第62話 見張りのほうが、客を間違える
人を見分けるというのは、思っているよりずっと難しい。
朝倉恒一は、料理店をやるようになってから、そのことをよく知った。
常連と新規。
静かに一人で飲みたい客と、少し話したい客。
今夜は帰りの白だけで帰る客と、角兎の煮込みまで腰を落ち着ける客。
同じように席へ座っても、その人が何を求めているかは、目線や間や注文の置き方に滲む。
だから逆に言えば、そこを雑に見る人間は、いつか間違える。
今の玻璃亭の外にいる“見張る者”たちも、どうやらその段階へ入り始めていた。
その夜の営業は、店としては悪くなかった。
冷蔵庫前の塩皿。
火を入れる順番。
閉店後の拭き方。
今朝決めたばかりの“玻璃亭の作法”を意識していたせいか、恒一の中にも妙な芯があった。
白いものは寄ってきている。
見張りもいる。
それでも、店の側にももう手順がある。
その違いは、小さいが大きかった。
「……今日は、ちゃんと店の顔」
澪が言った。
火乃坂澪は、パンを切り分けながら、ちらりと恒一を見る。
「今日は?」
恒一が聞き返す。
「今日は、かなり」
「そこまで言う?」
「作法決めたあとだから」
「……」
「腹座ってる」
「そう見える?」
「うん」
「便利な」
「今日はそれでいい」
その返し方に、少しだけ笑いそうになる。
そこへ、扉が開いた。
「ご、ごきげんよう」
東條院紗雪だった。
今日は薄い青藤色のワンピース。
柔らかな色なのに、店へ入った瞬間の視線はかなり鋭かった。
たぶんもう、店の中だけでなく、店の外側を読む癖がついてきている。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷く。
「本日は」
「うん」
「少しだけ、よいお顔ですわね」
「少しだけ?」
「かなり、と申し上げると」
紗雪は少しだけ目を細めた。
「調子に乗りそうですもの」
「厳しいな」
「客ですもの」
「便利な」
「本日は使わせますわ」
そのやり取りも、もはやこの店の呼吸の一つだった。
紗雪は席へ着く前に、さりげなく入口の外を一度だけ見た。
「……一人」
彼女が小さく言う。
「いる?」
恒一が同じく小声で返す。
「ええ」
「いつもの?」
「たぶん」
「……」
「本日は、店の前より少し向こうですわ」
「……」
「見ているのは」
紗雪は視線を戻した。
「人の出入りです」
やはり、店だけではない。
客の線を見ている。
その嫌さを抱えたまま、営業は始まった。
最初に来たのは、あの会社員風の常連だった。
帰りの白と角兎の煮込みの組み合わせが、もう半分ほど習慣になりつつある男性だ。
「こんばんは」
「こんばんは」
恒一が迎える。
「今日はね」
男性は少し笑いながら席へ着く。
「ちょっとだけ早く上がれたから」
「いい夜ですね」
「うん。こういう日にここ寄れると、かなり得した感じする」
「……」
「何?」
「いや」
恒一は少しだけ笑った。
「それ、かなりうれしいです」
「店の人って、そういうの好きでしょ」
「かなり」
「便利な言葉だな」
「最近みんなそれ言うんですよ」
「じゃあ、流行ってるんだ」
その常連が、今日は珍しく食後にも少し長く残っていた。
ワインを一杯だけ追加し、静かにグラスを傾けている。
そこへ、扉の外に、見覚えのない男の影が一瞬だけ止まった。
見張りの男とは別だ。
もう少し若い。
落ち着かない視線。
店の中を見るというより、誰がどこへ座っているかを数えるような見方。
恒一はグラスを拭く手を止めずに、それを視界の端で捉えた。
「……増えた?」
澪が小声で言う。
「たぶん」
恒一も短く返す。
「雑なほう」
「うん」
その時だった。
食後のワインを飲んでいた常連の男性が、ふと財布を確かめてから立ち上がった。
「ちょっと外で電話してきてもいい?」
「もちろんです」
恒一が答える。
「すぐ戻る」
「ごゆっくり」
男性は自然な足取りで店を出た。
その直後。
外にいた若いほうの男が、ほんの一拍遅れて動いた。
完全についていったのではない。
だが、明らかに“その客”を意識して歩幅を合わせた。
「……」
紗雪の指先が、カップの持ち手でぴたりと止まる。
「見た?」
澪が言う。
「見た」
恒一が答える。
「完全に追った」
「……」
「間違えてるな」
澪が低く言った。
常連の男性は、ただの客だ。
もちろん、店にとって大事な常連ではある。
だが、森とも白いものとも、店の裏側とも関係はない。
