十、広隆
唐櫃の蓋を持ち上げると、すぐに懐かしいクッキー缶が目に入った。
広隆はそれを拾い上げ、静かに蓋を開けた。どう見てもがらくたにしかみえないものばかりが詰まっているが、こんなものでもそれなりの思い出を持っている。
広隆はその中から鈴が消えていることを確かめて、蓋を閉めた。
目を閉じて大きく息を吐いた。なにか、大きな仕事をやり遂げた後のような、不思議な充足感があった。しかし、同時に広隆は強い不安も抱いていた。
(俺は、うまくやれただろうか)
自分に向けて問いかけて、それから、広隆はふっと小さく笑った。今の俺、きっとすごく情けない顔をしている。昔みたいに。
広隆には、物心ついた時すでに母親がいなかった。
父親の正広は、毎朝会社に行く前に広隆を育児施設に預け、夜、仕事が終わってから慌てて迎えに来たものだった。
一人で子供を育てるのは大変だ。幼心に、広隆はそう悟っていた。毎日毎日、父のせわしない背中しか見ていなかったからかもしれない。
だから、広隆は仕事に行こうとする正広を引き止めて泣きじゃくったりしたようなことは一度もない。そうすれば、父を困らせることになるのを知っていたし、施設通いにも慣れっこになっていたからだ。
ただ、やはり幼い子供だから、時々は不平が口をついて出そうになることもあった。
そういう時、広隆はまず息を止める。二秒、三秒……苦しくなるまで息を止めて、それからそっと、誰にも気付かれないように静かに息を吐き出す。息を止めている間、広隆はずっと自分に言い聞かせている。言っちゃいけない。言っちゃいけない、と。
人間って、うまく出来ているもんだ。と広隆は思う。どんなことでも、何度も繰り返しているうちに平気になってくる。
ただ、その“慣れる”ということは、成長と呼べるものなのか、あるいは同じところで足踏みしていることなのか、広隆にはわからなかった。
そんなある日、見知らぬ女の人が、広隆を迎えに来た。それが光子だった。正広の会社の後輩と名のった彼女は、それからたびたび広隆を迎えにくるようになった。そして二年後、広隆の小学校入学と同時に、二人は結婚した。その話を切り出された時も、広隆は別に驚きはしなかった。うすうす予想していたことであり、いつか切り出される話だと思っていたから。
広隆はいつものように息を止めた。二秒、三秒……そして、二人に気づかれないようにゆっくりと息を吐き出した。それから顔を上げて、広隆はにっこり笑ってみせた。
「おめでとう」
そんな台詞が言えるくらい、広隆はいい子だった。まだ七才だったくせに、こういう時の広隆はまるで分別ある大人のような顔をしていた。だけど、それは裏を返せばこの年で感情の隠し方を知ってしまっているということでもあった。
この時隠した感情、飲み込んだ言葉は、自分の胸の一番奥にこっそりしまい込んだ。
二度と、開いてはいけない扉の中に。
義母ができたからといって、広隆の生活ががらりと変わるということはなかった。変わったのは、広也が生まれてからだ。
最初、広隆は自分の弟と言われてもなかなか実感がわかなかった。おくるみに包まれた赤ん坊の顔をひょいと覗き込んでみても、たいした感慨はわいてこなかった。
産休が終わって、光子が職場に復帰するようになると、広也はやはり施設に預けられるようになった。知らない場所に連れていかれ、知らない人に手渡され、不安げにもぞもぞしている赤ん坊を見た時、初めて広隆は弟に対してかすかに痛々しいものを感じた。
それから何ヶ月かして、仕事が軌道に乗り出したのか、光子の帰りがじょじょに遅くなっていった。
広隆は一人で家にいることが多くなった。誰もいない家に帰ってきて、もそもそとおやつを食べながら面白くもないテレビと向き合うしかやることがなかった。一人で飲むラムネは全然甘くない。
広隆が学校から帰ってきてから、光子が広也を連れて帰ってくるまでの時間、その間隔が、日に日に長くなっていった。
学校が終わったら、自分が広也を迎えにいって、光子が帰ってくるまでの間面倒をみるという提案を広隆が切り出したのは、彼が四年生になったときのことだった。
光子は子供の広隆に広也を預けるのを最初は嫌がった。だが、広隆は半ば無理矢理その役をはじめた。学校が終わるとまっすぐ施設に行って広也を連れて帰ってくる。夜、光子が帰ってくるまでを、二人で過ごす。広隆は小さな広也が危なくないようちゃんと見張っていたので、後には光子も安心して任せるようになった。
御飯を食べさせたり、寝かしつけたり——二才の幼児の世話はもちろんものすごく大変だったけれども、一人無為に時間を潰すよりはどれだけましか知れなかった。それに、ずっと一緒にいるうちにようやく弟だという実感が、広隆の中で愛情とともにふつふつとわきあがってきた。幼子はよく泣くけれど、よく笑いもする。つられて笑うと、なんだか妙にうれしくなった。
あの頃の家庭の中は、ほかほかと明るかった。小さな広也は広隆によく懐いた。自分からふらふら歩きをして広隆に寄って来たりもした。そのまま、ゆったりとした日々が続くのだろうと思っていた。
正広が命を落とすあの日までは。
広隆は屈み込んで唐櫃の中をあさった。見覚えがあるようなないようながらくたばかりが散乱している。そのがらくたの中に手を突っ込んで、広隆は埋まっていた巾着袋を掘り出した。赤い紐のついた、黄色い巾着袋。中には数十個のビー玉が入っている。
広隆はその巾着を持ったまま納戸を出た。
夜の廊下を静かに渡って、広隆は玄関に向かった。玄関には、広也のスニーカーがなかった。
広隆は黙ってその場に座り込んだ。
(ここで、しばらく待たなきゃならない)
目を閉じた広隆の耳に、さわさわという葉ずれの音がとどいた。




