06
「――では。これより正式に、婚約破棄の手続きを」
ずっと黙って事の成行きを静観していた宰相――シャーロットの父でもあるキース=バロウズが業務的な口調と声で淡々と作業を始めた。
キースは娘同様に淡い水色の髪が印象的な中年の男性だ。如何にも細身で文官めいた風貌は、クールビューティーなシャーロットの父親らしく眼鏡が似合う冷たい美貌。氷のような髪色も相俟って、彼を前にすると「周囲の気温が下がったのでは」と錯覚してしまう。
両家の父親が証人として見届ける中、婚約をした証である古い羊皮紙を確認する。十年以上前の書類は厳重に保管していても月日には逆らえず、淡く黄ばんでいた。
六歳の頃の自分のサインが記憶の中の字よりも拙くて、面映ゆいような恥ずかしいような気分になりつつ、真新しさを示すかのように白い書類を出され、そこに書かれた破棄に関する様々な契約不履行や解消に関する決まり事をよく読んで確認し、羽ペンでサインをして、それぞれの家の印を捺し、宰相が確認して、最後にオーギュストが父ではなく国王として最終確認して承認の印璽を捺し――この瞬間、ウィギストリ王国第三王女イザベラとアルベスト公爵の令息カインの婚約破棄が成立した。
「…後悔はしないな」
「はい。しません。イザベラ様も、婚約の破棄に関しては、後悔などないように思えます」
「そうね。カインの事は好きよ、今でも。だけどそれは、さっきも言った通り、兄様に向ける感情とほぼ同じものなのよ。カインへの気持ちは、愛ではあるけど恋ではないとハッキリ判ってしまったの」
愛さえあれば結婚するには充分な感情だと思われるが、恋の我が儘を選んだイザベラはカインの言葉通り、後悔などない顔をしている。
美しかった。
元々可憐で美しい容姿の姫君ではあったが、無邪気さばかりが前面に出ていた今までのイザベラとは明らかに違う。
一国の姫としてはあまりにも大きな間違いを選択したのだけど、イザベラはそれを承知の上で、たった一度の我が儘に全力を傾けると誓った。その凛とした美しい強さは、カインではなくエリックによって引き出されたもの。
「それにしても、カインがオリヴィア姉様を好きだとは知らなかったわ。…あぁでも、気付かないなりに女の勘が働いていたのかしら。カインが私ではない女性に恋をしていると」
「? どういう意味ですか? イザベラ様。私の想いは、自分で言うのも何ですが、かなり完璧に隠しきれていたはずです」
「そうね。だからビックリしたの、あの夜会では。――カインとオリヴィア姉様は普段あまり接点がないけれど、私達が入学した年、オリヴィア姉様は最高学年だったから、一年だけだけどあの頃は少し接点があったのよね。偶に私やアレックス兄様に誘われて帰りに王宮に遊びに来る時、せっかくだからと一緒の馬車に乗るでしょう? その時、カインはいつも以上に緊張していつも以上にピシッと背筋を伸ばしていたの。私やアレックス兄様相手に今更緊張する訳ないから、「きっと普段は接する機会の少ないオリヴィア姉様が同席している環境に緊張しているのね」って思ってたけど……それだけじゃなかったんだわ。好きな人を前にしていたから、馬車の中なのにあんなに畏まってたんでしょう?」
「え、そうだったのかい? ……確かにあの頃のカインはオリヴィア姉上と一緒の馬車に乗っているせいか少しだけ緊張していたように見えたけど、僕は全然気付かなかったな…」
アレックスは、当時を思い出そうと少しだけ視線を上に向けたが、当時、十三歳の美少年だったカインが、普段は接点などほぼなきに等しいオリヴィアと同じ空間に居る事を緊張しているだけだと思っていたし、あの初々しく畏まった態度はそうとしか思えなかった。
「私自身は気付かなかったけれど、確かにカインの心が私以外に向けられている事を私の中の女の部分が感じ取ったのだわ。だからこそ、余計にカインに恋心を抱けなかった…」