それを見張りの男は、“この店の関係者かもしれない人間”として誤認したのだ。
「向こう、かなり焦ってる」
紗雪が小さく言う。
「うん」
恒一も頷く。
「客と関係者の区別、雑になってる」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は少しだけ息を吐く。
「そこまで来たか、って」
営業中なので、それ以上は動けない。
だが、店の中の三人の意識は完全に揃っていた。
数分後、常連の男性が戻ってきた。
少しだけ首を傾げている。
だが、怯えているほどではない。
「どうかされました?」
恒一があくまで自然に訊く。
「ん?」
男性は苦笑した。
「いや、別に」
「……」
「なんか、後ろから妙な人が同じ方向歩いてきてさ」
「……」
「こっち振り返ったら、すぐ別のほう行ったけど」
「……」
「銀座もいろんな人いるね」
その言い方は軽かった。
だが、それで十分だった。
見張りの男は、常連に気づかれた。
しかも“妙な人”として。
向こうは相手を見分けるつもりで見ている。
けれど、見る目の雑さのせいで、逆に自分の存在を目立たせている。
それは小さいが、確かな失敗だった。
営業はそのまま続いた。
だが、今夜の店の空気は、昨夜までと少しだけ違う。
向こうは完璧ではない。
焦っている。
そして、客の線を読みたいくせに、客そのものを雑に見ている。
その綻びが、ようやく表へ出始めたのだ。
閉店後。
最後の客を見送り、紗雪もまだ席へ残ったまま、三人はその話をした。
「……やっぱり」
澪が先に言う。
「うん」
恒一が答える。
「向こう、かなり雑」
「ええ」
紗雪も頷く。
「“誰がこの店の本当に近い人間か”を、もう見誤っておりますわ」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は少しだけ笑った。
「今の言い方、ちょっと嬉しかった」
「どうしてですの」
「“本当に近い人間”って」
「……!」
紗雪の頬が、ふっと赤くなる。
「そ、それは」
「うん?」
「店に近い、という意味ですわ」
「わかってる」
「本当にわかっていらっしゃいますの?」
「かなり」
「……」
「何」
「……そういうふうに返されますと」
「困る?」
「困りますの」
そのやり取りを挟みながらも、澪は真面目な顔のままだった。
「でも、使える」
彼女が言う。
「何が」
恒一が訊く。
「向こうが客を間違えるなら」
「……」
「こっちはもっと“普通の客が普通にいる店”を強くしていい」
「……」
「関係者っぽい人間が目立つと、向こうはそこに張る」
「うん」
「でも、店の輪郭がちゃんとしてれば」
「……」
「常連も新規も、全部ただの客に見える」
「……たしかに」
それは、これまでやってきた“店の正面を強くする”やり方が、確かに効いている証拠でもあった。
店がちゃんと店であるほど、向こうは読みづらくなる。
そして、焦る。
焦れば、間違える。
「……ねえ」
紗雪が静かに言う。
「何ですの」
澪が返す。
「本日、少しだけわかりましたわ」
「何が」
「向こうは」
紗雪はカップの縁へ指を添えた。
「お店そのものを理解しているのではなく」
「……」
「“使える場所”として理解したいだけなのですわね」
「……」
「だから、客を間違える」
「……」
「だから、この店の夜の意味を読み切れない」
「……」
その整理は、かなり本質に近かった。
向こうにとって玻璃亭は、あくまで使える場所であってほしい。
だから、客の流れも、店の空気も、最終的には“利用に関わるかどうか”でしか見ていない。
けれど本当の店は違う。
人が来る理由は一つじゃない。
帰りの白に惹かれる人もいれば、角兎を気に入る人もいる。
静かに飲みたい夜もあれば、少しだけ誰かと話したい夜もある。
その複雑さがあるから店になる。
そして、向こうはそこを理解しきれない。
「……そこ、かなり大事だな」
恒一が言う。
「うん」
澪が答える。
「ええ」
紗雪も頷く。
「でしたら」
彼女は静かに続けた。
「なおさら、このお店は“ただの良い店”であり続けるべきですわ」
「……」
「それが、一番向こうに読みづらい」
「……そうだな」
結局、そこへ戻る。
店の意味は、こちらが決める。
普通に見えること。
客が自然に座ること。
帰りの白の湯気がちゃんと湯気であること。
その“普通”こそが、今は一番強いのかもしれない。




