広隆は蛇に向かって言った。蛇はちろちろと赤い舌を出して広隆を見ていた。
さっさと進んでしまおうと踵を返した広隆の背中に、今度は緋色の声がぶつけられた。
「まったく、期待外れだわ」
広隆は思わず振り向いてしまった。もう二度と聞けないはずの声は辺りに大きく響いた。