恋をしても空しいだけに終わる。――当時、イザベラも自覚していない女の部分が、そう判断した。
「……私の初恋は、筋金入りですからね」
カインに恋をしても同じ感情は返ってこないと判断したイザベラの中の女の部分は、実に鋭い。
「――それで、陛下」
「……。うむ…、」
「オリヴィア様に求愛しても宜しいですか…!」
カインは必死だった。
若干歯切れの悪い顔で「……。うむ…、」とこちらを向いた国王の態度から、オリヴィアをカインが口説く事にあまり気乗りしないらしい事は明白で。
「駄目ですか、いけませんか、俺如き若造に、五歳も年上で大人で聡明で優しくて気品があって慈愛に満ちて姫の中の姫と謳われてもおかしくないくらい素晴らしいオリヴィア様には到底釣り合いませんか……!?」
色よい返事が欲しいあまり必死過ぎるカインは、青みがかった緑の双眸を切なげに潤ませ、想い人の父親を見詰めた。まるで雨の降る道端で『拾って下さい』と書かれた箱に打ち捨てられた仔犬のよう。きゅーん、わんわん。
オレンジ色の頭から生えていないはずの犬耳がペタリと垂れている幻覚に陥らせるほどいたいけな眼差しで一心に見詰められ、立場上、あまり何事に対しても動揺しない性質の国王ですら、その健気さを前にして一瞬何がしかの罪悪感めいたものを抱いてしまう。
「…………」
カインの仔犬もかくやな必死さを見れば、オリヴィアを本気で好いてくれているのだろうと判る分、どうしたものか、とオーギュストは厳つい顔を僅か顰めた。
カインに不満がある訳ではない。
寧ろ、オーギュストは自分が頼りにしている臣下の一人、財務大臣であるアルベスト公爵――実は学生時代からの悪友である――の息子を中々気に入っている。それは何も「友の息子だから」という単純な理由だけではない。だからイザベラの数ある候補者の中からカインを選んだ。
まず、幼少の頃から「アルベスト家の双子はまるで一対の人形のようだ」と評判だったほど容姿が麗しく、イザベラと並んでも霞まない程度には存在感があって、二人とも絵になるのが良い。何事もバランスや調和は必要だ。
夫婦ともなれば人前で並び立つ場面も多くなる。父親の贔屓目ではなく、イザベラは愛らし過ぎて、並みの貴公子では引き立て役にすらなれない。
イザベラ以上に美しい男など滅多に居ないだろうが、イザベラと寄り添って負けないくらいには整っている方が人心を掌握し易い。見栄えの良さ、というのは人々の関心を大きく集め、好意的に見られ易い。
何より、見た目を裏切って意外と真面目な性分なのも好い。
イザベラは臣籍降嫁する事になるので「元王女」となり、カインはあくまでも公爵でしかないのだが、王女を妻に貰う、というのはやはりプレッシャーも大きいのだろう。努力を惜しまないのは当然にしても、カインの場合、その努力が並大抵のものではない。
国内に嫁げばその分、王宮の催しにも出る機会が多い。公爵の妻であっても、公的な場においてイザベラは「元王女」という目で見られがちだ。姫を娶った男として何かと注目を浴び続ける事になるのは予想出来るし、王族との付き合いも自然深まる。
そのせいか、カインは婚約してからより一層文武に励み、王族しか学ぶ必要のないような事まで自ら望んで勉強するようになったとアルベスト公爵が誇らしげに言ったのを聞いた時、オーギュストは「見込みがある」と、自分の目の確かさを褒めてやりたくなった。
何でもかんでも手当たり次第無暗に学ぶのはかえって効率が悪く愚かだが、カインは自分がこの先も、王国の中枢で生きるであろう未来を確信しているからこそ、貴族男子として必要な教育の先まで手を伸ばしている。ただの公爵ではなく、一国の姫を娶る男として、将来それが必要になると思って。
少々気負い過ぎな面があると思うものの、そのストイックさは微笑ましいし、好感が持てる。何よりカインの素地の高さがなせる技か、あらゆる面でカインは己に課した高水準な教育を着実にものにしていった。
これだけ努力家で優秀で、しかも華があり他人を惹き付けるだけの魅力に富んだ男を将来確実に手元に置けるなら、娘の一人くらい安いものだ。
……だが、それはあくまでも「イザベラの夫」に据える場合を想定しての事。
女でありながら顔に醜くグロテスクな痣を持つオリヴィアに、華のある美しい男を伴侶に迎えるのはあまりにも酷である。
オリヴィアは決して恨み言を口にしないし、王太子が毒を口にせずに済んだのは良かったと心から微笑んで兄の無事を喜んだ芯の強い娘だが、自分の顔に残る毒素に対してどれほど悲しく辛い思いをしているか、武骨な男親のオーギュストでも痛ましいほど感じている。
オーギュストも一国の王故に、子を手駒として扱う非情さを備えているが、親としての愛情もある。
ミランダ、オリヴィア、イザベラ。どの娘にも、出来る限り幸せな結婚をしてほしい。どの娘にも、相応しく上等な男を宛がってやりたい。――その気持ちは本物だから、一度目の結婚が辛い境遇だったオリヴィアの再婚相手には、殊更気を遣う。
カインは優れた男だ。将来有望で文武両道。真面目で努力家。
線の細い、高飛車めいた美貌は垂れ目と姉にはない左目尻下の泣きぼくろのせいで無駄に色っぽく、あたかも遊んでいるように見えるのが難点だが、如何にも女性受けのする、華やかな顔立ちである事は誰もが認める。
カインは目立ち過ぎる。――出来れば目立たずひっそり生きていきたいと願うオリヴィアの夫にするには、あまりにも衆目を集め易い。ただでさえ、自分の顔に多大なコンプレックスを抱くオリヴィアだ。派手で美しい夫など、益々居た堪れないだろう。
それを思うと、カインをイザベラの婚約者として選んだ自分に間違いなかっただけに、今回の件では悔やまれる。
もっとも、あんなに人目のある場所でイザベラが婚約破棄を突き付けて、更に父であるオーギュストにも白紙を願い出た。
オーギュストはイザベラの不始末を詫びると同時に、こちらが開催した夜会で身内が引き起こした醜聞を見せてしまった責任を、人前だからこそちゃんと取らなくては王でいる資格なしと思ったからこそ、事前に何も知らされなかった婚約破棄の申し出を承諾した。――カインにこの娘を与えては申し訳ないという気持ちもあったので。
夜会では裏切られた気分になったものの、それまではオーギュストにとっては誇れる娘であったのに。そんなイザベラ以上に、オリヴィアはオーギュストの自慢だ。その娘をここまで全身全霊欲してくれる男がカインなのは、国王としては有難い。
けれど、父親としては困る。カインが出来過ぎる男なのはよく判っている。オリヴィアがカインの努力に見合うだけの娘である事も。だからこそ、父親として、あまりにも理想的な男がオリヴィアに求愛してくれているのに、肝心のオリヴィアが逃げ出しそうな美しさと立場である男だからこそ、惜し過ぎて困る。
どうにも歯切れの悪い態度を取ってしまうのは、それが原因である。
オリヴィアがただ単に、少々不器量なだけであれば。或いはカインがもう少しだけ、地味な外見の目立たぬ男であれば。オーギュストも迷わず許可を出せただろう。けれど。
オリヴィアは三人の娘の中で顔の作りが一番地味だが、整っていないかと言えば決してそうではない。寧ろ艶やかなミランダ、愛くるしいイザベラに華やかさという点では負けているものの、二人にはない楚々とした清い美しさがある。
故に、毒に爛れた膚が変色し、青やら緑やら肌色とは程遠い色素で埋め尽くされた右半分の顔が醜くければ醜いほど、無事だった左半分の美しさが際立ち、尚更不憫なのだ。それは逆を言えば、無事だった左半分が美しいが故に、毒に侵された右半分の醜さがより引き立っているという意味なのだから。
顔が整っている者ほど意外とコンプレックスが強い。カインが己の軽薄そうな顔立ちを疎んでいる事くらいは知っている。本人は隠しているつもりだろうが、国王なんぞやっている分、こちとら人間観察のプロである。……「今のこやつ、付け髭大作戦などと徒労に終わるだけの下らぬ事を考えているな」と読めるくらいには。
顔にコンプレックスを抱く者同士、案外上手くいきそうな気もするが、カインがもう少し無難で目立たない男であれば……と思わずに居られない。
娘をやっても良いくらい優れた男で、出来るならばオリヴィアを任せたいと思うくらい理想的な男なのに、オリヴィアの難が顔という部分にあるせいで、目立ち過ぎる、優秀過ぎる、という彼の美点がかえってオリヴィアを任せる事に躊躇してしまう原因となるとは! 世の中は何と上手くいかないよう成り立っているものか…。
しかしカインは娘をくれてやるに相応しい男。惜しい。実に惜しい。
返事が煮え切らない理由はこの一点に尽きる。
「お父様…、葛藤するお気持ちはよく判りますわ。オリヴィア姉様が今度こそ幸せな結婚生活を送れる再婚先を、私だって社交場でいろんな殿方を物色しては誰が一番オリヴィア姉様に負担が掛からない相手かを考えておりましたもの。カインにならオリヴィア姉様を任せても安心出来ますから、それが余計に惜しく思われるのでしょう?」
イザベラも察しが悪い訳ではない。オーギュストの葛藤くらいは見抜いている。
自分と十年近く婚約していたカインが実は姉を想っていたなんて知ったらさぞやプライドに傷が付いたはずなのに、今やそれをおくびにも出さないのは、カインを兄のようにしか見られなかったのと、何よりオリヴィアの人徳が大きい。オリヴィアはイザベラにとって、ミランダ同様に尊敬する素晴らしい姉なので。
「父上。カインの気持ちは本物です。その上で、あくまでもカインはオリヴィア姉上に求愛行動を取る許可を、国王陛下にではなく想い人の父親として父上にお願い申し上げているのですよ。オリヴィア姉上がカインの気持ちに応えるかどうかは、また別の話です。許しくらいは、出してあげても宜しいのでは…」
「イザベラ。アレックス。父上を揺さぶろうとするな、私は反対だ」
「兄上…」
「カインが悪い男でない事は私も知っている。だが、カインは良くも悪くも目立つ男だ。オリヴィアが窮屈な思いをするような男である時点で、私はカインを認める事は出来ない」
オリヴィアに関しては一切ブレない男、フェリックス。
何せオリヴィアの初婚も、フェリックスは随分と難を示したそうだ。相手が隣国――ファイスタ公国の王太子で、しかも側妃ではなく正妃でという条件は嫁ぐならかなり良い縁談である。それでも難癖を付けたフェリックスだ。オリヴィアへの愛が重過ぎる。
筋金入りのシスコンであるのは言うまでもないが、理由が理由なだけに、仕方ないと思わせる部分があるのは否めない。彼のオリヴィアへの過保護と庇護欲は、同情と罪悪感の紙一重。切っても切り離せないもの。
何より、オリヴィアの結婚相手は病弱だという噂は噂どまりではなく真実だった。一年の半分以上、寝台から離れられないくらい身体が弱いのだと。
いくら次期大公という立場であっても、言っては悪いがいつ儚くなってもおかしくないような王子に嫁いだところで、もし相手が大公になる前に夭折したら。顔に難のある姫が前王太子妃として、その後もちゃんと宮殿でそのように扱ってもらえるのか。寧ろ病弱というならば、世継ぎをもうける事すら困難なのではないか。そんな相手に嫁いで、オリヴィアは女としての幸せをちゃんと掴み取れるのか。――などなど、フェリックスは輿入れの数日前まで渋っていたとかいないとか。
フェリックスのシスコン伝説として国内ではかなり有名なエピソードの一つであり、上流階級のみならず殆どの国民が知っているという時点で、どれだけフェリックスがオリヴィアを嫁に出したくなかったかが窺い知れる。
「私はそもそも、オリヴィアの最初の結婚も反対していた。結果、私が懸念していた以上の仕打ちをオリヴィアは二年も受けていたのだから……。父上。私は断固反対です。慎ましいスノーフレークのように清楚可憐なオリヴィアに、噎せ返るような大輪の薔薇もかくやなこの男は釣り合いません」
(うぐっ)
フェリックスの容赦ない言葉が、カインの胸をバイオレンスに抉ってくる。
無駄に派手なツラしやがって、と言われた気がしたし、その通りの顔立ちをしているが故に反論も出来ない。
フェリックスがオリヴィアの再婚に関してはオーギュスト以上に手強そう、というテッドと話し合った見解はあながち間違っていない気がする。道は険しい。
オリヴィアの初婚については、フェリックスが反対していると知った時、実はカインはフェリックスを心の中で盛大に応援していた。結局フェリックスの反対もカインの(心の中でフェリックスにしていた)応援も空しく、彼女は人妻になってしまったけれど……。
ただでさえ女性にとっては容姿の致命的な部分に大きな瑕を持つオリヴィアが国内ではなく国外に嫁げたのは、元々、当時のファイスタ公国大公がウィギストリ王国第二王女オリヴィアの評判を耳にして、オリヴィアに興味を持ったのがキッカケである。
オリヴィアも、自身が一国の姫である事を幼い頃から承知していた。自らの顔に努力ではどうしようもない問題がある分、他の要素で補って夫となる人物に少しでも尽くせるようにと、それはそれは並々ならぬ努力をした。
今は他国に嫁いで男児を三人も産み、国母としての務めを立派に果たした第一王女のミランダも教養高くウィギストリ王国一の美女として名を馳せたが、オリヴィアは政略結婚に関して美しさという部分に瑕疵がある分、蛮国と忌み嫌われる南方諸国に嫁がされる事になっても生きていけるよう、周辺及び南方の数ヶ国語を全てマスターし、多岐に渡って学びあらゆる分野で知識を取り入れ、礼儀作法も淑女としての嗜みも完璧だった。
何より一番有名なのは、顔が醜い分、せめて心だけでも美しく清らかでありたい、と常に意識して優しく気品に満ち溢れた姫である事。国民の間でも、オリヴィアの慈善活動による功績とその人柄による人気は高い。
事実、オリヴィアは自分の顔を気にして滅多に人前には姿を現さないし、どうしても人前に出なくてはいけない時は失礼にならない程度に薄いベールを被って顔をぼんやりと隠す。それは醜く残った毒の痕を見せたくないという女心もあるだろうが、何より自分の顔を見た相手の気分を害してしまっては申し訳ないから、という彼女の配慮によるものだ。
そんな彼女の評判は他国にまで渡るほど。
それを知ったファイスタの大公は親交の為にウィギストリを訪れた際、直にオリヴィアと対面し、その心映えに惚れて、「ウチの息子の妻に!」と頼み込んだのである。
顔に難がある娘という事もあり、実際のオーギュストは国外ではなく国内でオリヴィアの夫を見繕う予定だったからその申し出には大層困ったが、
『我が国の王太子は病弱だが、それを自覚しているからこそ政務の勉強に余念がない。オリヴィア姫のように心優しく穏やかな努力家の妻を得れば、お互い境遇が似ているからこそ最大の理解者となり得るのではないかと思っているし、よく気の付く姫君だからこそ病弱な私の息子、ルーベルトをよく支えてくれるだろうと期待も出来る。ルーベルトの妻に、どうか! どうか! オリヴィア姫を! 何とぞウチの息子に!』
……などと選挙活動の如き熱心さで口説かれ、そこまで言うなら大事にしてくれると確約出来るだろう、とオーギュストもとうとう承諾した。
ちなみに、この話が成立したのはオリヴィアが十四、カインは九歳だった。初恋の君の縁談がとうとう決まってしまったと知った夜、カインは女々しく枕を濡らしたのである。
そこまで熱心に口説かれて嫁いだ先で、大事にされるどころか手酷い扱いを二年間も受け続け、ひたすら耐えながらもボロボロに傷付けられる主を見るに見かねた侍女がとうとうオリヴィアの「国元へは知らせないで」と強く頼まれていた約束を破って救援の手紙を出し、そこでようやくオリヴィアの置かれた環境の実態を知る事が出来たのである。
「もっと早くに知らせてくれれば良かったのに」と思ったのは王家の者やカインだけではないだろうが、主に固く口止めされて、板挟みの侍女も相当苦しかったはずだから、一概に責められない。
それに、ファイスタ公国は輿入れ前にきな臭いゴタゴタがあり、結婚する予定だった王太子が病死してしまった事から一時は婚約が白紙になるかと噂されたものの、側妃の産んだ第二王子がすぐさま王太子の座に滑り込み、結局オリヴィアは大公の強い懇願もあってルーベルトの異母弟であるテオバルトに嫁いだ訳なのだが、そのテオバルトがアクの強い人物らしく、顔に醜い痣を持つオリヴィアが自分の正妃になる事を酷く厭って嫌悪した。
オリヴィアが望まれた先で幸せな結婚生活を送れなかったのは、元々の結婚相手であるルーベルトが病没してしまい、急遽夫となる相手が変わった事が一番の要因と言える。
「オリヴィア姫を是非ウチの子の嫁に!」と熱心にかき口説いた大公は、テオバルトが王太子の座に就いて間もなく、突然の死を遂げた。この辺りがまたきな臭い。老衰にしてはまだ若く、大公は享年五十二歳だったのだ。ルーベルトと違って特に病がちという訳でもなかったし、何より死因が謎なのである。怪しい。実に怪しい。
異母兄ルーベルトに引き続き、その喪が明けぬ一年以内に今度は父親の大公が原因不明を死を遂げて、王太子になったばかりのテオバルトはすぐさま大公の座に即位した。ここまで来るといっそ怪し過ぎて疑うなという方が無理なのだが、如何せん確固たる証拠がないらしく、真相は未だ闇の中。
あくまでも交易の為に関係を結んでいるだけの他国の事なので、こっちもあえて深入りはしなかった。いくら娘が嫁いだ先とはいえ、他国の王宮という繊細かつ堅牢な魔窟にはあまり強引に首を突っ込めない。それがキッカケで国同士の友好関係に溝が出来ては意味がないからだ。
それが今となってはオリヴィアを援け出すキッカケを逃した事に繋がって、後悔してもしきれないのだが。
「…………カイン」
「はい…っ」
「そなたの気持ちをオリヴィアが受け入れるかどうかは、確かに別の話だ。…そなたの望みはオリヴィアに恋を告げる許しであったな。……良かろう。我が娘、オリヴィアに求婚する権利を与える。その上でオリヴィアがそなたを選べば、王として、また父として、盛大に祝福し、花嫁支度を調えて、美しい新郎の元へ国一番の花嫁を送り出すと約束しよう」
「! 父上っ、」
「本当ですか!? 本当ですね!? 男に二言はありませんか!? ありませんね!? 男に二言があったら針千本飲ます、と世間ではよく言われているくらいですからね、ありませんよね!!」
興奮のあまり、ありもしない犬耳がピンと立ち、尻尾をブンブン振る勢いでオーギュストに詰め寄るカインだが、その際国王に対してとんでもなく間違った恐ろしい日本の知識をサラッと告げている息子に、父親のカイルが「カイン、お前陛下に対して何たる暴言!?」と蒼褪めた。
針を千本飲ませるという発想の恐ろしさに、想像するだけで喉が痛くなってくる。
「何それ、カイン怖っ! 針千本飲ませるって怖っ! 男は前言撤回したら針を千本飲まないといけないなんて、一体どんな罰なんだ…もうそれ、ただの拷問じゃないか!! 世間ってどこの世間で罷り通ってるんだ、そんな脅し文句!?」
「アレックス兄様ったら怯え過ぎですわよ…カインがそんな残虐な真似、するはずがありませんもの……ねぇ、チョウチョさん」
「そういうイザベラは顔が青白いぞ。大体ここは、廊下とドアの両脇に衛兵が立つ王の執務室だ。蝶はおろか、蟻一匹侵入する隙はない。お前には一体何が見えている」
父親の下した判断に苦虫を噛み潰したような顔をしながら、冷静に妹に突っ込みを入れる。とことんブレないフェリックスである。